第二十七話 友直真先――ストライカー 4
ノブこと、
そもそもオートマの軽自動車は親切な二人組にもらったという。そんな馬鹿な、と
世の中が変わったとして、ノブはノブだ。少し臆病で、だけど優しさの塊みたいなノブが窃盗とか強盗だとかをする姿はまったく想像できない。だからなんとなくマサキは納得してみる。人一倍慎重な高二のノブが、車の運転などという危険を冒している謎は解けたから、それはそれで良しということにして。
「たしかこの辺りのはずだよ、マサキ」
ノブがピンクでデコデコしたスマホを手に言った。見慣れないスマホはノブのものでも、ましてやユウナのものでもない。ノブが言うには、車の持ち主の忘れ物ということらしい。
なんにせよ、ロックも掛かっていないスマホが重宝することに変わりはない。車内には充電器があるし、都市自体の通信状況に支障はない。不条理な世の中には違いないが、ありがたい話ではあった。
「本当に行くの?」
ノブは不安げな瞳で訊いた。
マサキは頷き返して車のドアを開ける。伸びざらした髪を掻き上げ、キャップを被った。ノブが事前に調達して後部座席に放置されていたそれはマサキの頭にしっくり収まる。そしてキャップを被ることなど野球を辞めて以来だと、マサキは思い至る。再々放送のアニメに出てきたガンマンが命中精度を上げる為に帽子のツバを折るのを見てから、マサキもキャップのツバを折るのが習慣となっていた。今被ったキャップのツバも既に折り曲げてあった。
ネットで検索して辿り着いた目的地、ナビの上ではもう少し先を示しているが、車道は細くて少し入り組んでいた。無免許のノブにしてみれば自信がない。とはいえマサキも似たようなものだ。だからここからは徒歩になる。
マサキの記憶は戻りつつある。だが所々は相変わらず抜け落ちたままだった。
だからこそ、この逃避行の軌跡を辿りたい――言ったのはマサキだった。
ノブは、マサキが三日間眠りっぱなしだったと語った。だがマサキにすれば、四人――マサキとノブ、そしてアツシとユウナ――で過ごしたのは、まるで昨日のことのように感じられる。同時に季節の移り変わりが嘘のような、楽しみにしていた夏休みが終わりどころか、始まってもいないような気さえしていた。
マサキは悪夢の始まりを思い返す。
†
「――マサキぃ、お前は本当に愛すべき真っ直ぐな人間だな」
アツシが言った。季節は夏。今年一番の暑さを記録したそんな日でも、口元に涼しげな笑みを浮かべたままで。
「っせーな」マサキは開襟シャツの胸元をパタパタさせながら答えた。
「どうせ俺は真っ直ぐしか取りえのない人間だよ」
この炎天下、おそらく熱中症であろう道端で自転車の脇に座り込んでしまった爺さんと、一見すればその爺さんを介抱していると思われた若い男。それを発見したのが今から十分程前の話だった。
しかし駆け寄るマサキの姿を認めるとヤンチャな風体に茶髪頭の男は、「べ、別に熱海旅行の旅費が欲しくてとかそんなんじゃ……」訳の分からない言い訳を並べながら逃げ出していった。どさくさ紛れに爺さんの懐から財布を抜き取ろうとしていのだとマサキは遅れて気がついた。
悪事は未然に防がれた、とはいえ依然として爺さんの意識は朦朧としたまま。スポーツドリンクの購入に、近所の個人病院に相談の電話やらとマサキは駆けずり回った。だが気づいた時には、当の爺さんも自前の自転車でふらふらと逃げるように去っていった。
「しかし、お礼のひとつもないとはねぇ」
右往左往していたマサキへと途中から合流したアツシが言う。とはいえいつもの微笑苦をはりつけたままで。
「別にお礼目的とかじゃねえし」
口を尖らせるマサキへと、
「知ってるっての。中学からこっち一緒だよ。真っ直ぐな生き方がお前の売りなんだから、今さら変化球を覚えたって言われた方がびっくりするわ」
皮肉としかとれないそんな言葉に、お約束の返答「っせーな」
子どもの頃から続けてきた野球を辞めて既に一年。速球のストレートが売りのマサキは、中学ではそれなりにエースだった。だが、高校に上がって現実に突き当たった。
真っ直ぐだけじゃ上手くいかないことだってある。でも不器用だったマサキに変化球は向いていなかった。なによりストレートには自信を持っていた。唯一の取りえ、渾身のストレートでストライクを取るということに自身の存在意義があるのだと。だからストレートにこだわり続けた。そして肩を壊した。
監督は言ってくれた。バッターとしての道もあるぞ、と。でもマサキにはそれが社交辞令的なものだと分かっていたし、自身にはもう戻る場所がないことも理解していた。
高校に上がるに際してさっさと野球に見切りをつけたアツシは、黙ってマサキの話を聞いてくれた。最後は決まって皮肉めいた言葉のひとつも付け足すことにはなるが。それでもずっとそばにいてくれた。
「ユウナもモブもとっくに着いて待ってるってよ」
スマホ片手にアツシが言った。そして駆けだす。
マサキもその背中を追って駆け出した。
いつものハンバーガーショップに辿り着いて、いつもの四人が顔を合わせる。
「遅っそーい」
ユウナがテーブルに突っ伏して頬を膨らませる。傍らのシェイクは半分以上減っていた。
「俺のせいじゃないよ。マサキがお決まりの真っ直ぐさを披露したせいだよ」
アツシが事もなげに責任を押し付ける。確かにマサキのせいには違いないのだけど。
最近背中まで届くロングを肩にかかるくらいに切り揃えたユウナ。いわく、『内巻きワンカールで今年の
とはいえ、アツシとユウナが例によってじゃれつき始めたので、話が進む気配はさっぱりで。付き合い始めて半年、まあ今が一番楽しい時期だろう、なんて達観的に納得したくらいにして。
「ノブはユウナと一緒だったのか?」
マサキが話しかけると、ノブは苦笑する。
「来る途中で柳さんと会って、マサキたちが来るまで十五分くらいかな」
「そっか、そんなに待たせたわけじゃなかったんだな。良かった」
と、マサキは返したが、ノブの苦笑はますます色濃くなる。
「ぜーんぜん待ったってーの。ノブってば、ゲームとかアニメの話ばっかりなんだもん。そりゃあアタシだって、ゲームもするしアニメも観るよ。だけどそればっかりじゃ飽きちゃうって。アタシにすれば十五分だって苦痛だってーの」
ユウナはあけすけに言う。裏表のない彼女らしい言葉。最初こそ戸惑ったものの今はもう慣れていた。ノブ以外は。
「しょうがないだろ、それこそが我らがモブチカくんなのだから」
アツシがまったく言い訳になっていない言葉でごまかす。当然ながらそこに悪意はない。それもまた慣れっこだった。当然、ノブ以外は。
ノブはそんな二人の会話に少しおどおどしている。ノブはずっとこんな調子だ。幼少のころからの腐れ縁。それこそ小さい頃から真っ直ぐさを発揮して、イジメられていたノブを助けて以来の。マサキの人生のどこかしらには必ずノブがいた。
野球を辞める決断を下したあの日、腐りぎみのマサキに向かってノブは言った。
『野球をやってるやってないなんて関係ないよ。マサキはあの日からずっと僕にとってのヒーローだよ』
屈託のない笑顔にマサキは言葉をなくした。そして腐りかけた気持ちも。
少し臆病なところがあっても優しいヤツだった。ノブと一緒にいるだけでマサキは優しい気持ちになれた。
真っ直ぐさが自分じゃなくてノブにこそ備わっていたなら――マサキはそう思う。きっと本当の意味での優しさを真っ直ぐに貫ける人間こそが最強に違いない。なんとなく、そんなふうに思っていた。
と、ぼんやりしていたマサキに向けて、
「マサキは夏に行きたい所とか決まったの?」
ノブの言葉にマサキは反射的に言った。
「海、とか……?」
「うわーベタ」
夏の準備は万端と豪語していたユウナが、自分はこんがり焼けなくて真っ赤になるだけのタイプだとかなんだとか不平を連ねる。それでもアツシがなんとかなだめて、取りあえず長い夏休みの予定がひとつ決まる。
場所は鎌倉の由比ヶ浜海岸。マサキたちの高校のある池袋からは乗り換えも少なく、二時間も掛からず行けるかわりに真新しさもない。それでも金銭的にも抑えられるのはありがたかった。何よりも、夏休みは長く予定はまだ色々と立てなければならないのだから。
高二の夏、高校球児にとっては一番熱い季節。未練がないと言ったら嘘になる。それでもマサキは夏の到来を心から楽しみにしていた――仲間たちと過ごす特別な時間を。
その後はといえば、下らない世間話なんてしてお茶を濁した。長くなった陽はまだ明るいままで。それでもやれコーヒーとポテトで二時間を潰した身としては、そろそろお開きか、とマサキが思った頃合いだった。
店の外がふいに騒がしくなった。
人波が流れていく。いや、流れていくなんて優しいものじゃない。老若男女、すべての人々は肺がパンクするまで全力疾走で駆けて行く。そんな異常な光景だった。
店内を包む穏やかなBGMは、辺りにはこだまする悲鳴で掻き消されていく。
「東京マラソンにはまだ早いよな?」
恒例行事を引き合いに冗談っぽく笑うアツシの声にも、いつもの余裕はなかった。
「事件、でもあったのか?」
マサキが言うと、ユウナが思い出したようにスマホをネットに繋げる。
それらしいネットニュースはなし。トップニュースには三十分前の出来事――羽田空港でテロ騒ぎ?
「まさか、これってことじゃないよね」
ユウナの呟きにアツシの返答。
「んなわけないだろ。羽田からここまでって、どんだけ離れてると思ってんだよ」
アツシの正論。だけどそれで落ち着くことも出来なかった。むしろ胸騒ぎを覚えた。
「SNSは? 羽田空港で検索かけてみてよ」
マサキが言うとユウナは手慣れた操作で、画面を切り替える。
SNSのつぶやき――
テロリストって狂信者? 狂信者というより発狂者といった感じなのだが……。
ヤバイ、イカレタ連中増えてる
糀谷駅で噛みつき魔が人を襲ってた。助けに行った人も噛みつかれた。
これってクラスター? バイオハザード? 蒲田のファミマの中がとんでもないことになってる
感染者? に襲われたヤツに追いかけられた。死ぬかと思った
ヤベー。大森のウニクロ前ですげー勢いで走ってきたヤツがいた。途中で力尽きたのか急に動き悪くなったけど、いま店のガラスずっと叩き続けてる。怖すぎる。
いま大井町駅の構内 いきなり噛みつかれた 痛いし気分わr
「こっちに近づいてきてる……?」
わななくようなユウナの呟き。
「とりあえず、ここを出よう」
マサキが先導して店を出た。
しかし手遅れだった。
むせ返るような熱風が通り過ぎる。通りは、瞳の白濁した人間……だったもので埋め尽くされている。見知った顔がいた。熱中症で朦朧としていたはずの爺さん。その濁った瞳と視線が重なった瞬間、マサキは叫んだ。
「逃げろ!!」
†
記憶を辿れば、この騒動の渦中に自分たちがいたことは確かだった。ノブの言うように、その後アツシとユウナが犠牲になったこともおぼろげながら覚えている。
アツシとユウナ、最後に見た二人の顔を。そこに張り付いた驚愕を。薄闇に飛び散った鮮血までも映像として残っている。だからそれ以上を望む必要なんてないはずだった。掘り返さなくて済む過去ならそのままにしておいた方が良いかもしれないし、記憶のふたをこじ開けるのが正しいこととは限らない。ノブに言われるまでもなく、マサキも理解はしていた。
この逃避行の軌跡を辿りたい――マサキの発言にノブが反対するのはもっともだった。
「やめようよ、マサキ」ノブは弱々しいながらもはっきりと言った。それこそ瞳にありありと分かる怯えを映して。
「だけど他に行くトコも、することもないだろ?」
マサキの意見に、ノブが珍しく反論する。
「情けないけど、僕は怖いんだ。アツシたちには申し訳ないけど、こんな記憶なんて忘れてしまいたいっていうのが正直な気持ちだよ」
ノブの言いたいことはもちろん分かる。ノブに刻まれたトラウマの深刻さも。それでも、マサキは行かなければならない。アツシとユウナが実は助かっていた、なんて奇跡はもちろん信じてはいない。それでも惨劇の場に行かなければならないと、過去と向き合わなければならないと、マサキの中の何かが告げていた。
「通信状況やライフラインに支障はないって言ったって、どのみち食いもんは探しに行かなきゃならないんだろ?」
マサキの理由づけに、ノブが首を振る。
「あえてそんなリスキーなところに行かなくたって、当てはつけてあるよ」
「別にノブは行かなくていいんだ。近くに着いたら、俺だけ降りて行ってくるから」
「だけど……」
まだ何か言いたげなノブの瞳を真っ直ぐに見据えて、マサキは言った。
「ノブ、頼む」
ノブに頼み事なんてマサキにとっては人生で初めてのことだった。だからノブも渋々と理解してくれた。マサキの覚悟を。
外界の空気は清々しい、とはお世辞にもいえない。なにか粘膜に貼りつくような粉っぽさを感じる。テートソーマという製薬会社が開発したロメロ・ウィルスの抗ウィルス剤。それが散布されたのは昨日のことだというが、今も大気中に残り続けているということだろうか。その辺の話はネットニュースには詳しく記されていなかった。
西の空に傾きつつある陽光に一瞬眩暈を覚える。やがて車のドアが閉まる音、ふたつ。振り向くと、結局ノブも降りていた。
「ノブは本当についてこなくていいんだぞ」
マサキは正直な気持ちを口にしたが、
「ちょっと前まで意識を失っていた人間をひとりで行かせるわけには行かないだろ」
ノブは少しだけ怒ったように言った。
「悪ぃな」
ノブの優しさが照れくさくて、返事はちょっとだけぶっきらぼうになった。
目的の場所は五分とかからなかった。狭い路地を三度折れただけで、四人で最後に過ごした建物が姿を現す。黒焦げた高層階の廃ビルディングをマサキは見上げた。生物の痕跡も失われたマンション跡地。本来なら
「本当にすべてを焼き尽くしたんだな」
すべてはノブが仕掛けた最終防衛システムによる結果だった。
最終防衛システム、そう呼べば聞こえは良いが、いわゆる自爆装置に近い。建物の一階部を繋ぐように設置しておいた灯油タンク。身を寄せた廃マンションにゾンビの群れが殺到したあの日、ノブはそれに着火した。踊る火炎にゾンビはたじろいでいる間に、二人は命からがら建物からの脱出を果たした。ゾンビの犠牲となったアツシとユウナを置き去りにして。
とはいえ、ここまでの被害は当のシステム設計者にとっても計算外だったはずだ。建物自体が巨大な火葬場となって、業火はすべてを呑み込んだ。名も知らぬゾンビたちも、二人の友も。後に残されたのは黒く巨大なひとつの塔。さながら慰霊碑のようでもあったが、当然人の手が加えられた痕跡など見受けられるはずもない。
「まるで長い間、放っておかれたような……」
ノブによれば、このマンションにゾンビが殺到したのが四日前の夜、孤軍奮闘したマサキだったが、アツシとユウナがゾンビの犠牲となったのを見た瞬間、ショックで気を失ってしまったらしい。その後、最終防衛システムを起動させたノブは気絶したままのマサキを引きずるようにして脱出した。だが、マサキの目前に聳える焼け焦げたマンションはまるで数ヶ月以上は経過した廃墟のようだ。
「なあ、ノブ……」
ノブは俯いていた。直視するのが耐え難いように震えていた。マサキが問おうとしたことに答える余裕などないように。ただ怯えていた。
質問することを諦めたマサキは、いまだ残る煤の臭いを嗅いだ。その瞬間だった。ひどい頭痛と吐き気に襲われる。立っていることもできず、その場でうずくまった。
「ダメだ、マサキ。やっぱり無理だよ、戻ろう」
ノブがマサキの肩に手を回す。その瞳には隠しきれない恐怖の色が浮かんでいる。
それでもマサキはその手を払いのけた。
「……大丈夫……大丈夫だ」
深く深呼吸する。無理やりに脳へと酸素を送る。そして立ち上がった。ここまで来て、帰る訳にはいかなかった――そこに行かなければならないのは、供養のためなどではなく、贖罪なのだから。
頭の痛みが引くことはない。それでも規則正しく呼吸をするたび、小さくなっていく。
マサキは再び歩き出す。心配げな表情のノブが、それでも腕を組んで歩行を手伝ってくれる。
廃墟へと足を踏み入れるとき、入り口近くに車が二台停まっているのが視界に入る。白のライトバンと大型のRV車。
誰かいるのか、思案する間もなく上階から声が聞こえた。
『おいおいおいおいぃマジかぁお嬢ちゃん!』
マサキはノブの口元を手で押さえる。そしてゆっくりと上階を目指して階段を昇り始めた。
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