第十五話 眞野花織――ヴォジャノーイ 2


 それは人生を変える出来事であり、事件であり、運命。花織はそれから三日間を呆然として過ごした。責任の一端を感じているらしい編集はその間、へつらうようなことはあっても、何かもっともらしい言葉を発することも、押しつけがましい言葉を吐くこともなかった。


 花織が行動を起こしたのは三日目の夜だった。パーカのフードを目深に被ってサングラスをかける。自衛には程遠い装備。あの日、花織の尊厳は屈辱の泥にまみれた。ある種のトラウマとなった。それでも畏怖よりも彼女に会いたいという気持ちの方が上回っていた。何よりその夜、自身の視界を覆った光景――光の輪――を花織は天啓だと捉えた。

 花織はブラック・バカラに着くと、三日前と同じテーブル席に座った。そして結局、同じようにカシスオレンジを舐めていた。来てはみたものの全くの無計画。そこから先のことなんて考えてもいなかった。

 ダンスミュージックがビートを刻む店内で、知り合いもいない花織は辺りを窺う。知り得るのは彼女が『E』と呼ばれていたことだけ。彼女と繋がりのあるらしいバーテンの姿を見つけたら、とりあえず声をかけてみようか――そんなことを考えながら一時間が過ぎる。

 意外にも先に姿を現したのは彼女の方だった。

 白いブラウスシャツに黒のパンツ。前見た時と同じ衣装で優雅に歩いてくる。

瞬間、花織は息を止める。掛ける言葉なんて出てこない。三日前と同じく彼女の姿に目を奪われるだけだった。

 ゆったりと歩いてきた彼女は、躊躇いもせず花織の前の席に腰かける。彼女は眉をひそめて、少しだけ困ったような顔をしていた。


「怖い目にあったのにまた来るなんてね。何か忘れ物でもしたの?」


 花織は真っ白な頭で言葉を連ねた。


「……お礼もまだ言ってなかったから」


 彼女は目を丸くして、そのあとで声を上げて笑った。

その笑顔はまるで太陽みたいで。でも燦々と昇る太陽ではなく、古代オリエンタルな太陽だ――なんて花織は内心で勝手に浸る。


 見とれる花織を置き去りに、彼女は話す。


「お礼も何も。あれがアタシの仕事だもの。つまりは用心棒稼業がってことがね。にしたってアンタも変わってるねー、わざわざそんなことの為にまたおっかない思いまでしてさー」


 彼女は呆れた、というように言葉を吐いたが、虹彩異色症オッドアイの双眸は柔らかかった。


「ワタシはこの界隈じゃEで通ってる」


 彼女は右手を差し出した。花織はその手を握り返して、


「私は眞野花織。狭い業界では流川るかわマコトで通ってる」


 Eは良く通る声で笑いながら、


「コードネーム持ちかー。ワタシと同じで訳ありなんだろね」


 それでも結局、彼女が本名を教えてくれることはなかった。そして結局大した話をすることもなかった。


「じゃあ楽しんでってねー」


 間もなくして、Eは雑踏の波に消えていく。


 それでも良かった。それだけで良かった。彼女と過ごせたこと。長い、短いじゃなく、その一分が、一秒が大切な時間だった。


 そして、それから花織は何度もブラック・バカラに通った。

 彼女と過ごせる時間はやはり大した時間ではなかったが、逢う度に重ねる言葉は増えていく。そのほとんどが身の無い世間話や下らない戯言であったとしても、その距離は確実に近づいていった。


 つもりだった。

 

 距離が一瞬どころか、永遠に離れたように感じたのは何度目かのクラブで。

 その日、Eの隣には男がいた。長髪をオールバック風に流して、顔に深く刻まれた皺は確かに中年のもの。でも仕草はしなやかで、その身体は引き締まって見えた。身に着けているのは白のワイシャツとスラックス。シンプルな装いに、だけどそれは花織にも分かる上等な代物だった。

 スラリとしたEは少し見上げるようにして話しかけている。その瞳には慈しむような、そして花織には向けない優しい色が灯っていた。

 自分の知らないEの表情。花織はただその光景を見つめることしかできない。


「カオリ、今日も来てたのね」

 

 男が去って、Eはようやく花織に気がつく。そして微笑んだ。


「まあね」


 だが、その笑みは先刻までのものとは違う。知っている花織は、あてつけのようにぞんざいに返す。そんなことでEが動じないこともまた知っているくせに。

 少しの間の沈黙。それは花織が招いた結果。下らなくて情けない、矮小な自分の――嫉妬。

 そしてEがやはり動じることはない。でも花織も動けない。招いた結果を覆す言葉なんて分からない。


 Eはただ微笑んでいた。でもその笑みはどこか悲しげに見えた。

 Eは言った。


「ねえ、カオリ。一緒に暮らそっか」


 何事もないように。当たり前のように。


「嫌じゃなきゃ、だけどさ」


 花織は目を丸くして、あの日のように笑うオリエントな太陽を見ていた。

 少し考えれば分かることだった。男と何かあったのだ――と。それはおそらく彼女にとっての気晴らしみたいなものに過ぎないのだ、と。


 だけど。


「いいよ」


 花織は何事もなかったように、当たり前だったみたいに、返事していた。

 それで良かった。

 それだけで良かった。

 それだけで良かったのに――。


「やっぱり不公平だよね――」


 彼女が言ったのはある日のベッドの中で。

 ブランケット一枚だけで、指を絡ませる。花織の無機質な部屋に、彼女の甘いフレーバー。鼻孔をくすぐる洋梨の香り。シーツ越しに伝わる彼女の温度。彼女の指が離れる。束の間、温度が下がった気がした。

 ベッドから出た彼女は生まれたままの姿でそこに立つ。美しい白い肌に、無数に刻まれた細かい傷。すべてを隠すことも戸惑うこともせず、彼女はただそこに立っている。傷ですらが彼女にとっては勲章にすぎない。そのすべてを含めて彼女は気高く、まるで芸術品のようだった。

 異なる色をした双眸が、花織の瞳を真っ直ぐに見ていた。


「アタシの名前は、ルサっていうんだ」


 露わにしたのは肉体だけでないという証明のように、彼女はそう告げた。


「まあ表記は適当に変えているし、パスポート上、国別に用立てる苗字なんてなおさらあってないようなものだけどね。ちょっと前まではルサ・パガニガンだったけど、ここ最近は、瑠璃色の瑠に糸へんに少ないで――瑠紗だよ」


 例え嘘だったとしても。

 それが嬉しかった。

 それだけで嬉しかった。


「Eって全然関係ないんだ。イニシャルかと思ってた」


 花織は強がって、喜びをおくびにも出さずに訊いた。


「それはコードネームって言ったじゃない。Eはエスクリマの、E。アーニスとかカリとも呼ばれるフィリピンの格闘術だよ」


「それって私を助けてくれた時に使ったヤツ?」


「アタシらの前身は正統格闘術に拘った用心棒稼業。それぞれの専門格闘術の頭文字がまんまコードネームになるっていう芸のない感じ。一人にひとつの名前はさ、創設者による質の向上の意味合いが強くてね。例えばカラテのKがキックボクシングのKに負けたら取って代わられちゃうってワケ。まあ頭にEの付く格闘技も限られてるから、アタシはそもそもそんな剥奪戦受けたこともないけど。ま、そうは言ってもイニシャルAから始まる五番目までは文句なしの強さだけどね」


 アタシって実は強いんだぜ、そう言ってEは――瑠紗は――悪戯っぽく笑った。

 見つめる花織の唇も自然と緩む。

 暴力とは無縁そうな長い指。スラリとして細い躰。二種の宝石みたいな双眸と、猫のように少し意地悪な口元。発せられる甘いフレーバーと混じるフェロモン。そのすべてを、花織は手放さずに済むよう願った。

 彼女はずっと探し求めていた私の半身だ――そんな思いが頭を埋めつくす。だから必死に微笑んだ。涙が流れてしまわないように。強がって。そんな自分に気付かれないように。

 ほんの少し瑠紗の焦点が揺れる。

 花織は内心を見透かされたんじゃないかとドキリとする。


「ほんと、それだけの集団だったはずなのにね。そうじゃなきゃバンキッシュなんてただの破滅主義者の寄せ集めに過ぎないのに」


 誰ともなしに独りごつのも束の間、我に返った瑠紗は花織へと微笑み直したあとで、軽く口づけした。


 そして花織と瑠紗は幾度もの夜を越えていく。体と心を重ねていく。

 やがて当たり前のように、花織のペンネームも流川から瑠花和へと変わる。『アネモネ』『群青色』『二つの塔』に代表される三大モチーフからの卒業。それは解放を意味していた。足りなさを補完するために築いた象徴は、同時に自身を縛る呪いだった。

 世界は新たに構築されていく。失った半身を得た花織は大海へ漕ぎ出す準備を始める――これからは真に自身の描きたいものだけを描くことになるだろう。迷いはすでになかった。

 新鮮な現実に、だけど変わらぬ毎日。二人だけの時間。それは幸せな日々。ずっと続くと思っていた。でも陰りは一瞬にして差し込む。


 二人は運命の日を迎えた。


 その日の夜、瑠紗は帰らなかった。

 だから花織は先にベッドに入った。彼女がいつまで待っても帰らなかった時点で理解していた。何かあったのだと。それはきっと良くないことだと。だが同時に確信もしていた。彼女が必ず帰ってくるとも。

 だから彼女ほど体力に自信のない花織は先に休んで彼女を待つことにした。彼女の言葉を受けとめる為に。

 その夜見た夢は、おそらく人生で最後になるだろう幸福な夢だった。

 

 甘いフレーバーが鼻孔をくすぐる。花織が目を覚ました時、カーテン越しに空は明け白んでいた。


「ゴメン、起こしちゃった?」


 彼女はソファにもたれたままで言った。別段悪気もなく。それはきっと彼女も理解していたから。私の覚悟を。

 だから――


「カオリ、アタシにはやらなきゃならないことが出来た」


 彼女は頑なな瞳で、単刀直入に告げた。

 対する花織は、自分でも驚くほど自然に訊いた。


「それって、あの男の人に関係すること?」


 瑠紗が少し驚いた顔をする。彼女のそんな表情を見るのは初めてだった。


「ほら、いつだったか、クラブに来てた髪の長いオジサンのことでしょ」


 必然と呼んだら笑われるかもしれない。でも合わせ鏡のように、彼女もまた花織を理解していると知っていた。だから尋ねた言葉に嫉妬なんて染みすらなくて、それよりも普段見られない彼女の驚きの表情に慈しみすら感じられて。何気のない、普段通りの会話のように言葉が連なる。


「知ってたんだね、カオリ」


 ふふと笑って瑠紗の表情が和らぐ。

 もちろん知っていた。その人は、自分以外で唯一彼女が人間らしい、素の表情を向けた人だったから。


「その人はね『A』って呼ばれてる。つまりはアタシたちの、バンキッシュの師傅マスター。組織の始まりにして頂点テッペン。そしてアタシを救ってくれた恩人」


 花織はベッドから降りると、瑠紗の隣に腰かける。彼女が差し出した電子煙草を咥えて気化された水蒸気を吐き出す。空気と混じり合う白煙を二人で眺めながら、彼女は続けた。


「彼は、ゴミ溜めのような環境からアタシを拾って育ててくれた親代わりみたいなもんで、だからアタシは彼の役に立てるよう努力してきた。惨めたらしい話かもしれないけど、捨てられないように。あのゴミ溜めに戻されないように」


 花織は瑠紗の顔を見るでもなく言った。


「瑠紗はその人を裏切るんだね」


 断定的に。

 彼女が頷くのが空気で分かった。


「アタシの世界はゴミ溜めか彼の傍にしかなかった。仕事は仕事、どんな汚くて野蛮なことであっても彼の為なら手を汚すなんてのは些細なことだった……カオリ、バンキッシュはね、ただの用心棒稼業以外にも数人のチームごとに役割を持ってるんだ。アタシの役割は機密情報部なんて名ばかりの別動隊、他のメンバーにもその詳細は知らされていない。アタシは部隊名ユニットネーム・『ヌエ』と呼ばれる強奪や殺人もいとわない裏稼業の実行犯のひとり、つまりはバンキッシュという最低の集団の中にあって最悪の汚れ仕事……」


 瑠紗が言葉を詰まらせる。

 花織は瑠紗の左手を握った。彼女は震えていた。だからその顔を見ずに、ただ力強くその手を握り続ける。

 瑠紗が花織の手を握り返す。力強く。そして続けた。


「……だけど、彼はその最悪の仕事に、害悪とも呼べる連中を引き込んだ。そして世界を終わらせようとしてる。災厄を量産するために『剃刀アフェイタドーラ』を呼び寄せた。彼は終末時計のスイッチを押してしまった。もう時間はない。その計画の一端に組み込まれたアタシにすれば、最低で最悪なアタシにすれば、それはきっとお似合いの役割なのかもしれない」


 瑠紗が首を傾ける。自然と花織も彼女に顔を向ける。

 虹彩異色症オッドアイ――端に滲む涙。

 震える声――でもはっきりと。


「だけど、そんなアタシのくせに欲をもってしまったんだ。アタシは、アタシとカオリがいるこの世界を終わらせたくない」


 花織は瑠紗を見つめる。滲む世界。知らぬ間に両の瞳から涙が零れ落ちる。それでもブルー単褐色ヘーゼルの双眸は輝いて映る。あやふやな視界にあっても自身を導くともしびみたいに。


 彼女が私を抱きしめた。力強く。

 私は彼女を抱きしめた。力強く、力強く。

 互いに。力強く、力強く、力強く。


 昨夜から、ひょっとしたら彼女と出会った時から、かもしれない。それからの言葉なんて、運命なんて、聞くまでもなく理解わかっていた。

 そして瑠紗は花織の顔を見るでもなく告げた。


「アタシはAを殺さなきゃならない」

 

 断定的に。

 どれくらいの抱擁が続いていたのかなんて分からない。燦々と降り注ぐ陽光がカーテンの隙間から差し込むころ、どちらからともなく身体を離す。

 旅立ちのとき、瑠紗が花織にそっと握らせたのは、ささやかな――そして最後の――贈り物。


「私、待ってるから。瑠紗が帰る頃には私も新しい私になって、そしたら新しい二人で旅に出よう」


 支配された名前。

 束縛された身体。

 お別れの時間。

 おやすみなさい、E。

 さようなら、流川マコト。

 新しい生命。

 新天地。

 祝福を。

 おはよう、瑠紗。

 こんにちは、瑠花和マコト。

 行けるはずだ。

 私たちなら、どこへでも。どこまででも。

 

 もうそれ以上彼女に掛ける言葉なんて見つからなかった。

 その背中を目で追う必要なんてない。

 去り際、瑠紗の唇が花織の唇をそっと塞ぐ。

 最後に交わした口づけは、やはり甘い香りがした。


 それはとても幸せな匂いだった。

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