ファイル16 ロス事件
「あの……鈴先輩……、ちょっとおかしくないですか?」
「そう? そんなことないわよ」
その日は、夏休みも終わって二日後の、ごくごくありふれた平日だった。
夏休み明け初のミステリー研究部も、久々の活動だというのにのんびりしていて、私とアイリも相変わらずミステリーを読みふけり、果南はどこで何をしているのか遅れている。
また、事故による私の怪我もおおよそ治りつつあり、最近は松葉杖なしでも歩けるようになった。
特におかしいことはない。
ただ、
「あの……、鈴先輩。……やっぱりおかしいですし、近くないですか?」
しいて言うなら、私がアイリの肩にぴったりくっついているのが珍しいかもしれない。
なにせ私たちは、二人揃って綺麗に机に向かい、きっちり横向きで、ぴったりと肩をくっつけているのだ。
しかも季節は夏なので、恥ずかしいことに二の腕もべたついており、そのぺったり度は冬の比じゃない。
そう考えれば、確かにおかしいかもしれない。
しかし私は言う。
「まだ打ち身の痛みとか残ってて、こうしてるほうが楽なのよ。ちょっと我慢して」
「あ、はい――」
私は怪我を理由に後輩を黙らせる。
ただ、そうは言ってもアイリの言い分も間違っていたわけじゃない。
私はアイリと多くのボディタッチをしてきたが、こうして互いの柔らかな二の腕をぴったりくっつけあっているのはやはり珍しい。
だけど、私がこの姿勢を楽だと思っているのは事実だ。
だからやめるわけにはいかない。
べつに本を読むのに不便があるわけでもないし、その他の問題があるわけでもないし。
「……」
「……」
いや、やっぱりおかしい。
アイリの言う通りおかしい。
問題アリだ。大アリだ。
つい勢いとノリでくっついてしまったが、くっついて良いわけがない。
アイリがいつ暴走するとも限らないし、実妹にベタベタくっつきたがる姉ってどんな変態だ(いや、それだけならアリか? ――じゃなくて)。
だが、認めたくないが、認めざるを得ない。
私はアイリに触れたい・触れられたいと思っている。
なぜかは分からない。
だが合宿のとき以来、私はだんだんとアイリに触れ合いたくなっていた。
見事なアイリ
いや凛には毎日会っているが、なぜか頭に浮かぶのはアイリだった。
しかも、よくよく思い返せば、私が怪我を負ってからアイリのボディタッチやセクハラは目に見えて減った。
アイリなりに遠慮しているようだが、それが分かると私は一層アイリと触れ合いたくなっていた。
あんなにアイリに触られるのが嫌だったのに、今は触れたいし、触れられたいのだ。
ビールが苦い苦いと思っていたのに、いつの間にか美味しく感じているのと似ている(もちろん飲んだことはないが)。
これは非常にマズい兆候だ。
今の私は触れ合いたいだけだが、それでも気の迷いを起こしてしまう危険性は充分にある。
人間はそういう生き物だ。
それこそ合宿でのキスの一件もある。
ただ、そうと分かれば私が取るべき道は一つだった。
私はまたアイリから逃げる。
それがベストな選択だった。
私は息をついて、おもむろに立ち上がると、廊下へと向かう。
「鈴先輩? どこ行くんですか?」
「ラウンジ。お茶を飲んでくるわ」
アイリの問いに私は答える。
この部室棟の二階には、電気ケトルとティーパックが備え付けられているラウンジがあるので、そこで一息つこうという作戦だ。
私は打撲による痛みを軽く感じつつ、ゆっくりと歩みを進める。
だが、
「あ、それじゃ肩貸しますよ」
「――!」
アイリの言葉に私は身体を硬直させる。
「だって、鈴先輩、いま私にもたれかかるほど辛いんでしょう? だったら遠慮しないでください。あ、それとも、人の善意を無視して、私に身体触られるの嫌だって言うんですか?」
アイリはイタズラっぽく笑ったが、むしろ現状は逆だ。
今の私は触ってほしいと思っているのだ。
肩の貸し借りをするほど密着なんて、大歓迎だ。
だが、そんな密着をしたら、私はどうなるか分からない。
私が暴走なんて、私は許さない。
だが、アイリの善意を断る方法も思いつかない。
私は短時間で必死に考え、迷った――が、
「じゃあ、お願いするわ」
そう言った。
私は考えることを諦めた。
まあ、なんだかんだ言っても肩を貸してもらうだけだ。
それもラウンジまでの短時間。
特に問題はないだろう。
それにもしかしたら、アイリとしっかり触れ合うことで私のアイリ
そうしたら万事解決だ。
私は骨にひびが入っていない腕をアイリの肩に回す。
そして、
「じゃあ、行きますね」
アイリが言って、私を支えるが――、ダメだった。
いや、ダメじゃない。
とても良かった。
断じて屈強じゃないアイリの上半身に、私が体重を預けて密着すると、これがとても心地よかったのだ。
その華奢な身体で精一杯力一杯支えてもらっているだけなのに、異様なほどの安心感が心の底に湧き出てくる。
後輩だろうが妹だろうが、ともかく年下のアイリなのに、この少女にすべてを委ねたくなった。
「鈴先輩のおっぱいが、ほんのり当たって気持ちいいです」
アイリはくすりと笑いながら言い、しかしすぐに私の怒声が来ると思ったのか、私を支えたまま身構える仕草をしたが、
「そう。私も気持ちいい」
「え?」
アイリは目を点にさせ、
「あ、じゃなくて――セクハラ発言はやめなさい」
「えっと……すみません……」
戸惑いながら謝罪した。
「……」
危なかった。
つい本音を――じゃなくて、適当な返事をしそうになってしまった。
ギリギリで訂正はしたものの、アイリも私を不審がりはじめた。
これは、ちゃんと平常心を保たねばならない。
部室からラウンジまでは四十メートルあまりと短距離だが、油断はできない。
四十メートルと短距離だが――
ちょうどラウンジの前を人が通った。
その人は、とても小さく見えた。
――長距離だなぁ。
アイリに密着し、安心感が湧き出てきているはずが、緊張もする。
「鈴先輩、顔赤いですけど、大丈夫ですか?」
「……夏だから」
「えっと……もし辛いなら保健室に」
「……大丈夫だから」
私は短く返答する。
もし長文で返答しようものなら、アイリのようにバグったロボになりかねない。
私は作戦方針をそう定めると、あとは基本的に無言に徹した。
すると、そのおかげもあり、私は無事ラウンジに到着することができた。
「鈴先輩は緑茶ですよね」
アイリが私を椅子に座らせると、手早くお茶づくりを始めた。
そして私はやっと息をつく。
これでもう一安心だ。
なにせ、この後はアイリも私とお茶を飲むだろうが、椅子は丸テーブルを囲むように並べられている。
つまり、アイリがどこに座ろうとも、私とは距離がある。
私の気が迷っても、また不注意の事故があっても、私とアイリが触れ合うことはないのだ。
だからもう安心。
私はそう思った――のだが、
「あの、良かったら私に寄りかかってください」
お茶を用意したアイリは、自分の椅子を私の隣にぴったりとくっつけ、肩までも私にくっつけて着席した。
「えっと……ありがとう……」
思わぬ親切心に、私は思わずお礼を言い、言われるがままアイリに寄りかかった。
だが、途端に私の心には、また異様な安心感が湧いてくる。
しかもさっきの比じゃない。
アイリとの接触に加えてお茶というリラックス飲料は、あまりに危険な組み合わせだったようだ。
これは、すぐにでも離れなければいけない。
だが、ここでお茶を飲むと言ったのは私である以上、妙な理由で席を離れることはできない。
となれば――
あ、そうだ。
「あ、そうだ」
私は心と口で同じ言葉を発した。
「私、まだ文化祭の小説がまだなのよね。早く書かなきゃいけないから、もう戻るわ」
〆切がある仕事を口実にすれば良かった。
これは社会人がよくやるだろう手と同じで、実に有効な手だ。
私は、一気飲みにはちょっとキツいお茶だったが、それでもできる限りの速度で飲み干すと、やおら立ち上がり、
「アイリはゆっくりしてていいわよ」
と言うが、
「いいえ。肩ならいくらでもお貸しますよ」
アイリは、自分もお茶を一気飲みし(熱、と小さく言ったのが可愛かった)、再び私の横に立った。
……超優しい。
しかも、その優しさを無下にできるほど私は冷酷じゃなかった。
結局、私はまたアイリに支えられ、短くも長い旅をすることになってしまった。
うっかりするとアイリに抱きつきたくなってしまうが、その欲求は必死に抑えた。
とりあえず落ち着くためにも、私はアイリにバレないように深呼吸する。
「鈴先輩、呼吸が深いですけど、大丈夫ですか?」
すぐバレた。
私は慌てて「だだだだ大丈夫」と言ったが、アイリは「辛かったら遠慮なく言ってくださいね」と優しさを発揮する。
なんだか、その優しさが辛い。
ただそれでも、ちゃんと私はゴールにたどりつけた。
なんとかなったのだ。
私は「ありがとう」とアイリに礼を言うと、もといた席ではなく、部室隅の安楽椅子へ向かった。
あれならば、肘掛けもあるので、アイリと並んで密着はできない。
果南専用の椅子ではあるが、果南だって怪我人には良質な椅子を譲ってくれるだろう。
私はそう考え、改めて自分一人でゆっくり歩みを進めたが、そのとき、
「危ない!」
私は足をもつれさせ、体勢を崩してしまった。
あ、と思ったときには、治りかけの腕や胸が床に衝突するまで一秒前となっていた。
だが、声をあげたアイリは素早かった。
アイリは私をしっかり抱きかかえると、極力私のクッションになるよう自分から床に倒れていった。
そして、激しい音がする。
「――つぅ――」
それは私とアイリ、二人分の呻きだった。
だが、私が痛みを覚えたのは骨折した腕や胸とは逆側ばかりだったため、私は私の身体が無事らしいことがすぐに分かった。
それにアイリも、ややキツいウィンクをしていたが「大丈夫です」と答えた。
幸いにして、再び大怪我ということは免れたらしい。
ただ――
「えっと、アイリ――?」
ただ、ちょっと、私の、胸が――
いや、ひびの入った肋骨の話ではなく――
あるいは、心臓の話でもなく――
「あのさ――アイリ――?」
私はアイリに呼びかける。
するとアイリは怪我の有無を再度問われたと思ったのか、「大丈夫です」と答えた。
だが私の様子がおかしいことに気づいたか、自分と私におかしなことがないか確認し、――即座に理解したようだった。
アイリの手の片方が、私の胸を鷲掴みにしていることを。
それも、私を守ろうと、必死に私を抱きしめようとしたのか、これ以上ないほどの力で握りしめている。
水風船だったら破裂しかねない。
「わああああああ!」
アイリが叫び、私から飛び退いた。
いや、本来なら私が叫んで逃げるほうだと思うけど。
「すすすすみません! わわわわわざとじゃないんです! わわ私、鈴先輩を守ろうとして――! いや、ほほほほ本当なんです! 本当です! そそそそりゃあ、今の感触は服の上からとは思えないほど最高の柔らかさでしたけど――じゃなくて――ええええええっと、あのあのあの――」
アイリが言い訳を始める。
さて、普段の私ならここでどうするだろう?
ともかくアイリを殴るか――、
わざとじゃないのは分かっていると許すか――、
まあ、この二つの選択肢から選ぶことになるだろう。
ただ、今の私は――
もっと――
もっと抱きしめてもらいたかった――。
そう思っていた。
なにせ、いま抱きしめられていた瞬間は、とてもとても心が満たされた気がしたのだ。
本当に――
もう、実の妹に欲情していると認めてもいいくらいに――
「あのあのあの――本当にわざとじゃないんです! だだだだから、その――」
アイリはまだ言い訳している。
それも床に正座で。
そして、その床に見える膝は、かつて怪我があったとは思えないほど綺麗なものであった。
私は、ゆっくりと起き上がり、アイリに近づいていった。
「あ――あのあの――鈴先輩――?」
アイリは殴られると思ったか、目をつぶった。
だが私は、縮こまるアイリの前に立ち、
そして――
なんか前にも似たようなことがあったな、と思い出す。
確かあのときはこの後、
「やあやあボンジュール。
いいタイミングで現れた果南に、私は飛びつき、抱きついた。
「え?」
「え?」
アイリと果南が、連続で口を開いた。
だが私は果南を抱きしめ続ける。
果南はさすがパーフェクトな身体をしているだけあって、抱き心地がいい。
胸元が柔らかいのは当然だが、四肢の筋肉は程よい張りを生むため、抱きしめていると、これまた程よい反発がある。
まるで果南の別荘の高級ベッドを抱きしめているようだ。
本当に気持ちが良い。
私の心にも、じんわりと温かな安心感が満ち満ちてくる。
「ああ……私が求めていたのはこれだったのね……」
私は心から言う。
なにせ果南の人肌は、本当に本当に本当に気持ちいいのだ。
そう。私が求めていたのはアイリなどではなく、ただ純粋に人肌だったのだ。
しかも、それが果南のようなパーフェクトボディなら文句などあろうはずがない。
正直、自分で力を入れて抱きしめるというのは、まだ身体が痛んだが、気にしてられない。
「えっと……、アイリ君。これはいったいどういうことで?」
珍しく果南が困惑した。
また、アイリも困惑した様子で、
「……分かりません」
と、答えるだけだった。
だが、私は、すべてに満足して、
「分からなくていいのよ」
そのまま十分以上、果南に抱きついていた。
・・・幕間・・・
「鈴先輩。昨日はちゃんと病院行きましたか?」
「行くわけないでしょ! 昨日のことは忘れなさい! 早く! 今すぐ! 即座に! じゃないと頭かち割って、脳みそ握りつぶすわよ!!!!」
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