第三十二話 XXXXX――ベルゼブブ 7
XXXX理
一階エレベーターの扉が開かれた。
布で覆われた巨大な塊を背に、ガスマスク姿の三人が降り立つ。
満身創痍の
望ましい光景に、満面の笑みを浮かべて
「第八回スパルタン・Z、みなさんご苦労様でーす」
その声にナタクが反応する。
「ワタルかい? なんでアンタがそこから出てくるんだい?」
失礼しました、と言いながらワタルはマスクを外す。
「さて、これで本当のお仕舞いです。これより真のベルゼブブを開放しますので、皆さん仲良く全滅してください」
蛍光色でペイントされたガスマスクで顔の下半分を覆ったミチルは、履いたインラインスケートで軽やかに。もったいぶった所作で布を引き抜く。巨大な塊が――異物の集合体たる異形の怪物が――姿を現す。
背中合わせに縫い付けられた二体のガスマスク。シャム双生児を思わせる二体のゾンビ。上を向いたゾンビの頭部、双眸にはケースに入ったふたつの脳味噌が巨大蠅の複眼のように取り付けてある。下を向いた方の両手足は、開口器でこじ開けた四体のゾンビの口に突き刺さっていた。
上向きのゾンビは下腹部で切断されており、そこにゾンビの上半身と思われるものが数多に縫い合わされ巨大な屍袋を形成している。張り付いたゾンビを虫の頭と胸と呼ぶなら、腹と呼ぶべき袋はその三倍はあった。腹の支えとして二体の首なしゾンビが両側に取り付けられてはいたが、袋を引きずって歩く姿からあまり足の機能を果たしてはいない。
胸との接着面近くの腹袋の上部には穴が開き、肉の塊がうねっている。
ガスマスクなしには耐えられない鼻を突く腐った臓物の臭い。全裸のゾンビを縫い合わせて作られた、ツギハギだらけのオブジェ。広げた四枚の翅に、六足歩行で歩く巨大な影――蠅の化け
異形の怪物がエレベーターからフロアへとゆっくりと歩きだしていく。
館内放送に乗って、
『さあベルゼブブゥ、本領発揮だァ。
ベルゼブブの巨大な複眼を形成するケースに赤色の光が灯る。殺戮ショーの開幕を告げるように。
ゴウカとナタクに浮かぶ憎しみの表情を弄ぶように、
僅かに冷静さを欠いたワタルが口を開ける前に、首までジップアップしたモッズコート姿の
ミチルがタギルの方へと振り向く。小柄なミチルと比例すると、種明かしの済んだ今のタギルは
見下ろすタギルが血染めのモッズコートのポケットから取り出したものを摘まんで見せる。それはタグリからの戦利品――ヴィヴィアンのピアス。
小首を傾げるミチルに向けて、タギルはグローブで覆った両手で『W』の文字を作って見せた。両手のVサインを合わせてWの文字を形作る。
それだけでミチルは理解した――阿鼻叫喚の
気を良くするミチルが左の耳をタギルに向ける。うっとりとした表情。まるで『パンがないならゾンビに喰われてしまえ』的な女王気取りで。首を伸ばし顎を右に傾ぐ。そんな無防備な姿勢。
それを十分に見据えてタギルは蹴り飛ばした。完全なる不意打ち。ミチルが床を転がる。ベルゼブブが引きずる袋をクッション代わりにようやく止まると、ショートパンツから伸びた両足には肉片がこびりついていた。上半身を起こしざま、
「タギルっ、テメー何しやがる!」
笑顔を歪めてミチルは叫んだ。
「何、って。仕返しに決まってんだろ? メスチンパンジー」
女の――タグリの――声で。
同時にタギルの巨体が霧散するように――ぶわっと黒い霧が晴れるように――消えてなくなる。ブリーチを繰り返したホワイトアッシュに、うっすらバイオレットが混じるショートヘア。ぶかぶかのモッズコートを羽織った
「な、な、なんでっ、なんでテメー生きてんだよっ!!」
ミチルが泡を食って捲し立てる。先刻の余裕など微塵も感じられない。醜態。そこから一転しての切り替えは、プライドのなせる技。晒した事実を抹消すべく短機関銃を構える。
「ミチ――」言いかけて口をつぐんだワタル。大仰に右手で口を塞いでいた。誰もが気づきもしない挙動をタグリだけが観察していた。
「なり損ねたんだねーキラキラのお星にっ☆ だったらもっぺん死んできなよ♪ タグリちゃんはっ、生きる価値もない顔面偏差値落第雑魚ビッチなんだからぁぁぁぁ!!」
ワタルの指示も待たずに怒号を爆発させるミチル。秒速二十四発の高速連射が可能なMP5Kの引き金に指をかける。
ワタルは動けない。自分を凝視する双眸。息を飲んだ。瞳を縁取る崩れたメイク。畏怖を覚えた。縁に残る一筋の涙腺。それは既にかつての意味をなさない。ふたつの眼は三日月に形を変える。凶兆だと確信した。せせら嗤う。竦み上がっていた。あれはもう以前のタグリじゃない――だからワタルは動けない。
「死ぃ――」怒号と共に9ミリパラベラム弾を撒き散らそうとしていたミチルの叫びが掻き消される。ピタリと。
そちらへとゆっくりと視線を移したタグリ。三日月の瞳のまま「ヒィ」と声を上げて嗤う。
ベルゼブブの背から伸びた巨大な触手の一本がミチルの頭部を咥え込んでいた。締め付けられた蛍光色のガスマスクがひしゃげる。
「離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ離へ」
未知の深海生物の如き巨大な咢にすっぽり鼻まで覆われたミチル。その体が吊るし上げられていく。力の濁流に飲み込まれていく。
ミチルは抗うように、ふがふが言いながら短機関銃の引き金を引いた。触手へと銃弾が突き刺さる。ミチルは引き金を引き続ける、弾倉が空になるまで。ピンク色の肉塊に続々と銃弾がめり込んでいく。だが天使の抵抗を嘲笑うかのように触手は一気にミチルを吊るし上げた。まるで見世物のように。
「はなへ、はなえ、ああへ、あへ、あえへ、ああへあえ、あえ」
発する声は言葉として成立しなくなっていく。
「ほら逝っちゃえッ。みんなの見てる前で」タグリはその光景を愉しむようにニタニタと笑っている。
ワタルの顔色はどんどん青ざめていく。
ミチルは最後の足掻きのように両足をジタバタと動かし続ける。煩わしさを解消するように他の触手が四本、ミチルの両手足をホールドする。太ももからインラインスケートに伝って、失禁と血の混じった液体が床に溜まっていく。
「あえっ」最後の声を発して、ミチルの身体は解放された。宙に留まる触手の咢、その奥へとひだ状にびっしりと生えたミミズのような触手が引っ込んでいくのが見えた。
そしてタグリが爆笑する。
「ヒィ、マジでノーミソカラッポじゃん、アンタ。ヒィ、ウケるぅ。ヒィ、ねえ、ワタルもそう思わない?」
タグリに問われても、ワタルはまともに返すことも出来ない。
散々弄ばれたあとで解放されたミチルは、アヒル座りのまま虚ろな瞳で宙を見つめている。頭部には錐で開けたような無数の穴が広がっていた。天使は悪魔の餌食となった。
ゴウカやナタクたちプレイヤーは悲鳴すら上げられない。文字通り息を殺して、ベルゼブブの巨体から逃げるようにじりじりと後退していく。その中でタグリの笑い声だけが響き渡っていた。
誰ともなしにワタルは喋る。呆然としたままで。
「なん、で……。だって。お前は。タギルが。タギル? タギルは何をしてるんだ? タギルはお前を。なんで……。だって、お前は、タギルが……」
堂々巡りの思考をタグリは嘲る。煽る。
「ヒィ、どぉしたどぉしたあ? ヒィ、ッヒィ、いつもの余裕ぶったワタルくんはどこ行ったあ?」
ワタルはないまぜの感情で、
「お、お前が生きてるわけがないんだ。お前は、マグナム弾を腹に喰らって、タギルにとどめを刺されたんだ。それでも動けるっていうならそれはゾンビ――」
「――じゃないんだよ。ヒィ、なんで私が生きてるかっていわれりゃあ、そりゃあストーリィー的にヒロインポジの可愛い私が死ぬってのありえないってことだけどぉ。ヒィ、それでも賢ぶってるワタルくんなりの説明が欲しいってんなら、ヒィ、つまりは土壇場で私が覚醒したから、ってこったね。ヒィ、ちなみにお前らがそうしたんだよ。ヒィ、お前らが私を覚醒させたんだよ」
タグリの持ち上げた右手。掌の周りにぶわっと出現した黒い羽虫が凝縮されるようにして形を成す――それは子ども用のカーボン製黒バット。
「これが私の能力――なんて自慢するほどのモンじゃあなかった。一年前から存在してはいたんだけど、使い勝手も悪くてねー。私が触れたことのある対象をコピー出来るんだけど、コピーの対象は物体の質量に限るって制限つき。食料コピってもとても食えたもんじゃないんだよ。まあるで使い勝手悪いったらありゃしねーの。しかも長さにしたってせいぜいがこの程度まで。このバット以上の長さを形成しようとしても、コピーが
タグリが手を離した瞬間、黒バットは地に落ちる間際で黒い羽虫の群れへと姿を変え、霧のように霧散していく。
「だ、か、らあ、私自身、大した力っていう認識はなかったんだよ。ヒィ、今の今まで」
言いながら、タグリは黒いシャツに滲み出る出血を右手で押さえた。傷の具合を目に留めて、ワタルは若干冷静さを取り戻す。しかし、ワタルが主導権を取り戻すべく何かしらの言葉を発する前に、タグリは右手を払った。二メートルほどの距離を置いたワタルの体に、タグリの血が数滴かかる。瞬間、ズキリとした痛みを感じてワタルは顔を歪ませる。
タグリの血が付着した部位に走る疼痛――『針』で刺されたような。ワタルは慌ててタグリとの距離を離した。
「気づいたのは太っちょモドキに追われてるときさあ。ヒィ、言っただろ? コイツは
ワタルは答えられない。
タグリは邪悪そうに笑った。
「ッヒィ、あの嘘つきデブなら『針千本飲ます』の刑に処してやったさあ!」
顔面蒼白になるワタル。うわ言のよう口だけ動かす。
「そ、それ以前にお前の腹にはタギルが穴を開けたはずだろ? 生きていられるはずもない大穴を」
タグリがため息を吐く。軽蔑の眼差しを向けながら、
「ガチで頭悪ぃなあ、ワタル。応用問題っつったろ?」
タグリの右手に集まる黒い羽虫。コンパクトサイズのフライパンが形成される。
「最初コートのポケットをタギルが漁り始めたとき、私はさ、刃物かなんか出すと思ってコイツを腹に仕込んだんだよ。したらあの野郎、黒い塊を取り出したろ? だから私はフライパンを二枚重ねにしたワケ」
黒いフライパンが形を変える。二枚のフライパンを面合わせで張り付けたような形状。中は空洞になっている。
「ふざけるな……」言葉とは裏腹にワタルの声は弱々しい。
「……そんな物で弾丸を防げるかよ。しかもただの銃弾じゃない、マグナム弾だぞ?」
タグリは然も当たり前といった顔で言った。
「非ニュートン流体」
「ひ、にゅー……なんだ? なんだよそれはぁ!」
言葉の意味がワタルには理解出来ない。その様子を眺めながら、タグリは心底馬鹿にするように話す。
「良いかいワタルくん、ヒィ、頭の悪ぅい君にも分かるように説明してあげよう。ホイップクリームでもアイスクリームでもダメなんだ。衝撃を加えると固くなり、加わる力がなくなると液状に戻るという性質。上手く作用すれば銃弾だって受け止められる。それが非ニュートン流体。カスタードクリームは非ニュートン流体で構造粘性を示すのだよ。だ、か、らあ、タギルが取り出した黒い塊の正体が銃と知れた瞬間、私はこのフライパンの中身をカスタードクリームで満たしたのさッ」
説明されたところで、やはりワタルには理解出来ない。タグリが生きている意味が分からない。頭の中はグチャグチャだった。すべてが後手後手だった。
「とはいえさあ……」タグリが左手でぶらつかせていた回転式拳銃――マテバオートリボルバー――を持ち上げて見せる。
ギョッとするワタル。思い出したように懐から自動拳銃――ベレッタPx4――を抜いた。
ワタルの挙動を無視してタグリは続ける。
「……こんなゴツイ銃とは思ってねえじゃん、コッチも。成り代わるための全身コピー用にタギルを裸にしてみたら、思ったとおりだったわ。いきり立ったマグナムぶら下げたところで、本人のがあれじゃあねえ? 自信のなさの裏返しってヤツ? 何はともあれ良い迷惑だってえの。マグナム弾だあ? ッザケんな、コッチは勢い殺し切れなかったっつうの」
シャツをはだけて見せたタグリ。腹部の傷を覆った黒い絆創膏からは血が滲み出ていた。
それを見たワタルが無理やりに勢いづく。ベレッタの銃口を向けながら、
「マグナムの弾は腹の中か? 致命傷は避けられたとして重症には違いないな」
主導権を取り返しに来る。
だとして動じることもないタグリ。呆れを通り越して下らないものでも見るように。
「アンタもタギルと同じ口か? 結局そういうのがなけりゃあ、女とは付き合えないタイプう?」
変則的な呼吸の仕方。そのせいか声はややハスキーがかっている。タグリに感じた変化の正体、そのひとつを察知する。それは紛れもなくタグリの命の色が褪せつつあることの証明でもあった。ワタルは冷静に解析できていた。だがそんなもの上書きするように、タグリはワタルの精神を凌辱し続ける。理性が感情に侵されていく。ドロドロに溶けあっていく。
わなわなと震えるワタルをよそに、「ナタ姉――」タグリはリボルバーを放り投げた。
「任しときな、タグリ。コイツであの化け物を――」
受け取りざま、ベルゼブブに向けて両手でリボルバーを構えたナタク。
しかしタグリは口元へと人差し指を立てていた。崩れたメイク。乾いた塩が一筋残るパンダのようなアイシャドウ。オーバーリップしたグロスは血と混じり合い、頬の方にまではみ出ている。それでもナタクへと向けた視線は力強い。
「その化け物はおそらく
纏う空気は静謐だった。耽美的ですらあった。
ナタクだけではない。そこにいるプレイヤー全員がタグリの言葉に聞き入っていた。場は完全にタグリがコントロールしていた。信じて疑わず、ナタクはゾンビの山にリボルバーを放り捨てる。
「さて」言いながら、タグリはワタルの表情を窺う。とはいってもメンチを切るような三白眼で。
「なーんにも言い返さないところを見るに、ビンゴらしいねえ? このバケモン、おそらく
ワタルは朦朧とした思考で結論づける――タギルもミチルもコイツに身も心も犯された……そして死んだ。
サラサラの黒髪を掻きむしる。そして今まさにワタルの自尊心を破壊しにかかっていた――その後に待ち受けるものなんて……。
ワタルは呪詛の如く繰り返す。
「ヤッてやる……ヤッてやる……ヤッてやる……」
ベレッタを放り捨て、貫禄の象徴だったコーディガンを脱ぎ捨てた。右手にサバイバルナイフ、左手にカランビットナイフ――握りの下部より覗かせる湾曲した刃――を構える。
「ヤッてやる。ヤッてやるよお、タグリい!」
泣き出しそうな顔でワタルは吠えた。
タグリはヒィと笑う。
「そうだ。そうでなくっちゃねえ。体ひとつでぶつかってこおい、男の子」
二人のやりとりをナタクは見ていた。遠目にもタグリの傷が深刻なのは理解出来ていた。だが目前にはベルゼブブが大きな障害となって立ちはだかっている。
タグリは言っていた――ベルゼブブは大きな音に反応する、と。極端に視力が悪いなら、虚を突くことも易いのかもしれない。ナタクは行動を起こそうとした。タグリのもとへと駆け出そうと。
それを阻止したのは、
『その通りだぜェ。ベルゼブブの視力は無いに等しい。一定以上の音、つまりは悲鳴や絶叫に反応するように設定してあるワケだがよォ。なかなかどうして、見た目に反して賢い嬢さんだなァ。感情的と見せてのさっきからの笑ったり煽ったりもォ、一定以下の音量を保ってやがったなァ?』
タグリは何も答えない。姿を現した黒幕の正体になぞ興味もなきように。一瞥すらしなかった。眼前のワタルしか見ていなかった。
交わせぬ会話に幾ばくか気落ちして見せて、獄門は続けた。
『だがなァ、聴力頼みを補って余りある仕組みはちゃあんと折り込み済みだァ。搭載された
巨体のベルゼブブを支える六本の足。正確には六×二本イコール十二本の足。そこに変化が生じる。生まれたての子ヤギのように頼りない足取り。支えきれずに前のめりで巨体が沈む。後部八本のゾンビの踵から突き出た骨、それは奇妙な形状をしていた。裸足の踵から半円だけ覗かせたのは、子供でも好みそうなローラーシューズのような。
一番前の四本の踵からは爪の形をした骨が突き出す。前足を形成する四本のゾンビは膝を曲げると、踵の爪を床に突き立てた。まるで肉食動物の前腕。捕食行動における臨戦態勢。
「ミチルのインラインスケートか!!」
ナタクが発した瞬間、ベルゼブブは床に突いた前腕を振り払った。巨体とは思えぬ推進力。トップギアでの加速。後方の踵、計八個の車輪を駆動させて。
迫り来る脅威からナタクとゴウカは同時に回避行動をとる。そのすぐ脇をSLを思わせる黒く巨大な塊が通り過ぎていった。躱しきれず、体を掠めた衝撃で弾かれたナタク。巨体は、アイスクリームショップとパン屋の店舗を破壊しながら停止した。
うめき声を上げながら見上げたナタクは呟く。「しまった……」
ショップに衝突したまま動かないベルゼブブ。人の皮で縫い合わされた巨大蠅の腹、ツギハギの皮袋に点在する不穏な紋様が映る。それはアーモンド型をした瞳のタトゥーだった。引きずるほどに肥大した腹袋の背から、翅を形成するように絡み合っていた無数の触手がほつれていく。そして起動したドローンに導かれ、触手は周囲を襲い始める。見えてはいない。だから文字通りの手当たり次第で。
触手の一本がナタクへと迫った。頭を丸ごと呑み込む巨大な口が開く。その奥でびっしりと並んだミミズのような群れが蠢く。ナタクは動けない。
その時、ナタクの眼前へと小柄な影が二階から降ってくる。着地ざま、和装の少女は即座に手にした回転式拳銃を撃った。轟音。ハンマーで殴られたような衝撃に触手が弾かれる。
だが触手はその形状を保ち続ける。一撃で
ベルゼブブがゆっくりと振り返る。暴走列車が発車準備を整えていくかのように。
「ふざけた成長のさせ方よのう。貴様、どういう教育方針しとるんじゃ?」
キラリは
大型ディスプレイの中でくつろぐ獄門は、どこまでもふざけた調子で答える。
『教育ゥ? 知らないなァ、そんなもの。いつまでも童心を忘れないオイラはさァどっちかってェと、育てるってェより育てられたいタイプなもんでねェ』
キラリの隣へと駆けてきた黒地の布を袈裟懸けにした男が、「立てるか?」尻もちをついたままのナタクへと手を伸ばした。
ナタクを起こすと、男は――胤光は――キラリに向けて。
「キラリさん、キリがないですよこりゃ。再生しないとはいえ、いちいち触手相手にするのも手間だし。大日如来印で手っ取り早く始末すんのが最善でしょうが、そいつも効かないとなると……」
キラリは胤光の言葉を遮るように厳しい声で、
「二階から落ちた衆生はどれだけ救えたのじゃ?」
「すいません、キラリさん。即死者も多くて……せいぜい半分くらいしか救えませんでした」
言いづらそうに答えた胤光の言葉を聞き終えると、キラリはわずかに黙祷を捧げる。そして速やかに切り替える。
「ふん」鼻を鳴らしたキラリは胤光とナタク、両方を見ながら答える。
「大日如来印が効かぬとは言っておらんぞ、尊はの。そもそもがじゃ、神仏の奇跡を強制的に拒絶させるとは舐め腐りおってからに、あの外道が。そっちがその気なら、こっちもこっちじゃ。外部からが無理ならば、内部から
「皮膚が表出している部分?」胤光が呟く。ナタクはベルゼブブの背を見ながら、答えを導き出す。
「背中だね。触手が生えてんのは、縫い合わされたツギハギゾンビの中からだ」
キラリが頷くのを見て、ナタクは叫んだ。
「みんなっ、触手の動きを止めるんだよ! 出来るだけでいい、触手の根本に触れられる距離と時間を稼げるだけ! そしたらあとは私がなんとかするから!」
一息に言い終えると同時に、ナタクの腰に手を回した胤光が飛ぶ。声に反応し迫り来る触手からの回避と合わせて、キラリが
ゴウカが言った。「ナタクなら必ず何とかしてくれる! 信じて戦え!」
モトルも続ける。「ドローン狙いだ!」
レイドまでもが声を上げた。「撃墜率を上げるためにも
進路変更不可の暴走特急がトップギアで加速した瞬間、プレイヤーたちは時を移さず散開する。しかしバラバラになりながらも三人一組の小隊を形成していく。
そして懸衣の爺様が号令を発した。
「かかれい!!」
自身も攻撃態勢を整えながら、ナタクは離れたタグリの無事を祈る。
冷静さを欠くワタル。だとしてもそのナイフ捌きは冷徹そのものだった。
タグリには防戦一方の耐える時間が続く。皮膚は裂かれ、肉が削がれる。なのに瞳は三日月のまま。口元には笑みさえ浮かんでいた。
ワタルのサバイバルナイフを黒バットで受けるタグリ。だがカランビットナイフによる刹那の追撃で黒いシャツもミニスカートも切り刻まれる。刻一刻と新しい傷が増えていく。
それでも余裕のない表情を浮かべていたのはワタルの方だった。「ヤッてやる……ヤッてやる……」血走った瞳で繰り返し続ける。
「生き残るのは俺だ! ドイツもコイツもぶち殺してヤるぁ!!」
真っすぐに突き入れたサバイバルナイフ。黒バットで大きく弾いたタグリがバランスを崩す。見逃さない好機。ワタルは体ごとぶつかっていった。
タグリに覆いかぶさるようにして、ワタルも態勢を崩す。勢いを殺せなかった黒バットがタグリの手を離れ、羽虫となって霧散していった。後頭部をうちながらタグリは床に大の字に倒れる。崩れ行く中、辛うじてマウントの態勢をとったワタル。馬乗りになった両足でタグリの胴を万力のように固定する。火事場の、そして最後の意地だった。
一連の攻防の中でワタルの左手が動いた。弾かれた右手は返せない。サバイバルナイフでの攻撃は一拍遅くなる。麻痺した思考でも、自動操縦のごとく覚えた体が反応する。左のカランビットナイフをタグリの右の脇腹深くへと突き刺した。
僅かに口元を歪ませたワタルは、しかし即座に呆然とする。「マズい……」左手に残った感触は肉に突き刺したそれとは違っていた。遅れて鈍い音がしたことに気づく。顕現させたフライパンでの防御――導き出された結論が、自身の危機的状況の理解へと切り替わる。ワタルの脳内が危険信号で塗り潰されていく。サバイバルナイフを握る右手に力を籠めた。
だが――。
タグリは転がったままで天へと両手を伸ばしていた。ちょうどワタルのほほに触れるか触れないかの距離。崩れたメイクに覆われた両目は潤んでいた。グロスのはみ出た唇は緩んでいる。朦朧としたような、恍惚といった表情。
「……しな……」
タグリの呟きはワタルにははっきりと聞こえない。明確に本能は告げていた――逃げるべきだと。だがワタルは立て直すために体を離すことも、サバイバルナイフを突き刺すこともせずに。コンマ一秒、朦朧とした理性がタグリの発した言葉の意味を求める。ほんの僅か、タグリの言葉を聞き取るために頭を近づける。
タグリはワタルの頭をそっと抱え、抱きしめる。
ヤバい――理性を取り戻したワタルが力づくで体を離そうとした瞬間、タグリは言った。
「堪能しな。これが死の味だ――」
そして口づける。
重ねた唇。触れるか触れないかの舌先で受粉。その刹那に顕現する。頭蓋を粉砕しながら、ワタルの脳天で漆黒の釘バットが咲いた。
全身を引き攣らせた後で、ワタルは果てた。ぐったりとした男の体がタグリへと覆い被さる。純粋な重力に任せたワタルの死骸は弛緩しきっている。それを使い果たした体力と女の細腕ではどかすのも容易ではなかった。それでもタグリは立ち上がる。満身創痍の体を引きずりながら。
戦況を窺う。ナタクたちプレイヤーの善戦もあって、ベルゼブブの触手は三分の一ほどが床を這いずっていた。鬱蒼と茂った樹木のようにベルゼブブの背から生えた触手の群れ。そこに獣道程度に隙間ができていた。巨体をゆっくりと左右に動かすベルゼブブの触手の隙間に、イベントフロアで折り重なるゾンビの山が映った。その瞬間、タグリは叫ぶ。掠れ気味の声で、血を吐きながら。
「今だよソラッ!!」
ベルゼブブの聴覚は確かにその声を拾った。二つの脳で形成された双眸が――蠅の王の複眼が――タグリを捉える。巨体の動きが止まる。
瞬間、ゾンビの山の一角が崩れるや、飛び出す影。地面に転がるマテバオートリボルバーを拾うとトップスピードのまま、ベルゼブブの左後ろ足を成すゾンビの腹を踏み抜いた。ミルクティーの髪に屍肉の残渣を張り付けたままで、
五発のマグナム弾は触手の根本で弾けた。背部を襲った衝撃でベルゼブブの巨体が地面に圧し潰される。
勢いそのままに転がってきたソラがタグリの足元に辿り着く。
「まったく、タグリってば。ホント人使いが荒いんだから」
立ち上がりながら儚げな笑みを浮かべたソラへと、
「どっちがだよ。オマエだろ? 裏切り者の蠅探しのために同盟内で疑わせ合うように仕組んだの」
タグリに言われてもソラは笑みを崩さない。
「まあね。でも、そこまで分かっているっていうことなら、『蠅』は俺の予想通りの人物で間違いなかった、ってことでいいのかな? 俺がゾンビ山に隠れたのに気づけるくらい二階にいられたってことは、当然、ワタルたちと蠅野郎のやり取りも知れたってことだよね?」
タグリは何も答えない。ただベルゼブブの最期を見つめていた。
「大日如来法界定印――
ソラが切り裂いた触手の根本、そこへと胤光が両手を当てる。ベルゼブブを成すゾンビたち、その瞳や口、穴という穴から金色の光がほとばしった。
ツギハギと死で形成されたベルゼブブの終焉。綻び、滅んでいく。
崩れ落ちる巨体をしり目に、巨大ディスプレイの奥からはくぐもった笑い声。『人とゾンビの饗宴。そんじゃまァ次回をお楽しみにィ――』
『――トゥービィーコンティニュードォ』
興奮冷めやらぬプレイヤーたちの中で、モトルが叫んだ。
「一階を探せ! 八つ裂きにしてやる!
モトルの言葉に先導されるように、プレイヤーたちが駆け出していく。
緊張の糸が切れたようにタグリは座り込んだ。「男の子たちはげんきだねえ」辛うじての軽口に、ようやく心からの笑顔。先刻までの邪悪さは消え失せていた。
キラリはタグリのもとへとやってくると、
「やんごとなき状況ゆえ、とはいえども感心はせぬのう、黒娘よ。授かった力は誤った使い方をすれば身を滅ぼしかねんぞ。歪んだ正義という
試すように見やった。
黒娘呼ばわりされたタグリは見上げて、
「そうゆんじゃないって。必死こいて煽ってたのも、結局余裕のなさの裏返し。イッパイイッパイだっただけだって」
深々と息を吐く。
満足げに頷いたキラリは最後の言葉を掛けた。
「ならば良し。せいぜい精進を続けることじゃ。さて尊はプリン・アラモード、もしくは最低でもいちごミルク飴を奉納させるという大義があるでな。これで失礼するぞ、黒娘よ。また会おう」
胤光を伴って食材コーナーへと消えていくキラリ。交代するように駆けてきたのは見知った少年と少女。息を切らしながらバトが言った。瞼は涙で濡れていた。
「タグリ姉ちゃん、死んじゃやだよぉ! 俺たちもハギトも無事だったんだからさあ」
「心配すんな。掠り傷だよ」言いながらタグリはヒィと笑う。
リンが尋ねる。「ケンは? ケン兄ちゃんは無事なの?」
質問には答えず、タグリは疲れ切った顔で言った。
「ケンは……ケンなら立派に戦ったよ」
二階を望むと、テラスに寄り掛かる脱衣ハギトが親指を立てて見せる。
タグリはただ静かに頷いた。
タグリが頷くのを見て、階下の安全を確認したハギトは二階の人々へと声をかけた。
「もうすぐ自衛隊の救援が来るはずだ。負傷者がいるようなら教えてくれ」
声を上げたとき、脇腹の痛みが走る。体が不自由なのは自身も同じだった。そして思い出す。不自由というなら――
「そうだ。ヨミのばあさんは? ばあさんは無事か?」
独り言ちて周囲を見渡したとき、老婆の姿を見つけた。足を引きずってハギトは近づいていく。
「無事か? ばあさん」
老婆は体が不自由とは聞いていたが、目も悪いらしい。声の出元を探すようにきょろきょろと首を動かしていた。
「あんたは誰だい? それよりミヨコさんはどこに行ったんだい?」
「ミヨコ? 何を言ってるんだ、あんたの孫ならヨミだろ?」
ハギトの問いを老婆は否定する。
「あんたこそ何を言ってるんだい? 孫じゃなくて息子の嫁のミヨコさんだよ」
ハギトは愕然とする――ミヨコ、誰だそれは……?
二階のテラスに縋り付き、階下を見下ろす。そこに
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