第二十八話 友直真先――ストライカー 5



 マンションの二階は取り壊される寸前のように、鉄筋がむき出しになっていて煤で塗りつぶされている。何本かの支柱に支えられる、だだ広い漆黒のフロアといった感じだ。等間隔に並んだガラスのない窓、最奥には外れかけた非常扉が見える。

 そんな無機質な空間で、無秩序を創り出しているのは六人の男女。

 やがて、フロア全体に男の声が響き渡る。


『おいおいおい嬢ちゃん、後がなくなってきたぞ。お前の方から来てくれねえなら、俺の方からブチこんでやるしかねぇぞ』


 マサキとノブは階段を昇ってすぐの踊り場に身を隠した。少し離れた床で、ラジオ特有のノイズ音が小さく聞こえる。

 二階の入り口から覗き込むと、ツインテールの少女、といった年端の女性が三人の男たちに詰め寄られつつあった。

 マサキはパーカーのポケットの中で硬質プラスチック製の丸い塊を握る。心もとない武器。ノブがビリヤード場から持ち出したビリヤードボールが二つと、バッティングセンターから失敬した硬球がひとつ。たった三球がマサキの持つ攻撃手段の全てだった。

 別の女性が絞り出すように言った。命乞いの言葉を。


『あんたらの欲しいのはこれだろ。渡すから、ねえ、頼むよぉ、見逃してよぉ。お願い、お願いします。お願いしますからぁ、なんでもしますからぁ、殺さないでくださいぃ』


 ビリヤードボールを握る右手に力が籠る。だが、振りかぶろうとした瞬間だった。


『警察だっ! お前たち動くなっ!』


 まさに自分たちの足元すぐ近くで声が上がる。

 理解は追いつかない。それでも反射的にノブの手を取って、昇り階段の影に身を潜めた。

 一分と経たずに、機械――ラジオ――の破壊される音が聞こえた。そしてすぐ間近で聞こえる男たちの声。それは間を置かずに怒声へと変わる。


「おいおいおい、コイツがケーサツの正体かよ。クソが、こんなチャチな手に騙されっとかマジありえねえ」


 さっきまで豪放にまくしたてていた男の声だった。

 暗がりの中、マサキは深く息を吸って、吐く。もう頭痛は消え去っていた。


「ノブ、お前はここから離れろ」


 マサキが囁く。

 ノブははっとした顔でマサキの両目を見た。何かを言おうとして、間近で聞こえる男の声に言葉を呑みこむ。


「あらかじめ録音なりしてたってトコか? っかしBぃ、お前が騙されっとかって、なあ」


 怒りを滲ませていた男の声に、ほんの少しだけ愉快そうな響きがまじる。


「でぇ、どーすんだよ。てかぁ、俺らを舐めた連中はとっ捕まえてブチ殺すってことでもちろんいーよなあ、Bぃ」


 マサキは小さく、だがはっきりとノブに言った。


「三階に上がってから奥の非常階段を目指せ。走りつづけろ」


 ノブがうつむく。納得などしていないのは瞭然。理解はしていたとしても。だからマサキは続ける。


「あいつらは止めなきゃいけない。事情なんて分からない。だけどここで止めないと、あいつらはきっと女の人たちに追いついて、殺すと思う」


 敢えてぼやかした言い方。しかしマサキは確信している。そしてノブも分かってはいたはずだ。

 だから――


「だったら僕も残る」


 逃げてばかりの人生を悔いるように、もうゴメンだと言わんばかりに、きっぱりとノブが告げる。

 マサキはそれを見て小さく笑った。いつもマサキの言うことには大人しく従っていたノブの反論、それは遅れてきた反抗期にも似た。それは紛れもない成長。自分がただ寝ていただけの短い期間にノブは確実に変わっていた。少しだけこそばゆい。だからマサキは笑った。友の姿が誇らしかった。

 だからこそに――


「逃げなんかじゃない。戦うために、生きるために、ノブはここを離れなくちゃいけない」


 マサキは言い切る。そして同時に理解する――自分は多分このためにここに来たのだ、と。残りの人生はこのためにあったのだ、と。

 それはただの我がままで、ノブにすれば過酷な現実を突きつけられるということだった。


「マサキっ、僕は……」


 言いかけたノブが口ごもる。それでも小さく頷いた。すべてを受け入れて。四人だった旅路は二人に、そしてこれからは一人ぼっちへと変わる。


 冷淡な、しかし怒りに満ちた別の男の声が聞こえた。


「いいや、D。犯して、切り刻んで、燃やして、殺せ。後悔させて、その後悔を踏みにじりながら殺せ」


 猶予はない。

 最後に見たノブの顔。両頬を流れる涙、だけどそれでもくしゃくしゃの笑顔。


「マサキはあの日からずっと僕にとってのヒーローだよ」


 マサキは笑みで返す――(いいや、本当のヒーローはきっとお前だよ、ノブ)


 そして物陰から駆け出る。

「行けっ」短く言ったその後ろを、ノブが駆けて行く。その気配にマサキは確信する――真っ直ぐにしか生きられないこの性格を『生きざま』とでも呼ぶなら、それはきっとノブに託せた。なんとなくそう確信していた。


「おいっ! くそヤローども!」


 マサキは声を張り上げた――(だから大丈夫、全部をここに置いていける)


 男たちが振り返る。一番近い距離にいるのは黒服。五メートルと離れていない。透き通るような、氷のナイフを連想させる瞳。そこに明らかに浮かぶ苛立ち。

 豪放に声を上げていた男はすでに二十メートルは先、非常階段の扉近くまで迫っていた。そして黒服とその男のちょうど中間の位置にスキンヘッドの大男。


「いったいぜんたい何がどうなってんだコイツはよお!」


 獅子のたてがみじみた髪の毛を振り乱して、一番奥にいる男が苛立ちを爆発させた。まるで寡黙な黒服の代わりといった風に。

 もはや騒音といった喚きにも、黒服は凍てつくような視線を預けるだけ。男は、その所作からおそらくボクサーだろう、と当たりをつけていた。つまりは自身も戦えるタイプだと。それでも疑念もあった。ボクサーが拳を痛めるのを防ぐために使用するグローブ、それにしてはやけに薄手のものを着用している。

 そしてやはり間近にいるはずの黒服に動く気配は微塵もなかった。まるで存在自体が氷の彫像じみていた。代わりに良く通る声だけを発した。


「さっさと殺して連中を追え」


 それは指揮官による殺しの許可。男は命令を下し、檻から猛獣を解き放つ。

「あいよ」声を置き去りに駆けてくるライオン。スキンヘッドも来た道を駆け戻る。

 マサキはキャップの位置を直しながら、速やかに現場の状況を把握していく。

 間近の氷像に動く気配はない。獣は一歩目からすでにトップスピード――到着は四秒後。それでも中間地点にいたスキンヘッドの方が早く辿り着く――二秒で眼前へと迫るだろう。

 マサキ自身を起点に導き出される解――俯瞰して見せる視点と恐ろしく冷静に働く頭は、さっきまでの痛みが嘘みたいに冴えわたっていた。だからその時には振りかぶっていた。


 右手から放たれたビリヤードボール――渾身の真っ直ぐストレート


 スキンヘッドが前のめりに崩れ落ちる。顎に命中したビリヤードボールが勢いを殺しながら転がっていく。

 ストライクが取れたかの確認なんて必要ない。すでに次の動作を始める。そんなものは、投げた瞬間の感覚で分かっていたから。

 強烈な殺気を感じ取った。視認する間も必要性もなく。パーカーのポケットから選んだのは、ビリヤードボールでなく野球用の硬球。そして握りはフォーシーム。

 だが、たてがみを振り乱し来る獣は驚くべき速度で迫って来ていた。すでに引き絞られた右腕。単純なまでに。殴りつけるという意図しか汲み取れないその構え。

 振りかぶるマサキの真っ直ぐストレートと、純粋で力任せなライオンの右拳ストレート


 そして。


 動きを止めたのはライオンの方だった。

 マサキの振り上げた右手からガレキ片がこぼれ落ちる。

 マサキのすぐ後ろで声がした。


你好ニイハオ


 ゆっくりと視線を下す。マサキの胸からは金属製の指が突き出ていた。


「おいおいおいおいおいおいぃいぃぃ今度はいったいなんだってんだよおぉぉ!」


 眼前で、またしても獲物を横取りされたライオンが絶叫する。

 視線を背後へと逸らす。そこに女が立っていた。やけにだぶついた服で着飾った長身に、目の周りを覆った赤いシャドウ。まとめた黒髪には幾つもの玉かんざしが突き刺さっている。京劇を思わせる派手ないでたち。

 女が言った。


再見了ザイヂェンラ


 同時に、マサキの胸から突き出ていた機械じみた義手が回転する。

 砕ける音が聞こえた。マサキの生命が。命がけでノブが繋ぎ止めてきたすべてが。


「く、そ……」


 背中から異物が引き抜かれるのを感じた後で、マサキは大の字に倒れた。


 女は右の義手を払うと、自身の血に塗れたマサキの顔を見下ろした。真っ赤な紅のひかれた唇で女は満足そうに嗤う。その紅と血の赤が入り混じるように、マサキの視界は覆われていった。


「もおどーでもいーからよお、誰でもいーからよお、俺に殺させろよおぉぉぉ!!」


 言いながらライオンが再び右の拳を引き絞る。

 女はただかんざしを弄っていた。三日月の瞳と口――まるでチェシャ猫のような。怯む風でないことはその顔に張り付いた満面の笑みが物語る。むしろ人を馬鹿にするニヤニヤとした表情は煽っているかのよう。

 豪拳が風を切る音。右拳が女の顔面を捉えた、と思った瞬間だった。パシュ、という低い音が聞こえた。ライオンはのけ反り、訳が分からないといった表情を浮かべた後で、どうと倒れた。

 ここにきてようやくポーカーフェイスを気取っていた黒服の顔に焦りが浮かぶ。その背に右手を滑り込ませるや、黒い塊を女に向けた。その右手に握られた物――セミオートの拳銃。

 マサキはなるほど、と思った。そのための薄手のグローブか、と。確かに殴り合い用の物を着用していたら、有事の際に銃の扱いには困るだろう……。

 黒服に銃を突きつけられても女の表情は笑んだままだ。

 間もなくして。


「銃を下ろせ、B」


 女の背後から声が発せられる。今度は男のものだった。


「茶番は終わりだ、B。作戦は次の段階フェーズに移行した。さっさと荷物をまとめて戦争の準備をする段階フェーズへとな」


 抑えをきかせた声の主が廃ビルの中へと姿を現す。長髪に右目に眼帯をつけた男。顔にいくつか走るのはまだ真新しい傷。目じりに浮かぶ皺は確かに中年のそれだったが、立ち居振る舞いはしなやかで肉体は引き締まって見えた。

 身に着けた白のワイシャツとスラックスには染みひとつない。その清潔感に満ちた佇まいが、この場にはまったくふさわしくなかった。そのギャップが不自然さと不気味さを増して見せる。

 Bと呼ばれた黒服がわななくように言った。


「A……『師傅マスター・A』、どうしてあなたが、これは、いったいどういうことなんですか?」


 Aと呼ばれた男は、弄ぶようにぶら下げていた拳銃を放り投げた。


「ただの麻酔銃だ。話し合いの場に不向きなDには眠ってもらった。時間が迫っている以上、なるべく簡潔に進めたいからな」


 今のBに先刻までの冷静さはない。氷像のように立つ姿に変わりはなかったが、それはただ茫然と立ち尽くしているといった感じだ。


「A、その傷はどうされたんですか?」


 Bは会話を続ける。ただ茫然と。途切れさせることで生じる無言を嫌がるように、無理やり捻りだした問いかけにも似ていた。そこには意図も感情も微塵も感じられない。

 Aはくつくつと笑いながら、


「飼い猫に手を噛まれた、それだけの話だ」


 そのさまを、Bは気の利いた返し文句も告げずに漠然と眺めていた。


 と。


「とりあえず、これはあずからせてもらうよ」


 Bの背後から声がしたかと思うや、Bが力なく握っていた拳銃を奪い去った。

 ぎょっとするB。その脇にいつの間にか長身の男が立っている。全身黒づくめ。さながらBの影が実体化したかのようないでたちに、長いブロンドをひとつに結っている。角度によって表情を変えて見せる顔は特徴的であると同時に、人種すら識別できない程に無個性。鏡あわせのように完璧なシンメトリー。そこに浮かぶ両の瞳は琥珀の色。

 Aが大仰に両手を広げて見せる。


「その男は『琥珀眼アンバー・アイズ』、そしてこっちの女は『斉天大聖』と呼ばれている存在モノだ」

 

 Bはカラカラになった喉から、どうにか声を絞り出す。


「ど、どちらも裏社会では有名な殺し屋じゃないですか」


 Aはいちいち大仰な動作で、頷いた。


「有名というならもう一人、裏社会では『七歩蛇しちほだ』の通り名で知られる男と共に、どちらも私がスカウトした。B、お前にも伝えていなかった私の表の稼業、『ヌエ』と呼ばれるテートソーマの実行部隊のメンバーとしてな」


「実行部隊?」Bが尋ねる。


「そうだ。本社の警備部隊とは別の、他の製薬会社から薬理情報や治験データ、そして製薬自体やその研究者の奪取を目的とした少数精鋭。むろん法外の秘密部隊は、テートソーマの暗部。その存在を知る者は一部に限られる」


 Bは黙ってAの話に聞き入っていた。表の稼業と言ったくせに、結局裏稼業じゃないか、などとは口を挟まずに。


「ジェネリックをメインで扱うテートソーマは、本家の帝都製薬の傘下に過ぎない。それでも分家筋の娘婿に入ったテートソーマ社長、帝釈たいしゃくアレンは本物の天才だった。それこそ世界を変えてしまう研究を完成させるほどの。私は天才ながら自己顕示欲の権化たるアレンの小間使いとして仕えながら、極秘裏に裏社会で協力者を集め、また同時に我が悪徳の栄えに賛同できる者たちを組織化した」


「バンキッシュもあなたが影でつくった組織のひとつに過ぎない、と」


 いくつかある駒のひとつに過ぎなかったという事実。だとして、現実を受けとめた後のBはすでに冷静さを取り戻していた。Bという男にすれば、現実が自分の理解の及ばないということに不快さを覚えていただけの話でしかなかったのかもしれない。


「つまりバンキッシュはその役目を終え、あなたのもとで新たな役割を与えられる、ということですね」

 

 物わかりの良い生徒にひとつしかない瞳を緩めるA。


「すでに同盟者として、ロシアの死の商人『バーバ・ヤーガ』、メキシコの中規模麻薬密売組織『湾岸カルテル』、そしてチャイニーズマフィア『黒星玉ヘイシンチュウ』と協定を結んだ。悪徳の栄えを成就する為の十二の賛同者たち、通称、『十二短針アワーズ』。バンキッシュは、斉天大聖、琥珀眼、七歩蛇の三針を指揮官コマンダーとする直下部隊の『長針ミニッツ』に編入されることとなる」

 

 Bの揺らぎは消え失せていた。


「あなたを頂点に置いた組織が形成されるということですね。しかしその最大の目的とはなんなのですか?」


 Aを真っ直ぐに見つめるB。その後ろで気を失っていたスキンヘッドが息を吹き返す。とはいえ、状況を飲みこむことはできない。片膝立ちで視線を右往左往させている。

 Aは饒舌に話す。だがその言葉には、しだいにどこか苦々しい色が付きまとい始める。


「アレンは世界を変えるウィルスを作り上げた。時を見て最大の演出とともに披露されるはずだったそれは、なんの間違いか世界中で拡散されてしまった。アレンにとっても、私にとってもそれは想定外のこと。私が隙をみてアレンから奪うつもりだったそのロメロ・ウィルスは世界中に広がってしまった。むろんアレンはウィルスの完成とともにワクチンも完成させていた。しかし、失態を隠ぺいしようとしたテートソーマ警備部長、高遠たかとおの愚かさも手伝い、収束に時間が掛かりすぎた」


 Bの表情に緊張が走る。

 そこに高遠の影でも見つけたかのように、Aの瞳には憎悪の色が灯っていた。宙を見据えたままで語り続ける。


「自作自演の救済を演出しようとしていたアレンにしても精神的に壊れてしまった。我が国より程よく離れた小国で発生したウィルスが徐々に世界が広がり、本土での被害は最小限に抑える、それが当人の思い描いていたシナリオだったからな。だがこうなってしまった以上、事態が完全なる収束を迎え世界が冷静さを取り戻した暁には、ウィルスの出所及び、驚くべき速さでワクチンを完成させたテートソーマに疑惑の目が向くのは必然。ピースメイカーにも嗅ぎ付けられた頃だろう。把握、分析、そしてその対処までテートソーマの対応は後手後手で滅茶苦茶だった。すべては高遠のお粗末な隠蔽工作とアレンの混乱が招いた結果。アレンが壊れてしまったのもまた必然といえば必然。だとしても原典オリジナルたるウィルスデータはアレンしか知り得ない。なのに、そのアレンはといえば完全防護の救命カプセルに立てこもってしまった。忌々しいことに自らの命に関わる事態が発生した場合には、不完全なウィルスデータたる複製コピーを各所に送り付ける設定を施した上でな」

 

 語り終えたAは自らの怒りを鎮めるように顔を伏せる。


「まったくまったく、思い通りには行かぬものだ。別件を指示したJたちとは連絡が途絶え、さらにはアレンの暴走。まったくまったく、まったくもって救えぬことばかりだ」


 深く息を吐き、しかしその後で、くつくつと笑い出す。


「だが、そんなことなどもうどうでも良い」


 満面の笑みを浮かべるA。光沢のあるスラックス、そのポケットから着信音が響く。すでに結果を知り得ていたかのように取り出したスマホの画面を一瞥しながら、


「お前たちに与えた指令――『瑠花和マコトの遺産を追え』。お前たちとは別のルートで追っていたTからの連絡だ」


 そして短い言葉を交わし、通話を終えた。


「たったいま、Tが遺産を手に入れ、痕跡を全て消し去った。Bよ、いまこの瞬間に遺産を持ち得る者は私だけとなったのだ」


 Bは理解できずにいる。そんなBのことなど置き去りにAは独り言つ。


「不完全であったとしても、だ。この世界に現存する経典がそれ一つしかないのであれば、それをもって唯一の、つまりは原典オリジナルと成すだけのこと。もう指をくわえて待つ必要もない。ここからは力づくでの交渉だ。交渉が決裂し、あくまでアレンがデータの譲渡には応じないというのなら、私が新教主となり、前教主さまには引き籠った世界カプセルで永遠に生き続けてもらうだけの話だ。まさに生ける屍としてな」


 Aは右腕を持ち上げる。そして腕時計へと視線を落とした後で、演説めいた調子で告げた。


「ヒトゴマルマル時、師傅マスター・A、こと狗神藍全いぬがみあいぜんは、この時をもって『マスターマインド』と称する。そして我々は今より、結社『終末時計ドゥームズデイ・クロック』を名乗ることとする」


 女はかんざしを弄りながらチェシャ猫のように笑い続ける。鏡のように角度で変わる男の顔からはその真意を汲み取ることは出来ない。スキンヘッドはやはり視線を右往左往しているし、Dは気持ちよさそうに眠り続けている。そんな中で、Bは演説に拍手を送っている。

 そしてマサキはといえば――なんとなくそんな様子を他人事のように眺めていた。

 マサキの見開かれた眼窩へと、どこからか飛んできた蠅が止まる。



    †



 薄闇の中で二人の男女が立ち尽くす。

 着崩された制服。ブレザーはタータンチェックの柄。

 少しだけ染めたショートマッシュに長身の男子生徒。ミデイアムボブの黒髪で小柄な女生徒。


 マサキはすでに思い出していた。


 確かに、最初に噛まれたのはユウナだった。そして助けようとしたアツシまでも。

 マサキは二人を助けようとした。ゾンビから二人を引き離した時には、マサキも噛まれていた。

 二人に声を掛けて、マサキたちは走り出した。マサキのすぐ後ろをノブが走り続ける。

 ノロマなゾンビを撒くのはそう難しいことではなかった。マサキたちはマンションの三階へと辿り着く。いくつか準備しておいた隠し部屋の一室へと。

 制服姿のアツシとユウナがお互いの手を握り締める。そっと覚悟を決めるように。     

 だが待てども二人にはなんの変化も訪れなかった。

 そう。二人はウィルスへの耐性を持ち得る人間だった。

 与えられた奇跡に二つの顔は喜びに満ちていく。

 だが次の瞬間。その顔に張り付いた驚愕。


 そう。耐性を持ち得ていなかったのは、マサキだけだった。


 感染者と化したマサキは二人へと襲い掛かった。

 遅れて響く悲鳴。

 静寂の中に取り残された二つの感情のない顔。諦め――つまりは絶望。

 薄闇に鮮血が飛び散った。


 それからのことはあまり覚えてはいなかった。でも多分、ノブが最終防衛システムの起動と共に全てを終わらせてくれたのだろう。ここにノブが来たがらなかった理由は想像に難くない。苦しい言い訳だったはずだ。一見すれば誰にでも分かる。このマンションは到底火災が起こって三日経った程度の損壊具合ではなかったのだから。

 マサキは両腕の痣を思い出す。結束バンドなりで拘束されていたのだろう。そうまでして守ってくれたノブ。いったいどれだけの間、ゾンビのための食料を求めて彷徨ったことだろう? 苦行にも似た日々を超えてきたはずだ。

 なのにその行為からようやく解放されたノブを、結局マサキは遠ざけた。ノブの気持ちを十分に理解していた上で。自分勝手な話だとは思う。それでも精悍になったノブの顔を思い返すと、その日々が無駄でなかったとマサキは確信している。同時に、もう自分がノブにとって必要な存在でないということも。



    †



 ゾンビについて詳しいはずの連中の話を聞きながら、考えていた。どうやら連中、耐久性についてはいまいち把握していないのだな――と。

 どうやら一度ゾンビ化を果たした人間というのは、致死性の状況下でもなかなか死ににくいらしい。まあ、いい歳こいて秘密結社だのなんだのと言う馬鹿でイカレタ大人たち相手なら、それはそれくらいで丁度良いのかもしれないが。

 結局、真っ直ぐにしか生きられなかった人間が最後の最後で手に入れたのは、人を捨て手に入れた変化球。こんな延長戦なら、それもまあいいかもしれない。

 戦い方は真っ赤なモヒカンの食人鬼、溶鉄ヨウテツが教えてくれた。自分でも笑ってしまうが、それ・・は最後の意地みたいなものだった。


 ごめんな、アツシ、ユウナ――もはや二人の名残も残されていないこの廃マンションで、二人のことをは最後に想った。

 

 フォーシームは人差し指と中指をボールの上側の縫い目にかけ、親指と薬指を下側の縫い目にかけて握る。


 だから――、両手の小指を食いちぎった。


 全身の筋肉が肥大と収縮を繰り返し始める。 

 止まりかけの心臓で、人でないモノは立ちあがる。


 

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