第二十六話 XXXXX――ベルゼブブ 5


    XXX



 二階から声援を送る観客オーディエンスたち。その声が止んだのは、天を覆ったガラスが砕け散る音を聞いたからだった。

 見上げる群衆。理解しての初動は退避だった。耐久性抜群のガラス片は、むしろ雹にも似た大粒の塊となって降り注ぐ。

 駆けては転がり、頭部を両手で隠す。次に行動を起こしたのは、それを遠巻きに眺めていた人々。身を低くして鼻と口を覆い隠す。次第に頭部を守っていた者たちも倣っていく。

 首からぶら下げたゴーグルで視界を守ったバトへと、


「どうしよう、バト。ウィルスが入ってきちゃうよ。どうしよう、どうしよう」


 パニックを起こしかけるリン。ショートヘアから覗く双眸は今にも泣き出しそうだった。ハギトは口元を覆っていた両手を離すと、リンとバトを自分の身体へと引き寄せる。怯える少年と少女をきつく抱きしめる。


「大丈夫、大丈夫だよ。ケンたちが帰ってくるまで、お前たちは俺が守るから」


 ハギトはきっぱりと言った。少年と少女、そして自分へと言い聞かせるように。

 見上げたゴーグルが差し込んだ陽光を反射する。バトが不意に口を開く。


「ハギト兄ちゃん、あれ!」


 少年が指さす方をハギトは見た。完全に密閉されていたモール、そこに穿たれた穴から人が降下してくる。ロープに吊るされながら降りてくる迷彩服の三人。紛れもなく自衛隊員の姿だった。雪山への降下よろしく、上空からは粉雪の如き白が舞い落ちてくる。

 手際よくモール二階部のテラスへと至った男が叫んだ。


「救助に来ました! 生存者はここにいる人たちで全てですか!」


 ヘルメットは被っているものの、顔は曝している。唖然とする群衆の中、ハギトが尋ねた。


「ウィルスはどうなってるんですか? 空気感染すると聞いていましたが」


 彼は吹き抜けに掛かる大型のディスプレイを一瞥する。肩に残る白い粉塵を払いながら、答えた。


「ウィルスは直接感染に限られています。テレビ、ラジオやネットから情報が拾えてないんですか?」


 言いながら、その顔には徐々に苦い色が浮かんでいく。「やはりそうか……」

 ハギトを見据えて彼は答えた。


「モール周辺の建物の損壊が激しく外部からの侵入は困難でした。それも明らかな人為的な破壊工作によるものと思われます。仕方なく強行での天井を破っての突入となりましたが、空けた穴からは同時に抗ウィルス剤の散布も開始しています。高度に密閉性が保たれた建物ではありますが、屋内に感染者が残っていたとしても直に活動を停止させるはずです」


 彼が話し終えるのと同じく、バトが叫んだ。「ハギト、あれ見てっ!」

 ハギトが見下ろした先で、ゾンビが続々と倒れていく。

 なんてことだ――、呟いたハギトがテラスから身を乗り出す。


「やめろ。もうレースなんてしなくて良いんだ! 俺たちはみんな、在庫管理人ストックマネージャーに騙されてたんだっ!」


 活動を止めるゾンビが山を築いていくのを見て、群衆は漏れなく歓声を上げていた。興奮が広がっていく中、自衛隊員の情報収集は困難を極めていた。重症患者は空輸での救出を急がねばならないだろうし、場内の安全が確保できたのなら慌てて救助作業を行う必要もない。その判断材料の収集も半ばフーリガンと化した観客オーディエンス相手ではひと苦労だ。混乱しつつも戦意が消えていくプレイヤーたちに安堵したハギトは、自衛隊を手伝おうと視線を移す。そこに不自然な人影を見つけた。

 二階の南棟の奥からやってくるのは自衛隊員と同じ迷彩服を身に着けている。仲間か――ハギトが思う間もなく発砲した。自衛隊の二人が倒れる。

 良く見れば異様な姿だった。古着のように褪せた迷彩服。ガスマスクと額に貼られた札には――戦争Warの文字。撃ったそばから拳銃を放り捨て、新たな拳銃を両手に構える。海賊が持っていそうな単発式の拳銃――クイーン・アン・ピストル――を腰ベルトいっぱいにぶら下げていた。

 会話を交わした自衛隊員がハギトへと僅かに視線を重ねる。


「離れてっ!」


 リンとバトの手を掴んだハギトが避難する間際、発砲音が響く。自衛隊員と戦争ウォーは同時に発砲していた。

 戦争Warの撃った弾丸を肩口に被弾した隊員がバランスを崩す。自衛隊員の弾丸はみごと戦争Warの心臓へと命中していたが、戦争Warは痛がる様子も怯む素振りすら感じさせなかった。


 その瞬間にハギトは理解した。ガスマスクの正体が人間でないと――ゾンビだと。


 空になった銃を捨て、幾重にも巻かれた腰ベルトにぶら下がる単発拳銃を抜く。そして隊員を撃ち殺す。

 リンとバトを連れ逃げようとした先、東側テラスの最奥で悲鳴が上がる。観客オーディエンスの最端。そこに新たなガスマスク姿のゾンビが出現していた。


「……どうなってるんだ」


 ハギトが戦慄く。

 新たなガスマスクの周囲には、のた打ち回る人々。迷彩服の袖から生えたような十本の指に突き刺されるや、見る間に全身へと水泡が広がり、観客は止め処なく血を吐き続けていた。

 背中にはドラム缶状のタンクを背負い、そこから十本のチューブが両手へと伸びていた。切り落とされた指の代わりにくっついた十本の注射器。シリンジ内を充填するは赤黒い液体。額に貼られた札には――疫病Plagueの文字。

 地獄から天国、そして天国からの地獄。終わりのない――無間地獄。心が折れる音を聞かないためにハギトは繰り返す。「お前たちは俺が守るから」

 リンとバトの手をただ強く握り続けた。

 モール内は悲鳴と絶叫に塗り潰されていった。



    XXXX



 南棟のエスカレーターをケンとタグリは駆け上った。


「ゴールおめでとうございます。チーム颱風ハリケーン、初優勝の気分はいかがですか?」


 息せき切るケンたちへと拍手交じりに掛けられた声――三途川渡流ミトガワワタルだった。パーカーの上に羽織った黒のコーディガン、微かに揺れるそれはまるで余裕に満ちた王者の外套マント

 傍らでは白いブラウスとショートパンツ姿の血之池未散チノイケミチル。天使の如き慈愛に満ちた微笑を浮かべている。美しくトリートメントされたピンクプラチナのロングヘアーにはバラの造花が飾ってあった。

 ミチルの姿に反射的にタグリがカーボン製バットを振り上げる。瞬間、重量級が見てくれに反して俊敏に動いた。翻ったイエローのモッズコート。鈍い音を響かせたのは、油釜アブラガマタギルの鉄アレイを改良したトンファー。タグリの武器が弾き飛ばされる。サングラスをかけた無表情は、どこかへ飛んで行ったバットを目で負うことすらしない。


「お前ら……最初からレースに参加してなかったのか?」


 狼狽気味にケンは訊いた。

 ワタルはコーディガンのポケットに両手を突っ込んだままで答える。


「ああ、俺たち暴食ベルゼブブはポテチとアルコール片手に観戦させてもらってたよ。君らの初優勝の雄姿はちゃんと俺たちが見届けてあげたからね」


「ゴールに私らしかいなくて残念だったねー♪ みんないろいろ忙しーらしーよっ。せっかくの初体験☆ なのにねー。なんなら動画でも撮っちゃおっかー? せっかくだし記念に服脱いじゃいなよー、タグリちゃんっ。顔面偏差値落第でもどこかの誰かのオカズ♂ くらいにはなんじゃね?」


 ワタルの発言に追い打ちをかけるようにミチルは煽り、缶ビールを流し込んだタギルが口ひげに泡をつけたままでゲップを吐く。

 そこからの反応なんて火を見るよりも明らかだった。ケンが言葉を発するより先にタグリが動いた。直情的に体ごと突っ込んでいく。

 確実に油断はあった。子供用黒バットのないタグリに出来ることなんて子供の喧嘩、真の意味で言葉通りの。ケンですらそう思っていた。だから遅れて唖然とする――タグリの手には見慣れないペーパーナイフが握られてあった。


「ぐああああ」


 タギルの見た目に反した甲高い絶叫が響く。緊迫した中にあって、ヘリウムガスでも吸ったかのような滑稽さで。

 武器と呼ぶには頼りないナイフ。だとして、モッズコート越しにも分かるタギルの豊満な腹部に深々と突き刺さっていた。

 目を点にするワタルとミチル。微動だに出来ない。

 だが、程なくタギルは薄ら笑いを浮かべた。タグリを殴り飛ばした後で、タギルはイエローのコートをはだけて見せる。

 胸当てのように張り付いていたのは、切断されたマネキンの腹部。ペーパーナイフの突き刺さっていたそれが滑り落ちる。太っちょファットマンの姿など消え失せていた。肉付きは良い。とはいえ肥満と呼ぶには程遠い体型。

 ワタルが種を明かす。


「元々タギルは太ってなんかいないってわけ。スパルタン・Zの会場である一階フロアには合わせて二十ヶ所、替えの胸当てとトンファーが隠してあったのさ。重い体型と重い武器、それを抱えて走ればこそ、という思い込み。ミチルの高い機動性を活かした攪乱かくらんも功を奏して、選手たちの推測や目測がタギルの神出鬼没ぶりになおさら拍車を掛けてたってことだね」


 床に手をつき見上げるタグリ。唇からは血が滲んでいる。

 肩の開いたブラウスのダボついた袖、そこから覗かせた両手で自分の両頬を包むミチル。まあどうしましょう、とでも言うようなわざとらしい表情。半面、愉快そうな声音で言った。


「うわあたいへんだー。タギルを怒らせちゃったよう、タグリちゃん。私はまあどっちでもいいんだけどー、多分、タギルの中の男♂ が爆発しちゃうぞー☆」


 鍛えあげられた上半身にモッズコートを羽織った姿。タギルはコートのポケットに手を突っ込むや弄り始める。

 ミチルの煽りもヒートアップしていく。


「タギルはこー見えて紳士だからねっ、直接じゃなくてゴムでもつけてくれるのかなー?」


「やめろ!」止めに入ろうとしたケン。その後ろへとワタルは回り込んだ。冷徹に突きつけられるワタルのナイフ。首筋から血が滲む。

 タギルが右手を引っこ抜く。


「あは♪ やっぱりチョクでしたー☆」


 ミチルの声と同時に、タギルが両手で構えた塊から轟音が発する。

 タグリの体が跳ねた。口と胸から夥しい血をまき散らしながら。

 ケンは言葉も出せない。呆然と見ていた。

 タグリの胸で爆ぜたのは、.357マグナム弾。タギルが両手で握っていたのは回転式拳銃――マテバオートリボルバー。

「うぅ」タグリが呻き声を上げた。口から零れ落ちるのは、オーバーリップしたローズレッドのグロス以上に鮮烈な赤。


「使える穴が増えて良かったねー♪ ヴァージンビッチとかって新ジャンルだね☆」 


 ミチルもコンパクトな短機関銃――MP5K――をストラップでぶらさげていた。

 血を吐きながらタグリは床を這う。

 ミチルは笑い続けていた。「うわキモっ、まだ生きてるしー」ハイカットのスニーカーを踏み鳴らし、天使の容貌にに下卑た哄笑で。やがて思い出したように、


「そーいえばタグリちゃん、身に余るピアスしてたっけ。ねータギル、とどめのついでに取ってきてよー」


 必死で逃げるタグリは、どうにかフロアの角まで這っていた。一瞬振り返ったその視線がケンと重なる。崩れたメイク、その上に伝う一筋の涙。消え入りそうな声でタグリが呟く。「……たす……け、て」

 ケンは言を荒げた。「やめろ! 離せ!」

 しかし、ワタルのサバイバルナイフからケンが解放されることはない。

 身動き一つとれないケンの眼前で、全面のガスマスクを被ったタギルが――処刑モードのタギルが――回転式拳銃をぶら下げゆっくりと歩き出した。

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