第十八話 山吹虎徹――ニルヴァーナ 3


 テナントビルの錆びた階段を山吹虎徹やまぶきこてつは駆け下りた。

 上野アメ横通の路地裏。路地裏とはいえ、屋外は先刻の薄闇が嘘のように明るい。目が眩んだ。曖昧な記憶が白昼夢へと誘う前に、虎徹は頬を張って自我を保った。陽光は十分に差している。秋の陽はまだ長い。


「くそっ、クソッタレめ」

 

 予断は許されなかった。気を緩めると前後も左右も不明で、時系列もでたらめなな記憶が寄木細工の如く組み立てられていく。そして煮込まれて、煮詰められていく。闇鍋のように。

 悪態を吐き続けた。曖昧な記憶を振り払うまじないのように。

 ときに幻覚は身を助け、ときに幻聴に危機を強いられた。

 だが、今はふいに訪れる記憶の産物へと楽観的に身を任せるわけにいかない。運を天秤にかけられる状況ではなかった。

 ビルの二階事務所に突如として出現した黒塗りの巨躯。一目見て恐怖を覚えた。そして軽々と振り回される重量級の籠手に触れるなり諦めた。圧倒的な戦力差。

 とどめは刺していない。卵男エッグマンから受け取った自動拳銃、グロッグ17に装填された9ミリパラベラム弾は確かに胸元で七発爆ぜた。それでも巨躯がむくりと起き上がり、追いかけてくる悪夢を虎徹は振り払うことができない。なにより巨躯の仲間が周囲にいないという保証もなかった。 

 考えるまでもなかった。この区画から急いで避難すべきだと本能が告げていた。


 だが――。


「オジサン、どうしたの?」


 そこに赤いランドセルの少女が立っていた。少女は息を切らす虎徹を見て、心配そうに駆け寄ってくる。


「早く――」

 

 逃げろ、とは叫べなかった。それよりも前に建物の二階部で二枚ガラスが枠ごと弾け飛んだ。

 虎鉄が見上げるより先に、巨躯が外へとその身を投げる。

 不安そうな表情を虎徹へと向ける少女越しに、黒づくめの巨躯は平然と地面に着地した。大地を揺るがすような轟音に反して、軸がずれることもない。

 一瞬だけ振り返った少女が、ひっと短く悲鳴を上げるのを聞いた。驚愕に歪んだ左の瞳。ウサギのぬいぐるみをきつく抱きしめる。

 虎徹の口は半開きで固まったまま。世事程度に整えた顎ひげを冷や汗が伝い落ちる。

 ビルとビルに挟まれた路地裏を無言のままで巨躯は歩き始める。まるで何事もなかったかのように。

 山吹虎徹は呆然と見つめるだけだった。言葉もなかった。近距離からの自動拳銃の連射はすべて命中した。防弾チョッキを着けていたとしても、骨の一本や二本は無事では済まないはずだった。なのに軽やかに舞った巨体は、コンクリートを踏みしめ、一ミリも揺らぐことなく着地した。そして悠然とした足取りで虎徹の方へと歩いてくる。


「……全部、放っぽりだして逃げちまうべきだろ、こんなモン」


 状況は絶望的としか言いようがない。虎徹は絞りだすように呟いた。

 瞬間、七ヶ瀬歩なながせあゆむの声が耳の奥でハウリングする。


 ――もうそんなことやめちまえよ……俺と一緒に行こうぜ……。


 虎徹はすがるように相棒の姿を探す。

 耳鳴りにも似た繰り返される残響が、ふっと掻き消される。


 そして。


 別の声が聞こえた。女の声が――そんなことできないくせに……。


 現実逃避的に意識を逸らした瞬間、曖昧な記憶に吞まれていく。抗うことも出来やしない。アルコールの魔力なんてとっくに醒めていた。皮ジャンのポケットからスキットルを取り出す余裕すらない。

 女の声が確かに聞こえた。


 ――自分の意志で決めたことなんてなかったくせに。これからもないくせに……。


 頭の中で女の声が反響していく。現実と虚実が入り混じっていく――。


 流れに身を任せる中、転がり込んだアパートでの同棲生活。偶然に知り合った当時のことを虎徹は日時も自分の年齢すらも満足に思い出せない。それでも確かに彼女は二十七歳だった。

 いつも昼過ぎに起き出して、夕方過ぎにはアパートを出て行く。女が夜の街の住人であることはなんとなく分かってはいても、虎徹が詳しく訊くこともない。化粧を落とすと地味な目鼻立ちをした彼女は、部屋の片付けも満足に出来ないくせに、ペット厳禁の借家に野良猫を拾ってくるような半端に情のある女だった。もともと口数の少ない虎徹と話すより、猫とじゃれている時間の方が長かった。それでも虎徹はそれを苦とも感じていなかったし、また彼女が虎徹に何かを求めることなどほとんどなかった。

 特別なイベントなど皆無でつまらない毎日。だがそんな日々こそが、ささやかな幸せと呼べたのかもしれない。

 何も変わらぬ同棲生活。一年が経とうかという頃だった。


 女が告げた――。


『子供が出来たわ。あなたの子よ』


 しかし、虎徹にはなんの感情も芽生えなかった。

 人生は同じことの繰り返し。彼女のお腹が大きくなるにつれ、その子も生まれては空虚な毎日を過ごすのだな、と他人事のように眺めていただけだった。

 そんなある日、女は部屋を出て行った。


『子供は私一人で育てるわ。あなたは子どもも私も、そしてあなた自身も見ていない。自分の意志で何かを決めたことなんてあなたにはないのね。そしてそれはきっとこれからもないわ』


 虎徹には彼女の言っている意味が分からなかった。だから当然、追うこともしなかった。

 一人になったアパートで、ただ部屋の角をじっと見ていた。どれくらいそうしていたのか分からない。しかし不意に理解した――自分は変われたのかもしれない、と。

 だがその時にはすでに手遅れで、虎徹は二度目の――最後の――チャンスを失った。

 

 記憶は曖昧だった。すべてがあやふやだった。

 チグハグな記憶で構成された記録。まるで寄木細工よせぎざいくだった。

 彼女が部屋を出て行ったのも、数ヶ月前のことのようにも思えるし、十年以上も前のことのようにも思える。

 流れに身を任せても年月は過ぎる。伸びざらした髪の、自分で切った前髪の先端が目に刺さって痛かった。喉は焼けるようにひりつく。渇いていた。何に渇いているかも分からないくせに、何かを求めていた。

 記憶は曖昧だった。時系列がバラバラだった。

 人が、物が、言葉が頭の中でドロドロに煮込まれていく。まるで闇鍋だった。

 支離滅裂になっていく。


 俺と一緒に行こうぜ――、素っ気ない響きとは裏腹に、懇願するような目をした七ヶ瀬歩なながせあゆむの顔がちらつく。


 皆殺しだ――、赤鬼、雷銅鋼と日本刀の映像が浮かぶ。両目がボタンで出来たぬいぐるみが床に転がる。


 子供が出来たわ。あなたの子よ――、女は悲しげな顔で告げ、紅茶をすする。


 黒づくめの集団に茨木組もバーバ・ヤーガも襲撃された――、風神、風間令心が左側頭に残る銃創を掻く。搔くたびジャムとなったカサブタが辺りをベタつかせる。


 頼んだよぉ、涅槃ねはんのにいさん――、期待の色を灯した瞳で、茨城吟仔はめかしく上唇を舐める。ふたつの代紋と『不退転』の掛け軸はリボンのカチューシャで飾りつけられている。


 何も見つけられなかった場合は、そこで君との契約は終了だ――、割れた殻の中でグズグズに溶けた卵男エッグマンが誰ともなしに言っている。


 天使の輪が見えたらゾンビ症状発症の兆候サインらしい――、どこかの誰かが言った、気がした。


(俺は……俺は、ゾンビになんてならなかったぞ)


 光の輪が自分の視界を覆ったのは数日前のような気もするし、ずっとずっと昔のような気もする。

 虎徹の脳内で、情報は無限に湧いて増殖するバグだった。前後の脈絡なんてない。浮いては沈むそれを感情のまま言語化しているに過ぎない。

 

(子供、俺の子供は……)


 脳裏を掠めたのは二色のランドセル――まさか……


「オジサンっ!」


 ハッとして顔を上げた。赤いランドセルの少女もまた迫りくる脅威に気づいていた。怯えた表情を浮かべて虎徹の方へと駆け寄ってくる。黒いランドセルを背負った少年の姿はなかった。

 記憶は曖昧だった。ありえるはずもないのに、脳内で混じりあった情報が現実を侵食していた。



    □■



 彼女たちが虎徹と無関係なのは火を見るよりも明らかだった。


 新宿の茨木組本部を後にする直前、口ひげを弄る卵男エッグマンは物のついでのように言った。


『この双子は大の日本贔屓でな。仕事がてら東京観光に連れて行ってやってくれ。なに、君の仕事の邪魔はせんよ』


 少年と少女――双子。どう見積もっても小学校高学年といった体躯。華奢な線と長い手足。透き通る白い肌。美しい白金髪プラチナブロンドはロングとショートの違いはあっても、共に毛先にかけて薄荷緑ミントグリーンへと色調が変わる。そして蒼玉サファイアのように輝く碧眼。


 瓜二つの容姿――まるで磁器人形ビスクドール


 卵男エッグマンの申し出に、跳ねるように駆けて奥の間から持ってきた赤と黒のランドセルを背負う。双子の笑い声はユニゾン。どちらともなく「日本のJSスタイル、完璧っ」と言った。日本贔屓にも、どこかずれた文化の認識で。

 早々と出発の準備を終えた双子は、虎徹の返答を待たずにその後ろへと張りついた。


 少年は後頭部を刈り上げたショートカット。色とりどりの蛍光色をぶちまけたようなジップアップパーカー、ダボダボのそれからラインの入ったスパッツを覗かせる。軽快な装い。ショートソックスにエアークッションの入った厚底スニーカー。おめかしなのかなんなのか、スポーツタイプのサングラスをかけていた。


 少女はブラウスの上に、パニエでふわりとフリルを広げたジャンパースカート。ピンクメインで、スカートの裾にはウサギのモチーフが並ぶ。柄タイツとおでこ靴ブルドックトゥ、腕には袖止め着用の完璧な甘ロリスタイル。小さな両手を、大ぶりのビジューとスパンコールが散りばめられたネイルが飾る。ヘッドドレス越しに揺れるツインテール。右目にはハートの形をした眼帯をつけ、両目がボタンで出来たウサギのぬいぐるみを抱いていた。


 国籍も、年端も不明な少年少女を愛玩動物よろしく手もとに置きたがる変態は裏社会には大勢いるし、真っ当な企業の令息や令嬢が社会勉強の一環として(もちろんエスコート付きだが)こちらの世界を覗きにくることだってある。そしてそれ以外にも用途は様々に……。

 いくら自分のいるかどうかも知れぬ子供に重ねてみたところで、『この子らはそういうんじゃない』――ということくらい虎徹は既に理解していた、はずだった。


    □■

  


 次第に、迫りつつある巨躯の姿に変化が表れ始める。漆黒の衣装は、陽光を受けると白へと変色していく。まるで姿を消し去る魔法のマント。テナントの二階で虎徹が巨躯の存在を認識できなかったのは、カメレオンのように体色を周囲の色調と同化させる科学技術の結晶――疑似光学迷彩――の成せるわざに他ならない。

 全身に張り付いたスーツは薄闇の中ではオートバイ用の物かと思ったが、日の下にさらされて見ると競泳水着程の薄さしかないように感じられた。巨躯の隆々とした全身をくっきりと、それこそ筋繊維の一本までをも鮮明に浮かび上がらせていた。

 白塗りのフルフェイスの奥で双眸が真紅に――鳩の血ピジョンブラッドのように――輝く。深紅の双眸が照準を合わせる。

 全身を純白に染め上げた男は、両拳を胸の前で構えると地面を蹴った。重爆撃機のような見た目に反して、疾風の如き速度だった。

 

 間近に迫る巨躯を見ても、虎徹は身じろぎも出来なかった。

 重爆撃機の一撃は既に射程圏内にあった。

 少女は力いっぱい虎徹へとしがみついた。

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