ファイル15 ミステリー研究部の合宿事件

 先日、私はトラックに跳ね飛ばされた。


 だがトラックの速度が比較的緩やか、当たりどころや私の受け身が良かった(受け身をした覚えはないけど)ために、奇跡的に私の怪我は軽かった。


 全身打撲、全身擦り傷、肋骨と右腕と左足の骨にひびが入った程度だ。


 力を入れるたびに痛みを訴える筋肉を黙らせれば、病院内も自由に歩き回れたし、私の入院生活も十日で終わった。


 ただ、入院が終わったからと言って骨折が治るわけでもなく、このままでは夏休みの残りを自宅から一歩も出ずに終わってしまう恐れがあった。


 まあインドア派の私としてはそれでも良かったが、果南が気を利かせてくれた。


 私が最高の療養生活を送るために、自分の別荘へと私を招待してくれたのだ。


 しかも別荘というのが、所在は軽井沢、部屋は広々、お手伝いさん常駐、地下から汲み上げた温泉付き、食事は高級食材が目白押し。


 極めて豪華で、極めて贅沢なものだった。


 いつか読んだ漫画で、お金持ちの友達にたかるのは良くないなんてエピソードがあったが、知ったことではない。


 肝心の友達が良いというのだから良いのだ。


 贅沢バンザイである!


 そう思っていたのが、一時間ほど前まで。


「ほらほら、プロットすらできていないのは我が友モ・ナミだけだ。頑張れボン・クァージュ


 広々とした山河家別荘の広々としたリビングで、果南が檄を飛ばしてくるが、私は頭を抱えたままだった。


「そうは言っても、できなものはできないのよ」


「そうは言っても、我が友モ・ナミがそれを書き上げないと、我がミス研は部活から同好会に格下げされてしまうんだよ?」


「そんなこと言って、私を焦らせないでくれる?」


「では私を安心させてくれたまえ」


 果南が、部室と同じく安楽椅子に座り、優雅にココアを口に運びながら言った。


 この女、家はお金持ちだし、身体はセクシーだし、頭もいいしが、どうやら人をイラつかせることにも秀でているようだ。


 私は内心で悪態をつくが、目の前のノートパソコンのWordには『タイトル:海神島の殺人』とあるだけというのも事実だった。


 私は溜め息をつく。


 さて、私が何をしているかと言えば、ミステリー小説の執筆だ。


 いや、べつに小説家になろうとしているわけではない。


 文化祭に出展するミス研の文集に掲載するための小説を書いているだけだ。


 これまで歴代のミス研は、部員全員がそれぞれ最低一作はミステリー小説をその文集に載せてきたので、私もそれに倣わなければならないわけだ。


 まあ、小説と言っても短編で構わないし、文化祭の開催も再来月なので、私がどれだけ遅筆家でもそれなりの余裕はある――ように見えたので、私も油断していた。


 だが、文化祭の前には定期テストがある。


 となれば、もはや時間的余裕はない。


 そこで、この度の私の療養旅行は、華麗な変貌を遂げてミス研合宿となったのだが、私は遅々として進んでいないというのが今の状況だった。


 特にトリックを考えるのが厄介だ。


「果南はどういうふうにトリックを考えたの?」


 私は、既に短編三本を書き上げている果南にアドバイスを求める。


 しかし、


「ん? 書きたいように書けば、あっという間に出来上がるさ」


 天才の意見は参考にならない。


 となれば、私と同じ凡才に話を聞いてみるのも良いが、


「……………………あ……間違えたっと………………うん……」


 私と同じく、だが黙々と執筆に集中しているアイリに声はかけずらい。


 一応、ト書きは出来上がっているらしいので、私よりずっと余裕はあるはずだが、かなりの集中力を発揮している。


 いつもだったら、自分が読書に没頭していても私たちの会話に割り込んでくるのに。


 いつもと、違う。


 まるで、違う。


 もしかして、この前――


「ふーむ。では、逆に考えたまえ」


 私がアイリを観察していると、不意に果南が口を開いた。


「どうやら我が友モ・ナミは、自分が好きな作品に似た作品を書こうとしている。おそらく、私が先日貸した『すべてがFになる』に影響されたのだろう」


 言われて、私はギクリとする。


 タイトルだけでバレたのか。


 べつに盗作しているわけではないが、そう指摘されたようで恥ずかしくなる。


 だが果南は構わず続ける(ちょっと笑っていたけど)。


「好きなものに憧れ、それに似た作品ができればそれは良いことだ。だが、創作物というのは、自分が作りたいものと作れるものが必ずしも一致しないらしい。ということで私は、ためしに我が友モ・ナミが嫌いなものを参考に書いてみるの勧めてみる」


「……嫌いなもの、ねぇ」


「何かあるかい?」


 私は今まで読んだミステリーを思い返し、嫌い・つまらないと思った作品を思い返す。


 すると、それはすぐに頭に浮かんだが、それは果南の好きなミステリーでもあったので、口にするのははばかられる。


 しかし、


「あるだろう? 例えば、『すべてがFになる』の前に貸したやつとか」


 ……どうやら、お見通しだったらしい。


 なので言う。


「いや、あなたの好みにケチをつけるわけじゃないのよ? 好みは人それぞれだし、あなたはそれでいいと思うのよ。ただ、私にはちょっと……ね。いやだって、あれ、トリックが信じられないわよ。だって、探偵以外の登場人物が全員グルなのよ? そんなのアリ? って普通は思うわよ。なんであれが名作扱いなの? 全員グルだったら、アリバイだって、偽造の証拠だって、密室だって作り放題、やり放題よ。いや、ずっと昔にそういうトリックをやってみせたのが凄いのかもしれないけれど、今の私から見ればやっぱり、そんなのアリ? なのよ。分かる? 同じ作者の他の作品がアンフェアって言われてるらしいけど、私から見れば、こっちのほうがアンフェアよね。それに――」


「ストップ」


 果南が苦笑して私を止める。


 そして、


「どうだい? いっそ全員グルというトリックで、物語を書いてみてみないかい?」


 果南に促され、私は頭を働かせる。


 すると、


「書けるかも……」


 そう思えた。


 かの名作は、必ずしも全員グルという点だけで評価されたわけじゃないだろうし、これほど私が嫌いと思っているのにちゃんと作品を書けるのか不安がないわけじゃないが、それでも書ける、と思えた。


 結末さえ決まってしまえば、こっちのものである。


 私はさっそくキーボードを叩き始めた――が、


よろしいボン。では、それが脱稿すれば、『ミス研オススメのミステリー』の記事もよろしく頼むよ。こちらは最低でも五作品を四百字以上で紹介してくれたまえ」


 果南がにこりと笑って言い、私の指は静止した。


 五作×四百字=二千字……。


 それは、小説一作に比べればずっと少ない字数だが、多い。


 間違いなく多い。


 ……まったく、ミス研はもっと楽な部活だと思ったのに。


 私は改めて息をつき、ふとアイリを眺める。


 相変わらず自身の小説執筆に集中している。


 私と果南にはまるで興味を持たない。


 いや、それどころか、今日のアイリ――いや、最近の凛は妙によそよそしい気がする。


 私との会話も最小限だし、目もろくに合わせてくれない。


 凛はもともと内向的だが、それが一層酷くなり、アイリもまた同じようになってしまった。


「……」


 もしかして――


 私は不安になる。


 もしかして、この前、病院で私がスマホを見たのがバレたのか。


 はたして、あれがどういう写真なのかは分からない。


 だけど私が写真を見たことを凛・アイリは知って、私を警戒しているのかもしれない。


 となると、あの写真は、私を警戒しなければならないほどの意味を持つものなのか……。


「……」


「……あ」


 私がアイリを見つめていると、アイリはその視線に気づいたのか、ふと私と目が合った。


 だが、私はとっさにその目を逸してしまった。


 後ろめたいものがあるかのように。


 ……いや、実際のところ、スマホを覗いた後ろめたさはあったのだが……。


 私は、もう一度だけアイリをちらりと見る。


 しかしアイリは執筆に戻り、集中していた。


 私は息を吐き、少し迷う。


 だが結局は私も執筆に集中することにした。


 幸い、筆もよく進んだし。


 そうして、夜になるころには私の作業もプロット構想が出来上がるまでになったのだが、そこに至るまでの時間は嫌に長く感じた。


 しかも、なんだか心の中にモヤが溜まっていくような気もした。


 重い重いモヤが――。


 そのせいか、夜の食事会も、眺めの良い露天風呂も、なんだか楽しめなかった。


 果南が空気を読まずに、空気を盛り上げようとゲーム大会も開催してくれたが、私はその流れに乗り切れなかった。


 私は、ゲームもそこそこに「身体が痛む」と嘘をつき、分け与えられた自室に引っ込んだ。


 果南に悪い気がしたが、アイリと一緒にいるのが辛くなってきたのだ。


 私がアイリを意識してしまったために、私までもアイリに対してよそよそしくしてしまい、終いにはアイリとの会話が本当になくなってしまったのだ。


 だから私は逃げた。


 部屋の電気をつけず、ベッドに潜った。


 ベッドは程よい低反発だったが、できることならそのスプリングの底に私の全身を沈めて欲しかった。


 そうすれば、心のモヤもどこかへ追い出され、落ち着くと思った。


 無論そんなことはなく、むしろ静寂が私の心を乱す。


 不必要に脳が回転数を上げる。


 余計なことを考え出す。


 写真のことを考え出す。


 私はアイリと凛が同一人物であることは間違いないと思っている。


 だが、ならば写真はなんだ?


 まるで凛が、私とは違う家で育ったようではないか。


 しかし私は確かに凛が赤ん坊だった記憶がある。


 散々一緒に遊んだ記憶がある。


 それが嘘だと言うのか?


 そんなわけない。


 きっと私が知らないところで、ご近所さんと記念撮影でもしたのだろう。


 そうに違いない。


 本当にそうか?


 あの写真は、本当の家族のようだった。


 いや待て。


 確か萌が、アイリに似た人物を二人見たと言った。


 その人物のどちらかが、あの写真の娘では?


 それならば私が知らない写真があってもおかしくはない。


 だが、そうだとしても、なぜ凛のスマホにその写真がある?


 凛と知り合いだから?


 だが、凛の知り合いに、凛と同じ顔の人物がいるか?


 いない。


 私は知らない。


 もしいるとすれば――


 それは――


 アイリ――?


「鈴先輩、いいですか?」


 突然ノックがして、アイリの声がした。


 私は肩をびくりとさせ、そのせいで身体全体に痛みが走ったが、声は我慢した。


 そして、このまま狸寝入りしようかと迷ったが、結局は「いいよ」と扉へ声をかけた。


「失礼します」


 アイリは言って入室してきたが、私は顔を見せなかった。


 まだ、気まずく、心臓が異様な脈を打っていたからだ。


「……なに?」


 私はぶっきらぼうに問う。


 だがアイリは、自分で入ってきたくせに、なぜか黙り込んでしまった。


 それも十秒、二十秒と。


 出ていった様子もなく、ただ黙っていた。


 私もさすがに訝しみ、アイリのほうに顔を向ける――と、さらに訝しむことになった。


 というのも、アイリの両腕には、山河家のふかふかで大きな枕が収まっていたのだ。


 この状況は、なんだかまるで――


「あの……鈴先輩……」


 私がアイリの姿を見ると、アイリは意を決したのか、口を開いた。


 そして――


「きききき今日、いいいいいい一緒に寝てもいいですか?」


「………………えっと………………、一緒に……寝る?」


 さっきまでの気まずい雰囲気はどこへやら。


 かなりの仲良しじゃないと不可能なことをお願いされてしまった。


「べべべべ別にやましい意味じゃないです! ほほほほほ本当に、たたたただ横で一緒に並んで寝るだけです! ゆゆゆゆ指一本触れませんし、もももももし指が触れたら、そそそそその指をへし折ってくれても大丈夫です!」


 アイリはバグったロボになって言う。


 しかも暗闇でもよく分かるほど恥ずかしそうな顔をしている。


 馬鹿みたいに、面白く、可愛い顔をしている。


 いつものアイリの顔をしている。


 いつものアイリだ。


 さて、こんなとき、いつもの私はどう返答していただろうか?


 そんなの嫌だ――。だったらあなたは床で寝て――。あなたと寝るくらいなら果南と寝たい――。ここで寝てもいいけど、私はあなたの部屋で寝るわ――。


 まあ、どれもアリだ。


 全員がグルというトリックに比べれば、どれもアリだ。


 だから私は適当に、


「いいわよ」


 そう言った。


 だがアイリは、私の返答が意外だったのか、「え?」と呆然とした。


「早くしなさい。じゃなかったら帰りなさい」


 だから私はさらに、厳しい口調で言った。


 するとアイリは「は、はい」と慌てた様子でベッドに駆け寄ってきた。


 私はアイリのためにスペースを作り、アイリが「すみません」と言いながら、そこに入り込む。


 もし私の自宅ベッドなら高い人口密度になってしまうが、山河家のなら問題ない。


 アイリは小さく「えへへ」と言いながら、横になり、私と視線を合わせる。


「……どうしたの、急に」


「……急にって……。私はいつでも鈴先輩と寝たいなって思ってますよ?」


「その寝るって、どういう意味で?」


「どどどどどういう意味って……いいいえ、べべべべべつになんでもないですよ?」


 アイリは、やはりいつもアイリだった。


 私は安堵し、気づけば心のモヤもほとんどどこかへ消え失せた。


 少しは残っているが。


「……」


「……」


 会話がなくなってしまった。


 ただ暗闇で、視線を合わせるだけで、また気まずくなってくる。


 ……もう、寝てしまおうか。


 そのほうが楽だ。


 私はまた逃げることを選ぼうかと思うが、


「あの……鈴先輩……」


 アイリが口を開いた。


「実は、謝りたいことがあるんです」


「謝りたい……こと?」


「はい……」


 アイリは神妙な面持ちになる。


 ――謝りたいこと。


 そう言われても、私はしょっちゅうアイリに迷惑をかけられているが、そのたびに暴力でチャラにしている。


 いまさら謝られるようなことがあっただろうか。


 それとも、なにか、写真の件で?


 私の心に、またモヤがかかってくる。


「……鈴先輩。この前、事故にあって、意識を失っていたじゃないですか」


 アイリは語りだす。


 目線は逸して。


 内容は、病院でのことだった。


「それで……あの、実は私あのとき……」


 ――私がスマホを覗き見していたことに気づいていた?


 それで何かを告白して謝罪しようとしている?


 そうなのか?


 そうかもしれない。


 私はそう覚悟する。


 だが、


「あのとき、私――」


 アイリは、


「寝ている鈴先輩にキスしちゃったんです――!」


 そんなことを言った。


「………………え? ………………え?」


「キス――しちゃったんです――!」


「………………え? ………………え?」


 アイリは二度言うが、私は何を言われたかよく分からず、よく考えた結果、結局二度に渡り「え? え?」と聞き返した。


「えええっと、口じゃなくて、ほほほほっぺなんですけど……、鈴先輩の寝顔を見ていたら、その……きききキスしたくなっちゃって……ががが我慢できなくなっちゃって……」


 私はなんとなく、自分の頬を撫でる。


 どちらの頬にキスされたかは分からないが。


 どうやら、今ひたすらに弁明に動いているあの唇が、私の頬に触れたらしい。


「ほほほほ本当に、ごめんなさい――! きききキスだけとはいえ、ねねね寝ている人にそんなこと――、ししししかも、事故で怪我して、気絶している先輩に――!」


「あぁ……」


 私は唸るように相槌を打つ。


 なるほど。


 アイリがよそよそしかったのは、そういう後ろめたさがあったからか。


 まあ私は人に触れられるのが嫌いなので、もし寝ている間に胸を触られたとか言われたら、腹が立つどころの話ではない。


 ただ、頬にキス、相手がアイリ、という条件であれば、不思議と怒りの感情は湧いてこなかった。


 だがアイリは謝り続ける。


「ごめんなさい――! ごめんなさい――! ほほほ本当は、鈴先輩が目を覚ましたらすぐに謝ろうと思っていたんですけど、ずずずずっと言い出せなくて――、あのあのあのあのあのあのあのあののののののののののののののののののののののののののののののののの――」


 のが多い。


 これはまた変なバグり方をした。


 ただ私は悩んだ。


 アイリが謝罪している以上はいつもどおり暴力でチャラということにしてやったほうが良いのだろうか?


 しかし私はそれほど怒っていないので、その暴力に正当性はない(いや、暴力で謝罪をチャラにするのもアレだけど、今は置いておこう)。


 それに――


「ほほほほ本当にごめんなあい――。あのとき、鈴先輩は大変だったのに――、鈴先輩には、美彩先輩っていう彼女がいるのに――、私も混乱していたって言い訳になっちゃいますけど――、けどけどけど――けど――けど――けど――」


 アイリは声を震わせて、声を詰まらせた。


 あるいは、これ以上アイリに語らせるのは酷かもしれない。


 いっそ暴力を振るったほうがいいかもしれない。


 だけど、


「けど――?」


 私は、アイリに先を促した。


 それにアイリは、応える。


「――けど、もし鈴先輩がこのまま死んじゃったら――って思ったら――――私、怖くなって――、それで――私――鈴先輩のことが――大好き――だから――」


 アイリは、暗闇の中で目に揺らぐ光沢を作り出した。


 そしてそれはすぐに枕に流れた。


「ごめんなさい――、ごめんなさい――。意味が、分からない――ですよね――。大好きな人が――死にそうだからって――死ぬ前に――キスするやつの話なんて――」


「……」


「それに――今だって――、なんだか、あの時のことを――思い出しちゃって――怖くなったから――来ちゃっただけで――、本当は――私が――鈴先輩と、一緒に寝るなんて――」


 アイリはそこまで言うと、おもむろに身体を起こした。


 そして、


「本当に――ごめんなさい――。私、自分の部屋に戻ります――」


 ベッドを降りた。


 枕も持って、歩き出す。


 扉のノブに手をかける。


 だが、


 ドン――


 と、突然、重々しい音がした。


 何かが落ちるような音だ。


 アイリが何かしたわけではない。


 アイリは突然の物音に身体を震わせ、素早く振り向き、


「なにしてるんですか!」


 ベッドから落ちた私を怒鳴りつけた。


「いっつぅぅぅぅぅ――」


 私は肩周りから全身に響く鈍痛に、顔をしかめる。


 受け身をとったつもりだが、かなり痛い。


 手足も、骨が折れているわけじゃないのに妙な方向にある。


「大丈夫ですか!? どこか痛いところは――!?」


 アイリが駆け寄ってきて、妙な姿勢の私を安定した状態にし、異常がないか私の全身をくまなくチェックする。


 動転しているようで、けっこうちゃんとしている。


 そういえば、水着が波にさらわれたときも落ち着いていたな、とちょっと前のことを思い出す。


 ただ、今すべきことは、そんな思い出に浸ることじゃない。


「肋骨は大丈夫ですか!? 救急車呼びましょうか!?」


 アイリが私の顔を覗き込んで言う。


 だから私は、そんなアイリの後頭部を鷲掴みにすると、グイと引き寄せ――、その頬にキスをした。


 それは、病院で触れた頬より暖かったが、味はしょっぱかった。


 また、引き寄せが強すぎたか、やや濃厚なキスになってしまった。


「――え?」


 アイリは、突然のことに、今度こそ唖然として、混乱したようだった。


 それに対し私は、冷静に決め台詞を言えれば格好良かったのだろうけど、アイリから目を逸し、小声で言った。


「お返し……。これで、おあいこ……」


「――」


「美彩には、内緒ね」


 私はそう言ったが、


「――」


「――」


 ――ヤバい。


 顔が熱い。


 こんなこと今まで誰にも言ったことないのに、実の妹(だと思う)相手に言ってしまうなんて――。


 しかもアイリは黙ったままだ。


 もしかして滑っただろうか?


 だとしたら余計に恥ずかしい。


 アイリの顔を見れない。


 身体の痛みもふっとんでしまう。


 ほっぺじゃなくて、おでこのほうが良かったか?


 いや、そういう問題じゃない。


 だがどういう問題でも、問題は問題だ。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。


 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。


 心のモヤなんてどうでもいい。


 このまま顔を背けて、ベッドに潜るか?


 そうすればもうアイリの顔を見ないで済む。


 きっと寝て起きればなんとかなる。


 そうだ、それがいい。そうしよう。


 今ここで起きたのはすべて夢なのだ。


 そうやって私は、またアイリから逃亡しようと考えたが、


「あの……鈴先輩……」


 アイリが口を開く。


 恥ずかしそうな声で。


 しかし、ちゃんと言う。


「一緒に寝ても……いいですか?」


 そう言った。


 だから私も、


 恥ずかしい気持ちを押し殺し、


 ちゃんと言う。


「いいよ」





 ・・・幕間・・・



「痛い痛い痛い痛い痛いです、鈴先輩!! 指が折れます! 折れちゃいます! あと五度ひねったら絶対に確実に折れちゃいます!」


「あなたが言ったのよ? 私に指一本でも触れようとしたら、指をへし折ってもいいって」


「キスしてくれたから、ちょっとくらいいいかなって! 痛い痛い痛い痛いですううううう!」


「そんな態度だから私はあなたの指を折るのよ」


「そんな宣言やめてくださ痛いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」


 絶叫が、静寂な軽井沢に轟いた。

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