第十七話 XXXXX――ベルゼブブ 3


 X 1.D.A



 タグリも縣衣ケンネの爺様もすでに床に就いた頃。玻璃山はりやまケンは忍び足で文具コーナーを後にする。

 就寝中の他チームの縄張りを警戒しながら進み、生活とファッションのフロアがメインの西棟二階の端を目指した。西棟の奥側は、上階で暴食ヴェルゼブブのメンバーやその観客オーディンスが深夜まで乱痴気騒ぎをしていることが多く、他のチームが縄張りにするのを避けたエリアだった。

 西端のガラスフェンスの支柱にロープを括りつけた。軍手をはめ、身に着けておいたハーネスにガラビナを取り付ける。いつもは携帯武器をしこむのに重宝するアーミージャケットだったが、今は多機能性に優れた六つのポケットに登山用の道具が目一杯詰め込まれていた。 

 周囲を見渡した後、ケンは一階へと懸垂下降していく。昼夜の概念も不明なゾンビで溢れかえる一階が危険なのは百も承知だった。自身を鼓舞するように呟いた。


「時間が限られている以上、一分一秒も惜しんでいる暇はないんだ」


 一階へと着地すると素早く周囲の安全を確認する。吹き抜けの天蓋から降り注ぐ月明かりを、ゆっくりと流れる雲が閉ざしていく。夜の闇に呑まれていくフロアだったが、少なくとも目視で確認できる範囲にゾンビの姿はなかった。

 ケンが着地したのは週に一度、スパルタン・Zのゴールとして利用される西Bエスカレーターのほど近く。ケンは感慨深く床を見下ろす。そこは因縁の場所でもあった。

 かつて全身を蜂の巣にされ二階から吊るされた大男――奈羅國一直ナラクニイッチョク。ロープが千切れた後、彼が落ちたのは確かこの辺りだった。

 今も奈羅國の巨体が床へと叩きつけられた時の音を覚えている。スパルタン・Zで奈羅國のゾンビと出くわしたという話は聞いていない。おそらくゾンビのエサとなったであろう荒くれどものリーダー、その名残らしき床に残ったどす黒く染まった血の跡をケンは眺めた。

 その後、荒くれどもをまとめることとなった畜生チクショウモトルには、浅知恵を働かすことは出来ても奈羅國ほどのカリスマ性と力はなかった。実質上のリーダー不在という事態に、一派閥を形成した集団は混乱し思考は完全に麻痺した。

 奈羅國の一件がスパルタン・Zの開催に拍車をかけたのは間違いない。すべては在庫管理人ストックマネージャーの思惑通りに進んでしまった。


「もっと冷静になるべきだったんだ……」


 ケンの嘆息は薄暗がりへと消えていく。過去は巻き戻せないと分かっていても。今さらの後悔が何にもならないと分かってはいても。口に出せずにはいられなかった。

 リーダーを失った荒くれどもグループが在庫管理人ストックマネージャーの敷いた一連の流れに乗る中で、ケンたちも傍観者ではいられなくなった。だが混乱していればこそ、沈着冷静に物事を見極め、そして考えるべきだったのだ。正しいとは何かを。

 だからもう迷わないと決めた。正しい道を目指すために。その覚悟をケンは口にする。


「今度は絶対に間違わない」


 手際よくハーネスをロープから外した。警戒を怠ることなく、同時に気配を殺しながらケンは歩き始める。

 西Bエスカレーターの奥手にはエレベーターが設置されてある。暗がりでよく見えなかったが、エレベーター前の床には巨大な何かを引きずったような跡があった。靴底で確認すると粘性の高い液体が糸を引く。周囲を窺うと手のひらサイズのメモ帳が落ちているのに気づく。

 表紙には虫の這ったような読みづらい字で、『聖典』と記されていた。



 ―・―深層しんそうへとはびこりし六識りくしきへと至る教え―・―


 天使への覚醒状況に従い、一から六への階位で示される。


 第一深層――滔主とうしゅ閃虚セロさまの教義を信望することで額にひとつ目の刻印がなされ、洗礼名を与えられる。


 第二深層――天使の時代の習慣を身につけた者は二つ目の刻印がなされる。(最低でも十の人肉を食すこと!)


 第三深層――肉を取り込むことで、体内・外の変化をもたらせた者は三つ目の刻印がなされる。(入門時の試練で変化が発現した者は、額の刻印をなされずに第三深層以上の信徒として閃虚さまより直々の洗礼を受けられる)


 第四深層――体内・外の変化を安定的に確立(肉体の再生、発達器官の取得等)させた者は四つ目の刻印をなされ、さらなる修練に努めることとなる。


 第五深層――閃虚さまより准天使としての洗礼を受けた者は五つ目の刻印をなされる。実質、閃虚さまの高弟として認められる。


 第六深層――超越者。すべての天使の意識と繋がる至天使への頂へと到達した者。滔主、閃虚さま以外に前例はなし。


 ※1 日々、精進のために老若男女、元天使の類に洩れず人の肉、内臓、脳、あまさず希少な糧とし髪の毛から爪の先まで食し続けること。


 ※2 体内・外の変化、特に発達器官の取得は『片鱗』と呼ばれ、閃虚さまに次いで天使に近い存在として教団内で信徒を導く責務を負う。



「――狂ってやがる」


 内容に目を通すや、気味の悪さにメモ帳を放り捨てた。妄想じみたお告げは、まともじゃなくなった世界で正気を保てなくなった人間の心の拠り所だったのだろう、と早々に結論付ける。ケンの興味はすぐ別のものへと移っていた。

 エレベーターの扉のわきには消防用のホース格納庫が設置されていたが、その蓋には噛み捨てられたガムが貼り付いていた。人のいた痕跡に走る緊張。警戒は怠らないままで、ケンはそっと格納庫に触れる。


「これは……」


 格納庫付近で予定外に時間を潰したケンは、やがて、エレベーターのドアを押し広げた。籠の中へと身を隠し、ドアを閉じ直す。躊躇することもなく天板の一部を開けると、その中へと上った。行為自体は既に三度目、だいぶ余裕をもって目的の半分を成し遂げる。


 ケンとハギトは大学の登山サークルで出会った。サークル内でもクライミング専門だったのはケンとハギトだけで、会ってすぐ意気投合した。それからは特訓と称して、二人でロープクライミングのほか、ボルタリングからツリークライミングに至るまでスキルアップに勤しんだものだ。そう。少し前まではそんな日常が当たり前に存在していたのだ。


 だが――、世界がこんな風にならなければ、ケンがタグリや縣衣の爺様、そしてリンとバトと出会うこともなかった。それを思えばケンはちょっとだけ複雑な気分になる。

 

 縣衣の爺様と、親とはぐれた小五のリンと小六のバト。そして三人の保護者気取りのタグリ。大学のサークルで出会って以来の親友であるハギトと逃げていたケン。四人が合流したのは今から三ヶ月前に遡る。ゾンビ騒動から逃げてきた者同士、気づけば自然と一緒に行動するようになっていた。

 ふ、とケンは一人微笑む。


「ケン兄ちゃん――か」


 ともに過ごした時間は、イコール六人の絆の深さでもあった。疑似家族と呼んでも差し支えないような。

 リンの丸みを帯びたショートボブと、くせ毛を外跳ね風にしたバトのミデイアムヘアーはタグリの手によるものだった。地獄にいるからってオシャレに気をつかっちゃダメなんてホーリツはない――タグリは言った。ケンとハギトのヘアデザインからカットに至るまでもタグリが務めていた。

 ハギトより二ヶ月誕生日が早いケンは、いうなればかりそめの一家の長兄にあたる。一人じゃないということがどれだけ心強いことか。慰めとなることか。こんな世の中だからこそ、誰かと繋がっていたいと願う欲求が人の根底にはあるのだ、と強く感じられる。

 

 だが――。

 

 時には一人でやり抜かなければならないこともあるだろう。決意を新たに、ケンは天井をきっと見据える。微かに灯る非常灯があまりに頼りない。月のない夜に一人取り残されたかのような心細さを覚えた。それでも孤独を強さの糧にしてケンは行動を開始する。


 天井に設置された巻上機まきあげきから垂れ下がるロープをロック機構のある滑車マイクロトラクションに通す。登高器アッセンダーをロープに設置すると、その下部にあぶみテープスリングを取り付け、右足を乗せる。すべて天板の上に隠しておいたものだった。

 あぶみを踏み込みながら、登高器に通したロープをたぐる。初回はエレベーターのメインロープに枝木とロープを引っかけた手作りの木登り器、ブリ縄の要領で登らねばならず悪戦苦闘したものだが、器具を用いてのロープクライミングはスムーズだった。ケンは着々と上階へと登って行った。


 三階の全フロアの使用権。それはスパルタン・Zの優勝チームに与えられる副賞のひとつだった。

 フロアの三分の一を自分たちの観客オーデインスに分け与えた暴食ヴェルゼブブのメインフロア。三階エレベーターすぐのファストファッションのブランド店、そこに家具や家電を設置して連中がくつろいでいることは随分前から知っていた。

 閉じられたエレベーターのドア。隙間からランタンの明かりがこぼれるそこへと、ケンは耳を押し当てる。気配を殺しながら聞き耳を立てた。


 ドア越しに聞こえたやや甲高い声。聞き覚えのないそれがスパルタン・Z最強のプレイヤー、動ける太っちょ《アクティブファットマン》こと油窯アブラガマタギルのものであるということを遅れて理解する。


「――で、結局のところでソイツは信頼出来るのか?」


「それは間違いない」


 三途川ミトガワ渉流ワタルが即答すると、血之池チノイケ未散ミチルは応じつつも不服さを忍ばせて、


「その内通者・・・さんのおかげで確かに今までレースは私たちの有利に進んだよっ☆ あ、まあ、私はどっちでもいいんだけどー。でもやっぱりそろそろ切り時じゃないのかなー?」


「いや、それはまずい。今後の展開を考えれば切ることは出来ない。むしろ関係を断たれれば、俺たちの方が苦境に立たされるだろう」


 ワタルの返答に、ミチルが絶句する「嘘、だよね……」


「関係性を曖昧にしているだけで、イニシアチブは実のところ向こうにある。こちらが握っているふりをしてはいるが、そこに気づかれたなら俺たちは永遠にソイツの奴隷に成り下がるだろうな」


「次のレースどころか、俺たちの命運はソイツ次第ということか」


 あのタギルですら、畏怖を覚えていた。暴食ヴェルゼブブの連中の言葉に余裕はなかった。ケンの中でわずかに溜飲が下がる。

 情報を聞き出す必要があった。ケンは集中して聞き耳を立てる。そして話は核心へと至る。


 ワタルが言った。


「あれが、あのケ――」


 その瞬間だった。耳障りな大音量がモール中に響き渡る。


『こんばんはァ、在庫管理人ストックマネージャーだァ。お休み中の深夜にお騒がせするぜィ』


 継がれるはずだった言葉は、突如鳴らされた館内放送によって断ち切られた。

 ケンの鼓動が高鳴る。全くの不意打ちだった。必死で口許を押さえ、無理やりに息を殺す。

 在庫管理人ストックマネージャーは悪びれもせず、ケンの鼓動をさらに加速させる言葉を吐いた。


『お前らがァ一日千秋の思いで待ち望むスパルタン・Z。そんな要望を叶えるのもオイラの役割だわァ。急な話だがよォ、第八回スパルタン・Zはぁー、ドゥロドゥロドゥロドゥロドンっ! 明日、開催とするぜィ。さあ、お前ら。泣いて喜べ』


 ケンは愕然とする。準備らしい準備なんてほとんど何も出来てはいなかった。

 予定より七日も前の話だった。



 X ‐ DAY 



 スタートの号砲が鳴らされる。混迷するそれぞれの思いをよそに第八回スパルタン・Zは始まってしまった。

 ケンは飛び出すと同時に周囲を見渡す。だがその視界に目当ての姿を捉えることは出来なかった。


「どこだ。タギルはどこにいる? 暴食ヴェルゼブブはどう動く?」


 ケンは視線を絶え間なく動かし続けていた。あと十秒程で暴食ヴェルゼブブのウィング、ミチルがスタートエリアから放出される。それまでにタギルを見つけ出す必要があった。些細なヒントですら見逃すわけにはいかない。このままでは予定調和が繰り返されるだけ。戦術や攻略法は数あれど、暴食ヴェルゼブブの狙いが分からなければ無策となんら変わりない。

 だからケンは必死にタギルを探す。あと七秒、しかしケンの瞳が捉えたのは――ケンへと向かい悠然と歩いてくる――焦熱ショウネツゴウカ。

 前髪のかかる上縁ハーフリムの眼鏡の奥では厳しい視線がケンを見据えていた。


「次会うときは全力で潰す。そういったはずだな」


 構えると同時に突き出されるゴウカの拳。疾風のような右正拳突きに、ケンは携帯武器を抜く間すらなかった。

 赤銅色のジャージと同化するようなグローブ製の手甲。両手に握ったナックルダスターが拳を保護しつつ攻撃力を高めていた。鉄板を加工して作られたその武器は、ケンが同盟の記念の日に贈ったものだった。

 瞬きすら出ないケンは自身の顔面を破壊する右正拳の風圧を確かに感じた。

 だが、その拳はケンの正面間近で軌道を変える。両肘を曲げたオーソドックスな空手スタイル。転じて防御の構えをとった右腕で何かが炸裂する音が響いた。


「ゴウカ、あんたはホント大馬鹿だね。大馬鹿だからこそ、なんの考えもなしにただ有言を実行しようとしてんだろ?」


 鮮やかに染まる青いロングヘアーが舞う。へそ出しスタイルの光沢がかったシャツとパンツにピタリと張り付いた長い手足。長いツケマがドラァグクイーンを連想させる――挽臼ヒキウスナタク。ベルトを改良したバラ鞭片手に彼女はゴウカを見据える。

 長身の両者が対峙する。

 頭に被るコスプレ用の警察官ケーカン帽はナタクの戦闘モードの表れ。握った右拳をゴウカへと向けた。人差し指から小指にかけて嵌めたゴツいリング――並んだL・O・V・Eの文字――が露わとなる。


「ここはアタシが押さえとく。ケン、アンタは先を急ぎな」


 背中を押されてケンは駆け出した。

 同時に二度目の号砲が響いた。ウィングがスタートエリアから飛び出してくる。

 畜生モトルが物干し竿を改良した長獲物を手に。

 他化自在天タケジザイソラが両手にはめた鉤爪をぶら下げて。

 比良佐嘉詠ヒラサカヨミが調理用の肉たたきミートハンマーを握りながら。

 飛び出してくる集団を背にケンは走り続けた。



 そして――。


 

 ヨミはゾンビの群れに切り込んでいく。

 絶叫するレイド。

 モトルは呆然とする。

 砕ける天井の吹き抜け窓――ガラスの破片が降り注ぐ。

 黙示録の四騎士の降臨。

 鬼神の如く立ち塞がるナタク。

 ゴウカは咆哮する。

 ソラは嗤う。

 冷徹に突きつけられるワタルのナイフ。首筋から血が滲む。

 タグリの腹部で銃弾が炸裂する。

 そしてケンが呟く。「騙してたのか、お前が……」

 広げた四枚の翅に、六足歩行で歩く巨大な影――蠅の化け物が顕現する。


『人とゾンビの饗宴。そんじゃまァ次回をお楽しみにィ――』在庫管理人ストックマネージャーの愉快そうな声だけが館内放送に乗って響く。


『――トゥービィーコンティニュードォ』

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