第三十六話 眞野花織――ヴォジャノーイ 3

 

 眞野花織まのかおりは真っ黒になったパソコンの画面を見つめていた。言葉もなかった。だが呆然というほどではない。

 緊急警報を知らせるパソコンへと駆けてきたときには手遅れだった。それは花織がデスクから離れていたせいもあったが、なにより顔も知らぬハッカーの手際の良さによるところだろう。

 警報が鳴る直前まで花織は武装列車の自分の客室、そのドアに張り付いていた。部屋のすぐ外から興奮する女性の声が聞こえたからだった。

 ドアの覗き窓から見ると、そこでスーツ姿の三人組が言い争っているのが映った。二人の男に見覚えはなかったが、女の方は知っていた。


「閃臥のクソの居場所ヤサはまだ割れてないってのお? 自衛隊なり警察なりでさっさと一網打尽にしろよお!」


「尋問した連中が大した情報を持っていなかった以上、こちらからの情報提供もできませんし、ワクチン接種に駆り出されている自衛隊や警察にすれば泥眼デイガン案件の優先度はどうしても低くなるようで……」


 短髪に、顎の傷を隠すようにひげを生やした男は言葉を選ぶように答えた。


「あんたらの尋問がぬるかったせいじゃないのお? そこは尋問ってより、拷問でもしてさあ、捕らえた狂信者からもっと情報を引き出すべきだったんじゃないのお? 第五のナントカってんなら、それなりの情報を持ってるはずでしょおが」


 短髪の上部を気持ちツンツンと立たせた男が弁解する。


「『第五深層』は狂信集団、六識深滔リクシキシントウ・泥眼の序列でも二位にあたる大幹部です。しかし私たちがここに至るまでに出会った第五のブンラクを名乗る人間は四人もいます。全員が性別も年齢もバラバラ、本物かどうかも不明です。美雛さん、ここは一旦日本橋に戻って――」


「はあ!?」男の言葉を遮ったのは怒気をはらんだ瞳。マスカラは崩れ、目の下の隈は色濃い。


「日本橋になんか、本社になんか戻れるかっ!!」


 粟津美雛――テートソーマの広報担当。テレビにラジオ、そしてネットでも彼女の声を聞かない日などなかった。暇なしにメディアに露出し続ける彼女がなぜこの列車に、という興味本位から花織は聞き耳を立てる。

 大の中年男性二人は終始オロオロとしていた。

 メディアではすました風のしゃべり口も、今は興奮のせいか地声に近いらしい。彼女の声を、花織は以前にどこかで聞いたことがあるような気がした。きれいにまとめたハーフアップの髪の毛も乱れに乱れていた。


「向かう先は浜松町よ! 浜松の第一研究所に直接乗り込んで、この粟津美雛が社長に直談判してやる!」


 美雛は怒鳴りがちに言った。

 短髪に繋げたラウンド髭の男が宥めるように話す。


「しかし、全社員、本社の指示に従うように、というのがそもそも社長からの最後通達である以上、社長不在のいま、副社長が陣頭の指揮をとること自体はなんら問題のないことですよ」


「ふッざけんじゃないわよ。本家の帝都製薬のご機嫌伺いしか出来ない能無しの経営陣どもになんて任せておけるわけないでしょ!」


 続けたのは短髪を立たせた男だった。男は二人ともに上背も良くどっしりとした体つきをしていた。 


「ですが美雛さん、抗ウィルス剤にしろ、ワクチンにしろ、社長は無償で製造方法の開示を行ったわけで。実質、今回の騒動でテートソーマの利益はないわけですよ?」


「吉野も染井もことの重要性を理解していないようね。テートソーマは今や救国の英雄、その名前だけでも当面の間の免罪符となるでしょうよ。今後多大なる恩恵を得られることになるであろう権利を、副社長始め経営陣は本家の連中にタダ同然で明け渡そうとしてる!」


「それは、確かにその通りですが……外事課ウチの課長も副社長側につきましたし」


「アンタらの上は本来なら警備部のはずでしょ! 高遠タカトオ部長とは相変わらず連絡つかないってわけえ?」


 強面の男二人が揃って頷く。

 美雛は深々と嘆息した。


「そもそも論よ。テートソーマの心臓は日本橋の本社じゃなく、浜松町の第一研究所。曲者揃いとはいえ、直接社長が引っ張ってきた有能な所員ありき。だから社長不在でも彼らを押さえれば、経営陣の封じ込めだって容易だった。だけど創薬研究部ソウケン壊古軒エコノギさん、エンジニアリング部の比良佐嘉ヒラサカさん、特別戦略室の狗神イヌガミ顧問、主要幹部の誰とも一切連絡がつかない」


「だから浜松の第一研究所ラボに直接乗り込んで、社長をメディアに引っ張り出す、と?」


「テートソーマこそが救国の英雄。そして私はその事実を繰り返し説明してきた。その役目を今さら本家の広報担当に譲るつもりもないからっ! 本家がしゃしゃって来る前に、テートソーマ本社に行って帝釈社長に表に出てきてもらう。誰がこの騒動を終わらせたのか、馬鹿どもに知らしめてやるわっ!」


 美雛のヒステリーはエスカレートしていく。


「テートソーマも私もここからが本当の勝負なのよ! このまま取り残されるわけにはいかないのよ! その邪魔は本社の経営陣にも、風評被害を撒き散らす有識者気取りどもにも、クソッタレの閃臥センガ率いる狂信者どもにもさせやしない!」


 鼻息荒く捲し立てると、美雛は気圧される男二人を睨みつけながら、

 

「結局あなたたちも信用できないってわけね! こんなところになんていられないわ! 私は部屋に戻らせてもらうから!」


 踵を返した美雛へと屈強な男二人が哀れな声を上げた。


「「だからそれ死んじゃうヤツですってぇー」」


 パソコンがふいに甲高い音を発したのは、彼らが覗き窓から姿を消したまさにその瞬間だった。今から約一時間前に遡る。それは目的が達成されたことを知らせるよう、あらかじめ花織が設定していたことだった。だが、花織が駆け寄るより先に、パソコンの画面は黒く塗りつぶされていった。

 花織はキーボードを叩いた。しかしそれがなんの足掻きにもならないことくらい同時に理解していた。花織はプログラミングに関しては素人同然。せいぜい彼女――瑠紗――が残していったUSBメモリ、そのデータを自身のサイト内に隠すのが関の山だった。

 真っ黒になった画面を長いこと見続けた後、ようやく花織は言葉を発した。


「ふうん……とはいえ、だ」


 この結果が自分にとってそれほど感慨的でなかったとして、別の感情は幾らかあった。つまりは予想外、という意味では。


 サイト内に隠された真実、それを正解と呼ぶのなら、そこに辿り着くためには瑠花和マコトに関する知識が必須なのだ。

 なおいえばそれで道程の半分、瑠花和マコトという人間を知り得てなお、結局瑠花和マコトというひねくれ者ならばどうするか。つまりは瑠花和マコトの裏に潜む眞野花織の感情を読み切らなければ、一生どうでも良い瑠花和マコトクイズの無限ループを巡り続けるだけの仕掛けになるはずだった。

 そしてそういう意味ならば、そこまで辿り着けるのは、そしてそこまで付き合い切れるのは、純天然で生粋の瑠花和マコトマニアでしかないと思っていた。

 例えば、そう、一時は毎日のようにファンレターを送って来てくれたあの子――


澱魔おりまネロちゃん、とかね」


 勝手にちゃん付けしておいてなんだが、女の子と断定しているのは花織の直感に過ぎない。それでも花織は確信していた。

 そんな澱魔ネロちゃんは流河作品に感銘を受けて漫画家を目指している、らしい。送ってくれた同人誌は、流河作品のスピンオフだった。


 だからこれは彼女の仕業じゃない。彼女たちのようなマコニストを自称するマニアならば、瑠花和マコトの痕跡を聖域化することはあっても破壊なんて真似はしない。


「どうせなら衆人環視アンタッチャブルの庇護の下、白日に晒したかったんだけどね」


 ここに花織の小さな目論見は破綻した。遺産を手にするまでの険しい道のり、その余韻に浸ることもなく、データを確認するやサイトごと消し去った手腕が専門家プロによる仕事であるのは明白だった。そしてそれはもちろんテートソーマに関連する者の仕業に違いない。


「でも、やっぱりちょっとだけ残念だな」


 花織は心にもなく呟く。

 今さらの話だった。所詮は過去に過ぎないことだった。花織にとっても、そして瑠紗にとっても。

 赤羽のマンションが火災にあって全焼したのは予想外だったが、ブログに自宅を曝した時点で花織にすれば過去はすべて捨てたつもりだった。

 世界の真実なんて、Eが瑠紗に生まれ変わる儀式と同じくして、流川マコトが瑠花和マコトへと生まれ変わる儀式、その付録に過ぎない。

 花織はゲーミングチェアに身を沈め、足を組んだ。ほとんど無意識にシャツの胸ポケットから電子煙草を取り出す。シンプルでカジュアルな作業用のコーディネート。ハイウエストのパンツにタンクトップ、その上にゆったりとしたロングシャツを羽織っていた。

 電子煙草を咥えた。瞳を閉じ、甘いフレーバーを吐き出す。


『カオリ、アタシにはやらなきゃならないことが出来た』


 運命の日に彼女が告げた言葉が頭を巡る。


 だが――。


 彼女との回想は慌ただしい音によって断ち切られる。あまりに突然で、迂闊だったと思うひまもなかった。


「スマンが邪魔するぞ、なにしばしの間ゆえ迷惑はかけぬ」


 転がるように入室した和装の少女がまくしたてる。

 少女の背後でゆっくりと閉じる自動扉。その隙間を縫うようにもう一人の訪問者が飛び込んできた。

 列車内の軟禁生活は何日も続いていた。危険からは程遠く、油断もあったろう。だけどそれ以上に今の花織は捨て鉢でもあった。扉のロックをし忘れることも増えていた。


「いやホント、押し込み強盗とかそんなんじゃないんで、出来れば騒がないでもらえると助かります」


 危害を与えないというジェスチャーのように、男は両手を開いてみせる。薄汚れた衣服に頭にはタオル。ハチマキのように巻いているそれからは、血が滲み出ている。控え目にみても不審者そのものだった。


 少女は、せいぜいが中学生といった容姿。透き通るような肌に誇張したかのようなメイク。まぶたと唇に引かれた紅は、まるで子供が背伸びして大人の真似ごとをしたかのようで、なおさらに少女を幼く見せていた。

 和洋折衷。黒地の振袖にミニスカートを掛け合わせたような姿。袋帯の帯締めや、振袖を彩る牡丹の柄は赤。統一された色のモチーフは漆黒と真紅。膝まで届く長いツインテールを留めた髪飾りも同じく血のような赤色で、湾曲して先の尖る形状が鬼の角を連想させる。


 男の方は、額に巻いた血染めのタオルとプリン状態の茶髪。白い長ティーとデニムのパンツ、その上に黒地の大布を袈裟懸けにして巻いている。所々の汚れと破れが目についた。そしてなぜか季節外れのビーチサンダルを履いていた。修行中の僧でももうちょっとマシだろう。


「ハロウィンにはまだ早かったわよね?」


 言いながら、花織は侵入者たちの背後に控える緊急用の内線をちらと盗み見る。でもそんなもの使えるはずもなく、花織は一人肩を竦めてみせた。


「それで、貴女たちは一体何をしでかしたのかしら?」


 花織が尋ねると、少女は分かりやすい程に頬を膨らませる。


「うむ。この阿呆がのぅ、挙動不審過ぎての。車掌に目をつけられたという訳じゃ」


 ジトリとした視線を送られた先で、男が口を尖らせる。


「いやいやいや、キラリさん。取りあえず堂々としときゃ問題ないとかなんとか言ってたけど。ボディチェック断ったり、口頭審査も不思議アイドルの設定じみた回答とか、態度が堂々としてたってだけで何ひとつ解決してなかったじゃないですか」


 呆れ顔の少女は、


「俗世の者に『神衣しんい』を触れさせる訳などなかろうが。それに住所が胎蔵界曼荼羅というのだとて事実その通りじゃろうが。不審だったのは胤光お主じゃろ。気合いで止めろと言うとるのに、全然血ぃ止められとらんじゃないか」


 喧々囂々けんけんごうごう。いつまで続くとも知れないやり取りに、花織は口を挟む。


「それで結局、貴女たちはなんなの?」


 くるりと振り返った少女は、


「尊らはの、世界を浄化させて回っとるところじゃ。一宿一般ならぬほんのいとまの恩じゃがの、要り様ならお主にも施してやるが?」


 無邪気に微笑んだ。

 言葉に詰まる。それでも花織はなんとか絞り出す。


「私は……間に合ってるわ」


 醜態だった。少女の話はまるで戯言、なのに花織はひどく動揺していた。

 花織の心情を知ってか知らずか、少女は床に積み上げられた新聞をちらと見て、


「ときに。テートソーマが薬を散布したと既に知っているのに、皆が列車から降りんのはなぜかのう?」


 新聞の一面には――、世の中が快方に向かっているという明るい話題。


「多分、降りるタイミングが分からなくなったんでしょうね」


 花織は他人事のように呟く。


「お主のようにか?」


 矢継ぎ早の問いが胸に刺さる。当然花織は答えられない。

 花織を半ば無視して、少女は新聞を広げた。そして独り言のように話し始める。


「偶然的必然で天文学的確率に天から授けられしもの――奇跡。神すら分からぬ贈与先。ある男の下に降ってきた『恩寵ギフト』、その名を――〝交通整理人ザ・ロードキーパー〟という。そしてその祝福を得た者が帝釈たいしゃくアレン、つまりは現テートソーマ社長という訳じゃ」


 途中から止血に専念して話に関わるでもなかった男が、慌てて口を挟む。


「キラリさん、俺、聞いてないですけど、それ。テートソーマの社長が『恩寵持ちギフテッド』ってんなら、今回の件の黒幕ってソイツ? そんじゃこの騒動、つまりはテートソーマ社長の自作自演ってことですか?」

 

 少女は花織の顔をじっと見据える。


「でしょうね――」促されるように、花織は肩を竦めてみせた。

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