第三十七話 眞野花織――ヴォジャノーイ 4
花織は淡々と話し始める。
「ギフトがどうのは知らないけど、帝都グループの分家筋、その婿養子が本家を見返してやろうと張り切っちゃった結果、自分でも制御不能の事態に陥っちゃったってところかしら。でもちょっとだけ、私は違和感があるのだけど、ね」
花織の説明に、ハチマキ男が明らかに怪訝な表情を浮かべる。あまりに突発的に過ぎる少女の問いに対し、花織はさも当たり前という顔で返す。違和を覚えて当然だろう。花織はそれを意識しながら、だけど無視して続ける。
「帝釈アレン、彼が作り上げたいわゆるロメロ・ウィルス。開発初期の物は徐々に全身を別の細胞へと作り返る代物だった。ゾンビ化するのは同じだけど、ゆっくりとじっくりと時間を掛けて生まれ変わらせる。サンプルデータの映像記録を見るに、その段階で世界を滅ぼすつもりだったかどうかは分からない」
小さく嘆息する。すべては過去、正直いって付録に過ぎない話。だとしても考えずにはいられなかった。
世界の終焉に
「そのサンプルデータをアルファ版とするなら、今回世間に出回ったのはその改良版とも呼ぶべきベータ版ってとこでしょうね。感染からの進行速度は、私が知っていた物とは桁が違いすぎるけど」
そんな愚かな花織を慈しむように、憐れむように、少女は悪戯っぽく笑った。
「帝釈アレン。元来が天才に類する者じゃ。そんな男に与えられた
列車を降りるタイミングも、理由も失ってしまった花織にすれば所詮はただの暇つぶしに過ぎない。それでもひとつの謎に解答を示してくれた少女に久しく忘れていた感謝の気持ちを覚えた。
花織は少女が示した答えを敢えて言葉にする。一人の男によってもたらされた愚かな顛末を、そしてそれを機に自分と瑠紗に訪れた寂しい結末を理解するように。
「世界を救う道もあった……だけどアレンは、敢えて初期のウィルスを改悪の道へと進化させて、世界を滅ぼすウィルスを完成させたってことね」
少女は補足するように続ける。
「まあの。人類にとっては改悪でも、アレンにとっては改善なのだろうよ。すべては抗ウィルス剤とワクチンありきの話であろうからの」
ワクチンありき――花織はその言葉の意味を十分に理解していた。
「感染しても人としての記録と記憶を留めるベータ版のウィルスならばこそ、ウィルスの活動を抑え込む抗ウィルス剤も、
花織の瞳を真っ直ぐに見つめる少女が苦笑を浮かべる。
「じゃが、自作自演の救済者を演出しようとしていたアレンにしても、今回の騒動、ウィルスの流出は予期せぬことだったはずじゃ。元々用意しとっただけの抗ウィルス剤とワクチンを『完成させた』というていでごまかしはしたものの、それとて苦肉の策。ウィルス流出からワクチンの散布に至るまでの期間が初動の遅れを物語っておる。おそらく当のアレンも、今回の騒動が自分の作った作品のせいだと当初は気づいてもおらんかったのじゃろう」
「段取りに絶大な自信を持つ者が、自身のコントロールの外においては脆弱性を露呈させた?」
花織は自分の作品に出てくるキャラクターを思い浮かべる。
通称、花街の魔法使い――
少女は新聞の束を引っ掴み、それを床一面にばら撒く。
「世の中的にはたったの三か月で抗ウィルス剤とワクチンの生成という偉業を成し遂げたはずなのに、アレンは表には一向に出てきておらん。それがすべてを物語っておるよ。声明はあくまでテートソーマの広報担当。ならばアレンは? おそらく裏切り者の影にでも怯えて引き籠っとるんじゃろうの。完全防護の救命カプセルにでものう」
さすがに帝釈アレンの現状までは理解しえないことだ。だがその答えが花織にはしっくりする。花織の理解を肯定するように、少女は意地悪っぽくウィンクしてみせる。
そこでようやく男が発言権を得た。
「さっきから聞いてりゃ、ですよ。キラリさんの次元を超越した読解力はさておいて、そちらさんがどうして真理を説いてらっしゃるのか、まるで意味不明なんですけど」
キラリと呼ばれた少女は瞳をぱちくりとさせながら、
「胤光、お主は適当に相槌うっとくだけでよいのだぞ、頭悪いのじゃから。それでも一応、理由が必要というのなら、黒丸のリオちゃんがパズルを解いたわけじゃから、サイトにかぶりついとる生粋のマコニストなら、短い間とはいえ、サイトに隠された真実を覗くことは出来たに決まっとる……のう?」
少女が花織に向けてもう一度ウィンクした。
今さら、とは思いつつ、瑠花和マコトたる花織は――生粋のマコニスト気取りで――小さく頷く。そのあとで、気になるフレーズを問い返す。
「サイトの謎を解いた人を知っているの?」
少女は迷いなく、
「サイトに張り付いとった監視者にデータを盗まれた挙句、さっさと証拠隠滅されたようじゃがの。謎を解いたのは正真正銘、黒丸リオという女の子じゃよ」
(黒丸リオ……オリ・ま・
自然と花織の口元は綻んでいた。
もっと話してみたかったと思った彼女と、最後になんとなく繋がれたような気がした。
花織に感銘を受けたといった彼女。彼女ならいつの日か素晴らしいオリジナルを描くことが出来るだろう。
花織はテーブルの上に載った原稿用紙を眺めた。
(私も結局、大層なものじゃなかった。いまさらになって、やっとオリジナルを描けたのだから――)
線画が終了した瑠花和マコト名義の最初で最後の原稿が愛おしい。ベタ塗りもトーンも済んではいない。だけどそれは自分の仕事でなくても良いだろう。最後の作品にBL要素は微塵もない。ただ描きたかった漫画を描いただけ。こうして瑠花和マコトの仕事は終わったのだ。
花織は電子煙草を手に取り、感慨深く水蒸気を燻らせる。
すでに花織とは別の視点へと至った少女が言った。
「さてどうやら列車は目的地、つまりは一応の終着駅に到着しそうじゃの。うむ。時間通りじゃ」
花織と侵入者――いや、訪問者たちとの邂逅は終わった。一度重なり合った二組だが、彼女たちは既に別の場所を見据えていた。花織だけが取り残される。
「品川で下車じゃ、胤光。尊らはこれから浜松町のテートソーマ本社ビルを目指す」
少女が告げ、男は「はあ」と曖昧に返事する。
ブレーキがかかり、列車は減速していく。やがて彼女たちはここを後にする。
その中で――。
少女が最後に振り返る。
「本当に浄化は施さんでも良いか?」
(ああ。やはり。初めから彼女は全てを知っていたのだ――)
だからこそ。
「私一人で出来るわ。ありがとう」
本心で告げた。自分自身に言い聞かせるように。
「うむ。なればお別れじゃ。良い旅をな」
言って少女は扉へと向かう。二度と振り向くことはない。
花織は彼女たちの後ろ姿を目に留めることもしない。二度と誰かの背を追い続けるなんてまっぴらだった。ただソファに持たれて電子煙草の煙をなんとなく眺める。
彼女たちの気配が完全になくなり、部屋が洋梨の甘いフレーバーで満たされる頃、花織はゆっくりと立ち上がる。
改めて見渡すと、床には雑多な物が散らばっているのに気づく。積み上げられた新聞紙と大型の旅行カバンは別として、そのほとんどは参考資料だった。飾ることのなかったマグリットの
先端の技術もネットで買える昨今では、科学者も大手製薬会社から麻薬カルテルにヘッドハンティングされる時代らしい。
以前、取材旅行に行った先で聞いた裏社会の事情ではあったが、所詮、花織はたかが漫画家。データを知りえて、辞典を貪って、最新の薬剤製造機を購入したところで
だから結局、購入した数々はたかが漫画家の参考資料として床に転がっている。
自宅マンションの隣室で麻薬が作れるようなお手軽な世の中になったとして、科学者でもない花織にすればなす術もないことだったから。
なんの思い入れもないそれらを一通り眺めたたあとで、花織は歩き始める。
あの日。二人だけの部屋に駆け込んできた瑠紗が言った言葉。それが呪いのように頭の中に貼りついている。
『失敗した――』
涙ながらに彼女は言った――カオリ一人で逃げて。
その言葉に花織が従う訳なんてなかった。ひどい傷と血だらけの彼女を車に乗せて走りだす。一緒に旅に出ようと取っておいたチケットを握り締めて。
対決の末、破れた瑠紗は拷問に近い制裁を受けた。そしてそれだけに留まらず『A』は――〝悪〟は――彼女にアルファ版と呼ばれるロメロ・ウィルスのサンプルデータを投与した。
いつの間にか武装列車と化していた車内に乗り込む。
症状が現れ始めた彼女は、大型の旅行カバンに隠して運んだ。中の荷物はすべて捨てた。インナーバッグに入れてあったノートパソコンがあれば他に必要なものなんてない。武装列車では望めば大概のものが手に入るのだから。
ゾンビから身を守るための車両に、ゾンビを持ち込む人間がいるなど夢にも思わなかったのだろう。不審な乗客への警戒はしても、手荷物検査などあって無いようなものだった。
彼女から託され、自身のホームページに隠した悪事の証拠。あっさりと隠滅させられたそのウィルスは、ゆっくりとじっくりと時間を掛けて彼女を蝕んでいく。
アルファ版のウィルスには、ワクチンを作るという概念が最初から存在しなかった。
取引材料となりえるには、人としてのDNAとウィルスの切り離しが任意で出来ることが絶対条件だった。それが可能となればこそ
DNAとウィルスが独立共存するベータ版と違い、DNAとウィルスが完全に結びつく結合共存型のアルファ版は切り離しが不可能だった。
ベータ版にすれば独立したウィルスだけを攻撃する抗ウィルス剤も、アルファ版にすればウィルスを完全に死滅させるに過ぎない。結合したDNAごと――人としての存在ごと――根こそぎで。
空気清浄装置の電源を落とす。
パニックルームのロックを外した。
完全な空調管理が施されていた室内へと侵入していく――
甘い匂いに満たされた外気が。
散布され、混じり合った薬剤が残ったままの空気が。
つまりは死の臭いが。
食欲を紛らわせるために、定期的に与えていた豚肉の残りかすが散らかった床。
そこに彼女が立っていた。
≒
いつも煌めいていた金髪は色褪せ、宝石のようだった双眸も白濁が混じる。
だが、それがなんだ。そんなことで彼女の気高さも美しさも全く色褪せないということを私は、私だけが知っている。
細くなった腕に繋がれた鎖が音を鳴らす。
私はゆっくりと近づいてく。
私は、私の半身を探していた。欠けてしまった心と体がひとつになったとき、私は大海へと漕ぎ出せる――そう本気で信じていた。
彼女となら、きっと――。
そして最後の接吻を交わす。甘い口づけを。今度は私から。
私の最後の作品のタイトルは『ローレライ』
いうならば、彼女はこの世の中を自由に泳ぎ続ける人魚。彼女が私の半身であるのなら、私もまた世界を自由に泳ぎ続けられるはずだった。
だが。
私と出会わなければ、彼女が命を落とすことはなかったのか?
私が人魚を殺したのか?
私は人魚にはなれなかった。しょせん私は人魚を喰らう者に過ぎなかったのかもしれない。だとしたらこれはきっと当然の
いや、逆説的には幸せなことなのかもしれない――人魚を喰らう者が人魚に喰われるということも……。
おやすみなさい、瑠紗――。
良い夢を、瑠花和マコト――。
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