第四十一話 遠童瞭太郎――アローン・イン・ザ・ワールド 2
火葬場の煙突からは止むことなく白い煙が立ち昇り続けていた。
二日前までの大雨が嘘のようだった。
爽やかな秋風に吹かれて、色づき始めた紅葉の葉が舞っている。
近くで。すぐ間近で。
でもそれは遠く。絵空事のような。
周囲とは隔絶された空間に閉じ込められている。
息をすることすらはばかられるような。
黒く濁ったような存在がすぐ隣にあった。
少年には恐怖しかなかった。
仮面のような顔だった。
感情というものが一切なくなったような。だけど口からは呪いのように責め立てる言葉が淡々と吐き出されていた。
『――死ぬならお前で良かったじゃないか』
少年は知っていた。そういう状態のおとうさんが一番怒っている時なのだということを。
夕暮れ間近の火葬場。ベンチに腰掛ける少年はわずかに視線を彷徨わせる。他に人影はない。当たり前のように助けの手は差し伸べられない。
おとうさんは怒っている。いや。怒っている、というのとは少し違うのかもしれない。怒っていることは怒っているのだけど、おとうさんは自分が理解出来ないことに対する捌け口を見つけられなくて、なおさらに怒っているのだ。
そういうことはよくあって、おとうさんはそのたびに、
「なんでだ。当たり前の話じゃないか? どうしてそんな簡単なことが出来ないんだ? 常識じゃないか?」
今みたいに繰り返す。
「死ぬんだったら、家族の中ではお前が死ぬのが一番良いことじゃないか。そんなの当たり前じゃないか」
おとうさんは仮面の顔で責め立てる。それは自分に降りかかった理不尽が理解出来なくて、打ちのめされているから。
「お前ひとりが死ねばよかったんだ。常識的に考えれば分かるだろう? どうしてお前はいつもいつもそんな簡単なことが出来ないんだ?」
おとうさんは深々と溜息をついて、
「いつもそうだった。簡単なことも満足に理解できないお前の為に、俺はいつだって叱るしかなかった。なんでそんな簡単なことが出来ないのか、俺の方がまったくもって理解できないよ。なんだっていうんだ? 俺の躾け方が悪かったっていうのか?」
おとうさんが顔を覗き込んでくる。少年はすぐさまかぶりを振った。
おとうさんは、物わかりの悪い子供を諭すように、一言一句はっきりと言った。
「いいか。世の中は体裁で出来ているんだ」
それは少年がおとうさんから何度も聞いた話だった。
「お前みたいな出来の悪い子なんて、ほんとは放っとけばいいんだ。だけどな、体裁があるだろう? だから、俺は必死にお前を躾けてきたよ。何度も、何度も、何度も、何度も」
お腹の中がきゅっとなる。そんなだから、少年の言葉はほとんど声になんてならない。歯がカチカチと鳴る。
それでも。
「ごめんなさい」
なんとか絞り出す。
その言葉は当然のように届かない。おとうさんは一人しゃべり続けていた。
「なのに、お前はいつまでたっても出来の悪い子のまんまだ。俺が何度も、何度も、何度も、何度も躾けてもだ」
少年のまぶたから涙がぽろぽろと落ち始める。泣いたら余計に怒られると分かっていても、一度溢れだした感情を止めることは出来なかった。
ごめんなさい――自分ではそう言ったつもりでも、口から出た言葉は嗚咽まじりで何を言っているかも分からない。
おとうさんの顔は仮面のままだった。ふたつの瞳はぽっかりと穴が開いたように真っ黒で……。
「だから体裁上、俺は仕方なくお前を殴るしかなかったんだ。何度も、何度も、何度も、何度も」
その奥にどろどろとした何かが渦を巻いているのが見えた気がした。少年にはそれが本当に、本当に恐ろしくて……。
「俺は確かにお前を殴った。だがそれがなんだ? 世の中は体裁で出来てるんだ。虐待? 知った事か。虐待を見つけたら連絡を、なんて役所も言ってたよ。児相だって訪ねてきたよな。だけど連中は本当に解決する気なんてさらさらないんだ。所詮、仕事。ただの建前。体裁なんだよ。連中が知った事でないことを、どうして俺の知った事にしなきゃならないんだ。解決してくれるなら解決してほしかったさ、俺だって。お前みたいな出来の悪い子供、連れてってくれるなりなんなりしてくれれば良かったんだ」
ごめんなさい――何百回と繰り返した言葉。何時間も正座して反省文に書き連ねた言葉。でも結局、気持ちが足りていないと言われてその倍は殴られた――それは躾けと躾けの息継ぎみたいなものだった。
「ごめんなさい」
少年は言った。嗚咽の合間に。消え入りそうな声で。
「俺はな、許したいんだよ。いつだってお前のことを許したい。そう思ってるんだ。なのにお前はきちんと謝ることすら出来ないだろ? 人間として最低限のこと。常識は、反復で覚えるしかないんだ。だから殴るしかなかったんだ」
少年の声は届かない。
おとうさんの説教は途切れない。
だけど。
出来の悪い子供でも――少年ですらも――それだけは分かっていた。おとうさんが許してくれるつもりなんてないということを。
それは最初から、最後まで。
誰も助けてはくれなかった。同級生。学校の先生や大人たち。
少年が学校を休みがちになっても何も変わらなかった。最初から存在してなかったと思えば、きっとそんなところなんだろう。少年ですら、いつからかそう思っていた。
でも。
――神様は本当にいるのかな。
最初から諦めていた。神様に心から助けを求めたことなんてなかった。だけど、おばあさんがいうように、自分の心の中に神様がいるなら、ちゃんと神様を信じていれば何かが変わっていたのかもしれない。
「ごめんなさい」何千回目かの言葉がおとうさんに届くことなんて結局なかった。少年は中身のない、空のトイカプセルを握りしめた。
今からでも遅くないかな?
神様を信じても良いのかな?
そしたらいつか魔法のガチャガチャケースみたいに、僕の中にいる神様を実感できる時が来るのかな?
そしたら神様とお話しできるようになるのかな?
神様だったら教えてくれるかもしれない。簡単なことも理解できないぼくの出来の悪さを直す方法を。
おとうさんに怒られない方法を。
少年の涙はいつの間にか止んでいた。頬を伝ったその跡が塩となってはりついていた。
「泣く前にまずすることがあると、何回教えれば分かるんだ!」
おとうさんはきちんと説教してくれていた。少年にでも分かるように今まで何度も繰り返した話を。頭から。
(なのに、ぼくはまたおとうさんの期待に応えられなかった……)
まずすること――きちんと謝ること。何度も「ごめんなさい」と言ったつもりだった。
だけど人間としての常識――心のこもらない言葉は相手に伝わらない――を守れない少年の「ごめんなさい」はおとうさんに一度も届いていなかった。
そして、謝りもせずにしゃくりあげるだけの少年に、おとうさんは怒鳴った。
「どうしてお前は『ごめんなさい』すらまともに言えないんだ!」
必死で許しを乞う言葉を告げようとする。だが、口は震えるばかりでなんの言葉も絞り出せない。
我慢の限界に達したおとうさんが早口でまくしたてる。
「だから俺は何度も何度も何度もなん……」
突然、おとうさんの声が止まった。代わりにチッという舌打ちが聞こえた。
ふらふらと歩いてくるひとつの影が視界に移る。それは先刻、女の人と言い争っていた男の人だった。葬儀用とは思えないファッションモデルのような着こなしもくすんで見える。足取りに力はない。撫でつけた黒髪は乱れ、整った顔だちに疲労の色は濃い。その青白い顔は、まるでテレビに出てくるゾンビのようだった。
男の人はベンチへと腰かける。少年の隣で人目もはばからず頭を抱えた。そして誰ともなく、呪いの言葉でも吐くようにしゃべり始める。
「私が、私が悪いというのか? 私はただ空気のきれいな場所で娘に療養してもらいたかっただけなのに。それを望むことが、病気と向き合うことが罪だというのか?」
男の人とおとうさんに挟まれた少年は、身を縮こませて息を殺すことしかできない。
「返せ。返してくれ。私の娘を返せ。消せ。それは私の物だ。返せ。未来を。返せ。返せ」
男の人は嗚咽しながら繰り返す。憎むべき対象も見つけられず、やり場のない怒りを繰り返し吐き続ける。怨嗟の言葉が宙を彷徨い続ける。
やがて男の人は顔を上げた。生気のない顔の涙は枯れ果てる。双眸に浮かぶのは暗黒の色。ふたつの底なしのような虚無だけが残される。
「命の価値が等しいなど嘘だ。救う必要のない命と、救われなければならない命。私の娘こそ救われなければならなかったはずなのに。その権利と価値のある命だったはずなのに。それが間違っているというのなら、それは世界こそが間違っているということだ」
死んでしまった子供を取り返したいと願う男の人と、むしろ子供に死ぬべきだったと告げるおとうさん。愛情と無関心。両者の感情は真逆だったが、そのどちらもが少年に恐ろしく感じられた。息をするのも忘れるくらい張りつめていた。
ふらと男の人は立ち上がる。そしてゆっくりと歩き始めた。虚無を携えて。
しじまだけが取り残される。おとうさんはもう何も言ってはいなかった。
少年は、恐る恐るおとうさんを見上げる。
おとうさんの視線の先に、すでに少年は映っていなかった。
その視線を追いかける間際、後ろを通りすぎる人たちの声が聞こえた。それはどこか投げやりぎみに聞こえた。
『……ンとこのばあちゃんも逃げ遅れたんだってな』
『ダムが決壊するなんて誰も思ってなかったろ。俺たちだって地元に残ってたらどうなってたか』
『西区のあたりは特に酷かったらしい。中核だった製鉄所も、去年出来たばっかりの製薬会社の研究所も工場も壊滅的だってよ。天災って言葉じゃ片付けらんねえよ』
『ああ、俺たちの故郷は、
顔を向けた先は火葬場の入り口だった。そこにまだ小さな
お母さんは辺りを見回している。
そして気がつく。
少年を見つけたお母さんが小さく微笑んだ。その胸の中で麗華はすやすやと眠り続けている。穏やかな風が通り過ぎて、お母さんの黒いスカートが揺れた。
お母さんがゆっくりと近づいてくる。
それを見つめるおとうさんの顔に今までにない表情――絶望――が浮かぶ。
「泣いていたの?」
お母さんが言った。
去年、お祖父ちゃんのお葬式の時に買ってもらったシャツの袖で、少年は顔を拭った。
お母さんはちょっとだけ口ごもって、告げた。それはまるで自分に言い聞かせるみたいだった。
「終わったみたい。おとうさんのお骨を拾いに行きましょう」
少年はこくりと頷く。
その隣に、
少年は立ち上がる。
おかあさんは空を見上げた。
「これからは三人で一生懸命に生きていかなくちゃね」
白い煙は空の青に混じって消えていく。
少年は少しだけ考える――おとうさんの言っていた通り、ぼくが死ねば良かったのかな。ぼくだけで
神様だったらその答えも教えてくれるのかもしれない。少年はなんとなくそう思った。
頭の中のもやもやを断ち切るように、「行きましょう――」とお母さんが言った。
ハッとする少年を消え入りそうな笑顔のお母さんが見つめていた。
そして確かめるみたいに言った。
「――
それは、とても優しい声だった。
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