第三十五話 山吹虎徹――ニルヴァーナ 6


 視線をちらと山吹虎徹やまぶきこてつによこすと、ばつも悪そうにナカザーニエが切り出す。

 少年の雰囲気に黒のスポーツブラが露わとなった姿。下着越しに覗かせる乳房まわりのヒキツレを隠そうともせずに。


「やるじゃん、オッサン。一応、言っとくよ」


 初めて見る表情。

 虎徹は、人差し指が千切れ飛んだ右手の痛みすら忘れていた。

 はにかんだようなナカザーニエ。少年の顔で――少女の顔で――微笑む。


「ありが――」

 

 自然と虎徹の口元も緩んだ。

 だが、それは別の言葉にかき消される。


富嶽フガクが倒されるとはな」


 上空を見上げたとき、ビルの屋上、その縁に立つ存在に気づく。全身を揃いの純白のスーツとヘルメットで覆った一団。爛々と輝く赤い双眸。まるで高みから獲物を狙う鳥の群れ。

 ナカザーニエの行動は俊敏だった。使い物にならなくなった円月輪を放り捨てるや、ランドセルにぶらさがったウサギのぬいぐるみへと手を突っ込む。背中から引き抜いたのはロシア製の拳銃――プリェストゥプーリエと同じ――MP‐443『グラッチ』。


殺すウビーチ

 

 静かに、一転して殺意への切り替えスイッチング。しかし銃口を上空に向けた瞬間、その身体は突風に煽られたように前方へと飛ばされる。

 ナカザーニエの背中にきりもみしながら突き刺さった――高速回転のドリルのような――流線。まるで真白な稲妻。その正体が名無しネームレスと同じ白装束の人物と知れる頃には、鋼線ワイヤーで切断されたナカザーニエの首が地面へと転がる。

 身体を反転させ勢いを弱めながらの着地。立ち上がり、首のなくなったナカザーニエを一蹴りした上背のない細身の――女性の――肉体。張り付いたスーツが鍛えられたシックスパックと共に両の乳房をも露わにしている。

 グラッチ片手に飛び出すプリェストゥプーリエ白金髪プラチナブランドのツインテールがなびく。スキップまじり。ウサギのモチーフが並んだジャンパースカート、柄タイツとおでこ靴ブルドックトゥ、完璧な甘ロリスタイルで遊びに出かけるような気軽さで。

 笑みを張りつけたまま、プリェストゥプーリエは言った。


初めましてオーチンプリヤートナ、アナタは新しいお人形? それならワタシの半分にしてあげるー」


 踏み台代わりの鋼線ワイヤー。ジャンパースカートの裾がふわりと舞う。跳躍と共に、伝うナカザーニエの血液が雫となって宙に弾ける。


「富嶽の弔いだ。鉄槌を下せ、紫電シデン


 男の声――それは先刻まで上空にあったはずの。虎徹が呆然と振り返った時、白づくめの男は既に降り立っていた。ビルの屋上には静観を続ける四羽の白い影。動く気配はない。


「了解した、零式ゼロシキ


 疑似光学迷彩技術と伝播式の対衝撃ショック技術。ふたつの最新鋭を搭載したスーツを身に纏う女が駆け出していく。

 お前らはいったい――虎徹が問うより先に、零式と呼ばれた男が口を開いた。


「予定していたのは茨木組とバーバ・ヤーガの共食い。さすがに十月革命は想定外だった……この国に害をなす、鉄槌を下さねばならぬ屑が増えるという意味ではな」


 9ミリパラベラム弾の雨が降り注ぐ中、紫電と呼ばれた女は鋼線ワイヤーを利用して宙空のプリェストゥプーリエを追う。


「銃と金を盗んだのはお前らか?」


 訊きながら零式を覗き見る虎徹。白いスーツの左の肩口、目に留めたのは襟章と思わしきもの。そのデザイン――『オリーブの葉』

 一瞬のうちに虎徹は理解する。記憶の符合。それは零式以外の白づくめがその章をつけていない理由も意味していた。


「そんだけの兵力なら共食いなんぞ狙わず、自分らで殲滅すりゃあ良かったんじゃねえのか?」


 虎徹はあえて茶化すように言った。

 分かっていないな、と嘆息して零式は告げた。


「ただ滅びるべき宿命にあるのが悪であるということ。鉄槌を下すのは正義の使者でなくとも良いのだ。民に知らしめるべきは、因果応報という名の必然性。どういう形であれ悪であるという愚かな行為や思想には鉄槌が下されるという単純明快な帰結、それこそが最大の抑止力となるのだ。現在の悪行への、そして未来に育たんとする悪意への」


 紫電が跳躍したとき、グラッチを放り捨てたプリェストゥプーリエが別の鋼線ワイヤーを踏み抜いて後方へと飛んだ。身を丸めると、ツインテールが風になびく。

 ビルの四階部に張られた鋼線ワイヤーを踏み抜いたのは紫電も同じ。だがプリェストゥプーリエと違ったのは、紫電はそこで前転の動作を取り入れた。

 後方へと飛んだプリェストゥプーリエは姿勢を直しながら宙を摘まむ。

 バンザイするように挙げた両腕と伸ばした両足。ドロップキック風の態勢をとった紫電。両腕の籠手は名無しネームレス――富岳――とは逆向き。甲の側にある六角レンチの根元で轟音と共に爆発。発生した推進力で真っすぐに飛んだ。

 宙を摘まんだ親指と人差し指。それがロリィタネイルの効果なのか本人の膂力かは分からない。空に折り重なる鋼線ワイヤープリェストゥプーリエは摘まんで、十分に引き絞ってから――離した。

 ピィン、と甲高い音が響く。張りつめた空気が千切れたかのような。発生した鋼線ワイヤーの弾性エネルギーが空間を断裂する。歪な弦楽器演奏ストリングスを奏でながら、コンマの間隔を置いて幾つもの鋼線ワイヤーが宙を走った。無規則に飛ぶ鋭利な刃、まるで不協和音のレーザートラップ。

 紫電は襲い来る不可視の刃を前にしても動じない。器用に籠手の爆発を使いこなし、左右にかわしながら標的へと迫る。


「おねえさん、もっといっぱいかわいくしてあげるぅー♪」


 プリェストゥプーリエがヨーヨーを投擲する――最後のあがきにも満面の笑みで。弾けると同時に張られた新たな鋼線ワイヤー

 紫電は余裕綽綽とそれを掴むや、勢いを保ったままで逆上がりするように上空へ飛んだ。ブーツの踵から刃が飛び出る。宙へと投げ出された身体は重力に任せて、円心を描きながら落ちていく。それは振り下ろされた鎌のようにプリェストゥプーリエの背中に突き刺さった。


 虎徹は終わりの風景を客観的に眺めていた。

 軽やかに着地した紫電が告げる。


「――鉄槌は下された」


 プリェストゥプーリエは途切れかけの意識で痙攣している。中空の鋼線ワイヤーに吊るされたままで。

「そういや聞いたことがある――」すべてを理解した上で虎徹は終幕の台詞を紡ぐ。


「――国家公安警察第一課特務零番部隊――通称、マル秘匿名コードネームは創立者にあやかって『ハト』」


 零式だけがつけていた章。他の者についていない点を踏まえれば自明だった。これだけの装備は裏社会には出回っていない。となれば政府の機関の手の者、それも所属を明かせない存在以外にはない。虎徹も噂には聞いていた。聞いてはいたが存在証明たる『オリーブ』の章が富嶽と呼ばれた巨躯にはなかったことから、記憶にある情報との合致には至らなかった。失態だった。所属を明かせない者が証明証を持たないことくらい、少し考えれば・・・・分かることだというのに。警戒を怠るべきではなかったのに。


 虎徹は左に持つグロッグを零式に向けた――富嶽に対して全弾を撃ち尽した拳銃を。

 

マメが欲しいか? そらやるぞ」


 当然、グロッグから弾が発射されることはない。それでも乾いた発砲音が響いた。

 革ジャンの左胸が血で染まる。視界の端に白い影――ビル屋上の狙撃手――を捉えながら虎徹は二歩、三歩と後ずさる。そして壁を背に、膝から崩れ落ちた。


 紫電は虎徹に目もくれなかった。空気の抜ける音を発しながら、フルフェイスのヘルメットが分割するように外れる。首を振るといくつもの玉のような汗が飛んで行く。脇へとヘルメットを抱えた紫電が、荒い呼吸を整えながら零式のもとへと歩く。栗色の髪を頭の脇で羊の角のようにまとめた――まだ高校生とでも呼べそうな――紫電の素顔が露わになる。

 そこへと新たな白スーツが駆け寄りながら言った。「姉さま、ご無事ですか」その姿は女性の紫電よりさらに小さい。


銀河ギンガ!?」


 凄惨を極めた戦闘後も無表情だった紫電。そこに初めて別の表情が浮かぶ。美しい顔が驚愕に歪んでいた。

 飛び込んできた華奢な白い体躯を抱きとめながら、紫電は非難するように言った。


「零式、どういうことですか。わたくしが身を犠牲にする代償として、銀河を前線には出さないという約定をお忘れですか!」


 零式はにべもなく返す。


「日本橋に浜松、少数精鋭たる我々が主要監視地域に張り付いている中で、ここに一番近かった銀河を差し向けただけのこと。もっとも最初に到着したのが銀河でなくお前だったなら、このような局面で富嶽を失うこともなかっただろう」


 まだあどけなさの残る顔だちに憎しみの表情がありありと浮かぶ。それを隠そうともせず、紫電は零式を睨みつけた。


「貴方のおっしゃる通り、そもそも銀河は非戦闘員。専門は後方支援に限られます。『観測』は半径一キロ圏内で可能。前線に銀河を配置する必要などありません。銀河にもしものことがあったら……銀河の能力が失われることになったら、我々にとってどれだけの損失が発生するか、零式、貴方もご存じのはずでしょう」


 紫電の非難に、だが零式は意に介さない。冷徹な言葉だけを告げる。


「愚問だな、紫電。今回、遠隔では銀河の『観測』による場の情報把握が正常に機能しなかった。だから精度を上げるため、前線近くに移動させて観測させただけの話。結果がすべてだ。どういう形であれ首が繋がったという事実、それだけが現実。体を張ることで言い分を通すというのも、そもそもお前たち姉弟の存在価値が証明できればこそだという前提を、紫電、お前の方こそ忘れるなよ」


「観測のズレは多分、この人が……」銀河と呼ばれた小柄な鳩は虎徹を見たが、結局それ以上は続けなかった。

 なお食い下がろうとした紫電の言葉を遮って零式が言う。


「執行された正義の証跡を残せ」


 瞳をきつくしたままの紫電へと、零式が手渡す。それは磨かれ鈍色に輝く縦長のケースとジッポライター。

 見えない鎖に囚われているかのような、絶対的な関係性。受けとった紫電は悔しげな表情を浮かべながら、ケースを開く。中から一本の――オリーブを咥えた鳩の描かれた――タバコを引き抜くと、口に咥えた。同じく鳩が描かれたジッポライターで火を点けると軽くむせる。切れ長の目じりが僅かに涙で滲んだ。

 眺める零式は終始無言だった。それでも表情の読み取れない全頭マスク越しに、支配する側の愉悦が透けて見えた。

 地面に足を投げ出して、だらしなく口を半開く虎徹。その口へと紫電はタバコをねじ込む。

「正義の証跡は刻ま――」報告の途中で再びむせる紫電。その脇へと、新たな鳩が二羽降り立つ。

 大ぶりなスマホサイズの無線を片手に持ち上げた男が言った。


「零式、サイバーテロ対策課の協力者から報告が二件ありました」


 男は言葉を選ぶように話す。マスク越しにも緊張しているのが分かった。


「一件目は、上野駅付近で民間人と六識深滔リクシキシントウ泥眼デイガンの接触がありました。今から五分前のことです。現在も戦闘中と思われます」


 興味もなさそうに訊く零式へと、予定調和のように男は事務的に補足する。


「ちなみに泥眼側のリーダーと思わしき女はブンラクと名乗ったそうです」


 零式の代弁をするように、ふんと鼻を鳴らしたのは、男の隣でスナイパーライフルを抱えた――虎徹を狙撃した――長身の男だった。


滔主とうしゅ閃虚セロの前後左右の席に座す、教団内では閃虚に次いで№2に位置する四髄シズイと呼ばれる四人の大幹部、そのひとり、『第五深層』・後髄コウズイ深淵シンエンか? だがそいつの目撃情報はこの二日で何件目だ?」


 男は返すつもりなどはなからからなかったかのように肩を竦めて見せただけだった。そのあとでひとつ小さく深呼吸する。男は努めて冷静さを装って話した。


「赤羽で、イヌガミの姿が確認されたとのことです。ただしそれも三十分以上前の話のようです」


「三十分前だと!?」苛立ちを隠そうともせず訊いたのは、スナイパーライフルの男だった。


「零式、いくらなんでも報告が遅すぎるんじゃないですか? 協力者はことの重大さが理解できていない。最重要の監視対象がイヌガミであると、最優先で鉄槌を下さねばならない男であると、我々は繰り返し伝えてきたはずです」


 零式は淡々と話す。


「この状況下だ。関係各所が騒動収束後の復旧活動及び、利権絡みのマウントの取り合いに明け暮れている。協力者にしてもギリギリのところで動いてもらっている以上、タイムラグが発生するのは仕方ないことなのだろう」


「だとしても――」食い下がろうとした男を、零式は右掌を広げて制する。

 無線の男が尋ねる。「零式、どうするんですか?」

 零式が告げた。


「まずはイヌガミだ。全隊員に赤羽に移動するよう通達。現着場所は追って連絡する。ハヤブサ屠龍トリュウは富嶽の回収を終えてから向かってくれ」


 一様に頷く。そして音も無く鳩は飛び立っていく。

 その光景を眺めながら、虎徹の意識は薄れていく。



    □■



 虎徹の意識が緩やかに浮上した時、辺りには既に宵の闇が訪れていた。

 はっきりとは見えない。それでも革ジャンが琥珀色の液体と血に塗れているのは理解できた。

 左の内ポケットをまさぐる。スキットルを取り出すと、そこに弾痕が見て取れた。


「ツいてる……」


 心臓の位置にあったスキットルに狙撃手の銃弾は確かに命中している。


「……わけがねぇよな」


 そして銃弾はしっかりと貫通していた。

 心臓への直撃が避けられても体内に留まる弾丸。スキットルに開いた穴から零れ落ちたウィスキー。風前の灯の命。文字通り虎徹には何も残っていなかった。

 その時、ふいに気がついた。お得意の幻かとも思った。傷ついた野良猫でも見るような視線、それが虎徹のすぐ頭上にあった。


磁器人形ビスクドールの次は、日本人形か?」 


 せいぜいが中学生といった容姿。その透き通るような肌に誇張したかのようなメイク。まぶたと唇に引かれた紅は、まるで子供が背伸びして大人の真似ごとをしたかのようで、なおさらに少女を少女として肯定しているよう。

 和洋折衷。黒地の振袖にミニスカートを掛け合わせたような姿。袋帯の帯締めや、振袖を彩る牡丹の柄は赤。統一された色のモチーフは漆黒と真紅。膝まで届く長いツインテールを留めた髪飾りも同じく血のような赤色をしていたが、湾曲して先の尖る形状は鬼の角を連想させた。可愛いらしい小鬼を。


 荒い息遣いで虎徹は精一杯の軽口を叩く。


「よくよく子供ガキに縁のある日だな」


 そこにいた和装の少女が消えてしまうことはなかった。幻でなかったとして、虎徹にはもうどうでも良かった。


 少女が訊いた。


「何か言い残すことはあるか?」


 わずかの逡巡。虎徹は生まれて初めて思考する。

 そして答えた。


「ない……俺には何も、ない」


 少女は小さく頷いた。

 離れた空で声が響く。


「キラリさーん、やっぱりイチゴミルク飴どこにもないですよー。見つけたのはせいぜい笛ラムネくらいのもんでー。それより早く行かないと列車が来ちゃいますってー」


「うむ、すぐに追いつくから先に行っておれっ」返したあとで、少女は虎徹を再び見下ろした。


「今世ではお主の出番はなかったということじゃろう」


 来世ならあるのかい――とは続けなかった。

 虎徹の意識は深く暗い底へと沈んでいった。

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