第十六話 友直真先――ストライカー 3
それは左半身だけが歪な肉塊と化した怪物だった。
左側だけ膨らんだ空気人形のような姿の溶鉄が立ち上がった。サイズが合っていないため真っ直ぐに立つことすら出来ない。肥大した左側を右半身でアンバランスに支えている。発達した筋肉の所々は瘤となっていて今なお肥大と収縮を繰り返していた。
「嘘、だろ……」
マサキこと、友直真先は怪物を――人を辞めた溶鉄を――呆然と見ていた。
「さ、さすがに自分の肉を食ったことはなかったな。み、右側の肉を食べると左側が回復するってことなのか? た、他人の肉じゃこんなことなかったのにな、な、な、な」
差しさわりもなく溶鉄は話す。紅蓮のモヒカンと悪趣味な瞳のタトゥーが三つ刻まれた頭部をしているとはいえ、首から上は人としてのありようを留めている。グロテスクな半身に反した潤んだ瞳の端正な顔立ちが、ことさら気味の悪さに拍車をかけていた。
傷の直りに比例する筋肉の急成長。当の本人ですらが戸惑っていたが、「な、なあ、うっ、ああ、ううぅぁあああ」やがて感情を爆発させるように泣き始めた。赤く染まった左目はまさに血の涙と呼べた。
「ああああ、ああ、痛ぇ、痛えなあ。痛えよお。ううぅ、親指があ! お、お前、よよよくもオレの親指をぉ! オオ、オレはほんのちょっとの幸せが欲しかっただけなのにぃ!」
憎悪を撒き散らしながら右手で大鉈を拾った。バランス悪い立位を保つように鉈を人工芝に突き刺しながら、マサキへと顔を向ける。出血で真っ赤だったはずの左目は瞬く間に黒く塗り潰されていた。
「おお、お前だけは、な、な何がなななんでも食ってやるからなあ!!」
吃音まじりの言葉。剥き出しの殺意。怪物と化した食人鬼がマサキへと向かって歩き始める。しかし肥大した半身のせいで足取りは重く、大鉈を杖代わりに歩くさまは足腰の弱った老人にも似ている。
異様な姿に怯みはしても、マサキはすぐに持っていた硬球を握り直し、投球フォームを整えた。球種はもちろん自身最速の――フォーシーム・ファストボール。
マサキの決め球は溶鉄の頭部を捉えた、はずだった。
溶鉄の頭部に迫る直前でフライボールのように飛んで行く硬球。肥大した溶鉄の左半身、前面に押し出した肩口の筋肉は異常に発達するやマサキの速球を弾いてみせた。成長における最終形態を決めあぐねているような筋肉の集合体。それは同時に溶鉄本来の肉体たる右半身を強固に守る盾だった。
「い、偉大なる
溶鉄は止まらない。野太い血管をいくつも浮かび上がらせながら、肥大と収縮を今なお繰り返す巨大な瘤の塊。重い左半身を引きずるようにマサキへと向かい歩き続ける。
「くそっ、こんなの針に糸を通すようなもんだ」
マサキは再び芝に転がる硬球を掴む。だが投げられない。投げるべき的は隠れたままだ。通す針穴すら見当たらない。
溶鉄がゆっくりとした歩みを止めることはなかった。投球フォームにすら移行できないマサキが隙を伺う中、その溶鉄が行動を起こす。沈み込むように前のめりになると、肥大した左手の五指を芝へと突き刺した。一転、握力と曲げた肘を勢いよく伸ばす。その反動で溶鉄は跳躍した。巨体が舞う。右に握った大鉈が低い天井のネットを切り裂く。振り乱す紅蓮のモヒカン、まるでネズミ花火。半回転しながら勢いそのままに刃を振り下ろす。
「くっ」
マサキは大きく身を捻って躱した。溶鉄は左半身をクッション代わりに受け身をとると、追撃のための姿勢へと移行していく。その僅かの間に態勢を崩したマサキがフォームを取り戻すことなど不可能だった。
マサキは握っていた硬球をパーカーのポケットに突っ込みながら、低速のバッターボックスへと飛び込んだ。複合施設の五階、都会のバッティングセンターの天井は低い。だとしてバッティングセンターに変わりはない。すぐさま金属バットを掴むと、マシーン作動用の箱型の機械を殴りつける。機械が半壊し、中に溜まった百円玉が転がり落ちていく。宙でそれを掴めるだけ掴んで再び駆けだした。
マサキの背後で左半身を振り被った溶鉄の追撃。振り子の原理に伴う回転力を上乗せした右の大鉈が、箱型の機械を完璧に破壊する。
迫りくる殺意を後ろに、マサキはバッターボックスをジグザクに駆けた。四つ目のボックスを駆け抜けたところで、人工芝へとヘッドスライディングする。程なく五つ目の箱型機械が大鉈に破壊された。
金属バットを手にマサキは立ち上がる。まもなく異形の半身をした溶鉄が五つ目のバッターボックスから姿を現した。
息を切らしながら左にバットを握るマサキは、
「バッターとしての道もあるぞ、って言われたけど……」
頑なだった自身のスタイルに思いを馳せるように、ポケットに忍ばせた硬球を握りながら右手を取り出した。反応するように、溶鉄は左半身を前面に押し出した防御の姿勢をとる。
「勝負だっ!!」
フォーシームを警戒する溶鉄の右半身を肥大した左半身が完全に覆った瞬間、マサキは続けて叫んだ。
「名も知らぬピッチャー!!」
溶鉄は理解できなかった。マサキの発言も。そして自身の右わき腹に走った痛みにも。
苦痛に顔を歪めながら見た先で、どこの球団の選手かも分からないデジタルピッチャーが二投目を放った。時速百四十キロの速球が溶鉄の眼前へと迫る。辛くも左半身の盾で防いだ刹那、溶鉄は胸のざわつきを覚える。予感のまま終わらせるべく盾をマサキの方へと向けた瞬間、予感は確信へと変わった。そしてそれは溶鉄が想定しうる範疇を超えていた。
溶鉄はマサキの姿を完全に見失う。最悪の想定は、気を逸らせた上での真っ直ぐ《ストレート》勝負。しかし当のマサキは投球フォームを整えるどころか、その姿すら消え失せている。
「ラストプレーだ」
声が聞こえた。マサキの声が。溶鉄のすぐ間近で。
反射的に溶鉄の大鉈が跳ね上がる。自身の後方へと向けて。
薙がれる大鉈と同時にマサキも動く。左足を少しだけ前に。身体の軸はそのままに、軸足となる右足を回転させた。運動が伝わるようにして腰が回転を始める。大鉈は目の前まで迫っていた。それでも両手はギリギリまで耳元に残す。
大鉈の握られた溶鉄の右腕に滑り込むようにして、マサキはフルスイングした。
「ぐはぁ!」
くの字に折れ曲がる溶鉄。溶鉄が派手に血を吐き散らす。深々とめり込んだ金属バットが右の肋骨を粉砕していた。大鉈が芝の上に転がる。
「これで本当にゲームセットだ」
マサキは小鹿のような足取りの溶鉄の顔面へとさらにスイングする。冷徹なるジャスミート。追い打ちのようにデジタルピッチャーの速球が右のこめかみにめり込む。軽快な打球音を鳴らした後で、溶鉄の長身が崩れ落ちる。
マサキは深々と嘆息する。
「まったく。皮肉っていうなら、これもこれだな」
投手専門の自分が陰でバッティングの練習もしていたなんて、誰にも明かしていない秘密だった。バッターとしての道もあるぞ――、いつかの監督の言葉が頭を巡る。心残り、言葉にすればたった六文字の簡単な理由。そして思い出す。野球自体に悔いがあったことを。
転がったまま微動だにしない溶鉄を眺める。そしてなんとなく思った――居場所がなかった男と、居場所を失った男。求めたものの本質はそんなに違っていなかったのかもしれない、と。
「っても、こんなことするためにバットとボール使っといて、今さら心残りもないだろうにな」
沈黙する溶鉄の左半身は相変わらず肥大と収縮を繰り返していたが、マサキは無視して歩き始めた。中速のピッチングマシーン、その機械にポケットに残ったありったけの百円玉を投入して、バッティングセンターを後にする。硬球がミットにあたる重い音が心地よかった。
一階まで下りた先には、あちこちがガタついたワンボックスの軽自動車。運転席では
軽自動車はひたすら真っすぐ進んだ。道路の脇には乗り捨てられた車やバイクが並んでおり、ほとんど二車線の真ん中を走り続ける。機能していないことが明白な大学病院を過ぎ、富士見橋を超えていく。
「もう大丈夫だろ」マサキが言ったのは、環状七号線に差しかかる頃だった。
ガチガチにハンドルを握って前だけ見ていたノブが思い出したように息を吐いた。
軽自動車は車道に乗り捨てられた車と車の間に下手くそな縦列駐車する。ドリンクホルダーの中で、どさくさ紛れにノブが失敬してきたビリヤードボールが揺れていた。
「で、ノブ。結局アイツらはなんなんだ?」
マサキの問いにノブは思い出すのも嫌なように身を震わせた
「六識深滔・泥眼。せっかくの地獄から生還できたってのに、危険思想に憑りつかれて今もゾンビの真似ごとをしてる集団だよ。地方の目撃例はネットニュースにも載ってたけど、まさか東京にまで出没するようになってたなんて……」
「ノブの言うゾンビとは別物なんだろ?」
「うん。正確には元ゾンビかな。せっかく人に戻れたのに、ゾンビだった頃に想いを馳せるなんて正気じゃないよ、まったく。あの地獄の方が良かったなんて」「地獄……」
ノブが頷く。
「そう。発症事件に端を発して、その後、三か月間にわたって続いた地獄。その地獄の中で、ぼくたちは必死に逃げ続けたんだ。いつものぼくたち、ぼくとマサキ、そしてアツシとユウナ」
その名前を聞いた瞬間、マサキの中でイメージが溢れ出す。断片的な映像が、記憶の水面へと次々と浮かんでいく。ところどころ抜け落ちてはいても、パズルのピースは組み上がっていった。
アツシ――
ユウナ――
そしてマサキの脳内はフラッシュバックする――。
期待に満ちた季節の到来。
訪れる夏休みの作戦会議。
いつもの日常。
当たり前という名の幸せ。
それは一瞬にして崩壊した。
SNSの発信と共に伝播していく混乱。同時に迫りつつある恐怖。
逃避行の日々。
やがて訪れる死。
静寂の中に取り残されたアツシとユウナ、二つの感情のない顔。諦め――つまりは絶望。
薄闇に鮮血が飛び散った。
瞳の奥に映像が焼き付いていた。嗚咽がこみ上げる。マサキは目を閉じて、自然に身を任せる。まだ記憶は不完全なものだった。だが断片的であったとしても、マサキは思い出しつつあった。世の中が地獄に染まった瞬間に立ち会ったあの日のことを。
ノブはずっと待っていてくれた。マサキが落ち着くまで。頬を伝う涙が乾くまで。
「――家も、学校も安全な場所なんてなかった」
やがてノブは静かに語り始めた。
「発症者はおよそ知能と呼べるものが失われるんだ。あるのは突き動かされる衝動に身を委ねるという本能だけ。ウィルスを増やすか、捕食するか、どっちにせよ人を襲うっていうことに変わりはない。本能的に人間を補足、噛まれてすぐは運動機能が維持されているから自分の限界以上の速度で追いかけてくる。って言っても、ウィルスは二、三分ほどで全身を侵すから持久力はないらしいけど。例えるなら、噛まれてすぐはダニー・ボイル版、三分経ったらロメロ版のゾンビって感じかな。衝動に駆られるだけの知能でもガラスくらいは突き破ってくるからね。事前にバリケードでも築いてない限り、連中の侵攻を防ぐすべはなかったんだ」
マサキは思い出す。四人で逃げ続けた日々を。そう。安全な場所なんてなかった。ずっと居場所を転々としていた。
「大体の人たちは家の守りを固めて引き籠った。それでも被害は惨憺たるものだった。警察や自衛隊も投入されたけど、連中はもう人とは身体の構造が違っていたから、対人兵器はほとんど意味を成さなかった。感染者はすべからく発症し、抗体を持つ僅かの非感染者もただ連中の食料にされる。圧倒的な分母と分子の差。感染者の増殖は絶望的な速さだった。発症から二十四時間で関東全域が隔離対象になった」
ノブは淡々と話し続ける。それがノブにとっての苦痛になる行為であることも理解していた。まだかさぶたにすらなっていない傷をさらけるようなものだ。
「それでも発症から二週間くらい過ぎた頃になって、政府もようやく対応策を打ち出せた。構造上屍人に近い感染者は、飲まず食わずでも体が腐り果てるまで活動を続けられる。かつ圧倒的なコスパの良さで、一口の人の肉、その細胞と遺伝子を取り込むことで肉体の崩壊を著しく抑え込むことが出来るらしい。そして人肉には及ばないものの、人以外でも動物の生肉なら感染者の肉体の崩壊をある程度は抑えられるということを、連中の食料に成りえるということを突き止めたんだ。豚に、牛に鳥、ゾンビの代替食になる肉ならばどんな動物でも。政府はそれをばら撒いて連中の気を逸らし、その間に籠城する家々へ空から物資の提供を続けた。当然、感染のリスクを最小限にするため救出作戦は行わない、という前提の下……」
窓の外へとノブは視線を逸らす。上の空で続けた。
敢えて話を逸らしのだた、とマサキにも分かった。
「皮肉な話だよね。事件が起こったのは平日の夕方だったから、意外にも屋外を駆けずり回って、逃げ惑った若い世代への被害が一番大きかったってさ。むしろ、逃げ遅れたり、公共施設に取り残された高齢者とかの被害の方が少なかったらしいよ。ネット情報によれば、世界の人口を七割までに減らしたこの感染騒動も概ね収束。早くから坑ウィルス剤の散布が始まった離島や地方では、すでに以前の生活や習慣が戻りつつあるって話だけどね」
目を逸らしても、話題を変えても、なんの気休めにもならなかった。
言い淀んだノブ。明らかな躊躇い。
それはマサキとノブの物語。その核心。
だが、マサキは既に思い出し始めていた。そう。確かにあれ《・・》が起こったのは平日で。正確には昼過ぎから夕刻へと移るその合間、初夏のまだ陽も高い頃合いだった。
「すべてを過去にしたくても、現実は変わらない」
マサキが呟く。環状七号線のアスファルトが秋晴れの陽光に煌めいて見えた。二人はいま、生きている。だからといってなんの慰めにもならなかった。過去の産物だと蓋をしたところで、忘れられるはずもなかった。
断片的な記憶にはいつも三人がいた。ノブとアツシ、それにユウナ。いつからだったのだろう。いつもの四人が二人だけになってしまったのは。
決意したようにノブはマサキを真っ直ぐに見据えた。
そして話を再開する。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「僕たちはずっと逃げ続けた。期待していた夏休みは逃避行の旅になってしまった。それでも四人で、ずっと四人で旅を続けたんだ」
その先は聞きたくなかった。
ノブは力なく、それでもしっかりと笑った。
記憶のふたを開けなくて済むのなら、ずっとそうしていたかった。だからこそ、きっとノブは笑ってみせたのだ、と思った。精一杯の優しさで。
「僕は逃げることしか出来なかった。そんな僕と違ってマサキは逃げなかった。マサキは、マサキはあの日からずっと僕にとってのヒーローだよ」
マサキはノブに小さく微笑み返した。ノブ一人に負わせた傷、それを分かち合う覚悟を決めたことを知らせるために。
「隠れた廃マンションに感染者が押し寄せたあの日、最初に噛まれたのはユウナだった。助けに行ったアツシも噛まれた。僕は隠れることしか出来なかった。だけど、マサキは二人を助けるために最後まで戦った。最後の最後、力尽きるまで。僕は二人を助けようなんて考えすら思いつきもしなかった。僕はただ隠れていただけ、そして力尽きたマサキを連れて逃げただけだ。僕は……僕は最低だ」
ノブの瞳から再び涙が溢れ出す。
マサキは力いっぱいノブの肩を抱いた。
「そんなことない。ノブが俺を救ってくれたから、俺はこうしてここにいられるんだ。俺が生きていられるのはノブのおかげだよ」
呻き続けるノブを抱きながら、マサキの頭の中では記憶の断片が再生されていく。
そこに映る最後の映像。自分に起こった出来事に、信じられないという表情を浮かべるアツシとユウナ。その絶望に染まる顔が脳裏に焼きついた。
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