第十四話 眞野花織――ヴォジャノーイ 1
私は、私の半身を探していた。欠けてしまった心と体がひとつになったとき、私は大海へと漕ぎ出せる――そう本気で信じていた。
彼女となら、きっと。
最後に交わした口づけは、甘い香りがした。
それはとても幸せな匂いだった。
≒
曖昧模糊とした意識を覚醒させる。コンマ数秒といった現実からの
車窓を一瞥。武装列車は今日も走り続ける。とはいえ、窓には鉄製の格子が二重に設置されているから、場所や時間の判別など出来やしないけれど。
一時的に物資を運ぶ短距離用が点在するだけで、基本的に東京メトロは廃線となって久しい。山手線を外回りに延々と回りつづけるこの路線は、ひとえにこの完全防護の施された武装列車専用。カードもアプリも信用性を失った昨今、高額な切符は入手困難。
インクの乾き具合を見て、パソコンを立ち上げた。自宅から持ってきたノートパソコンには必要なソフトが詰め込んであった。一人でも校了までこぎつけられる予定だった。やる気さえあれば、の話であったとしても。
案の定、気乗りはしない。背伸びしながらゲーミングチェアを降りる。設定温度より肌寒く感じられた室内に、ゆったりとしたグレーのロングシャツを重ね着た。パソコンでの作業がメインじゃなかった新人時代には考えられないコーディネートだった。
隔絶された白い壁の上部には現在地が示されている。ちょうど東京駅を通り過ぎたところだった。列車はこの後、品川、渋谷、新宿、池袋、上野を経由し東京へと戻る。日に数度、上野と品川で物資の補給とメンテナンスに停車する以外、列車は基本的に走り続けていた。
停車の機会が、唯一乗車の機会でもある。とはいえここ最近新たな搭乗者の話は聞いていない。抗ウィルス剤が散布され、ワクチン接種も始まったとなれば尚更だろう。間もなく武装列車はその役目を終えることとなる。
分厚いスチール製の自動ドアの脇で、ボタンが緑色に光っていた。ボタンを押すと音もたてずに壁に張り付いたガラスカバーが開く。
中は正方形の空洞になっていて、新聞と保冷バッグが入っていた。バッグの中には牛乳と野菜、そして豚肉の塊が入っている。
ベッドサイドに据え置かれた既製のデジタル時計に目をやると、時刻は十三時五十分を示していた。どうやら新聞は今朝の朝刊ということになるらしい。
部屋に備え付けの冷蔵庫に食材の入ったバッグをしまいながら、コーヒーの紙袋を取り出す。脇に抱えていた新聞をデスクの上に放り投げて、コーヒー豆を二カップ、ミルに入れて惹いていく。
ポットで沸かしてあるお湯は硬度が高めのミネラルウォーター。ここでは望めば大概のものが手に入る。マグリットの
おまけに現世から切り離された走る城塞には、各客室に簡易のキッチンの他、パニックルームまで完備というVIP待遇。パニックルームには、外気を遮断し、微小塵埃や菌を完全に除去する高性能空気清浄装置までついている。引き籠るならばまさに
パソコンとて大容量で操作性の良い機種を手に入れることだって可能だ。だが、思い入れのある物を手放すのが惜しい気がして、結局自宅から持ってきたノートタイプを使い続けていた。今回の騒ぎで手元に残った物は少ない。だからこそ、それらが身近に在って欲しかった。おかしな話だが、妄執と呼べるようなものなのかもしれない。だとして常軌を逸した世の中だ。きっと些細で、そして許される範囲の狂気だろう。
淹れたての香りが広がる。彼女の好きだった酸味が効いたグアテマラ産のコーヒーの香りが。
朝刊に目を通す。床に広げっぱなしにしたままの大型旅行カバン、無駄に場所を取る3Lサイズのその脇で、ここ一ヶ月分の新聞が山のように積み重なっていた。
新聞の一面記事は、
『本国全土への抗ウィルス剤の散布終了する』
『試験初期段階で散布の行われた地方で、慰霊祭の準備着々と進む』
平和な時期には暗いニュースが、暗澹たる時代には明るい話題が望ましい。
一新聞社の思惑は別としても、適度に
一面の下に小さな顔写真が載っていた。数年前に撮られたと記されるその男は――
新聞では指名手配中の犯罪者程度の記事だったが、男が実際したことは既に皆の知るところだった。閃臥は
SNSが普及した昨今、閃臥獣蔵の情報は調べれば真贋問わず無数に出てくる。いわく、とある集落で畜産業を営んでいたらしい、とか。いわく、その傍ら狩猟家としても活動しジビエ料理を振る舞っていたらしい、とか。いわく、抗ウィルス剤の副反応でゾンビだった頃の
日本橋に居を置く製薬会社、抗ウィルス剤を完成させたテートソーマと、抗ウィルス剤の副反応について追及する有識者側との論戦は徐々にヒートアップの兆しを見せている。直接対決の日も近いかもしれない。
なにはともあれ、尾ひれが付こうが付くまいが良からぬ噂しかない閃臥獣蔵のような異常者がこの国を徘徊していることは望ましくないことだ。障害でしかない。つまりは『明るい話題』の前では、という意味において。
世の中は着実に改善に向かっている。だとして自分たちの知る世界は確実に失われた。それでもなお、失われた世界で情報は発信され続ける。武装列車に、要塞化した高層ビルディング。シェルターや、肉体保存式のセーフカプセルだとか。グラウンドゼロから運よく程よく離れた場所で。
避難者たちは、まるで悪あがきのように情報を更新し続けている。何も変わらぬように。予定調和のように。それは人が築き上げてきた文明の保護、と呼べばこそ聞こえは良いが、それすらただの延命措置に過ぎない気がする。要は悪あがき。他にするべきことのない大衆にすれば、上書きし続けることでしか人類の存在証明ができないのだ。
かくして私と『E』が生きた世界は失われた。だがそれ自体に悲しみはなかった。
肩まで伸びた黒髪を軽くシュシュでまとめる。そしてガラス製のアトマイザーに残るリキッドを確かめて電子煙草に口をつけた。LEDのライトが青く発光する。リキッドが熱せられ、水蒸気と化した煙をゆっくりと吐きだす。広がるのは甘い洋梨の香り。それもEの好きなフレーバーだった。
私に訪れた人生の転機。その中でもEとの出会いは特別で、運命的。そして何より必然だった。
あの日のことは鮮明に覚えている。場所は新宿のクラブ――ブラック・バカラ。
そもそもそういった場所は苦手だし、一度も行ったことはなかったが、
『今日は僕とマコさんにとっての特別な日だから』
そんな彼の強い押しを断れず、不承不承その言葉に従った。とはいえ、角のテーブルまで同伴して間もなく、そのチャラい風体の編集もどこかに行ってしまったのだが。
屋内はダンスミュージックが響いている。本来ひと気のない静かなところで、のんびり読書でもしていた方が好きだった。だが、一応のお付き合い。そして社交辞令。彼のことをないがしろにするわけにもいくまい――今の自分があるのは彼のおかげでもあるのだから。
自分にすれば物語の核とそれを中心とした人間の愛憎やすれ違いが交差した心象風景を描ければ、性や人種に関してそこまでこだわりはない。それでも彼のアドバイスを聞いて主役級の二人を男性同士としたBL寄りの作風が受けてブレイクした訳だし、それがあったからこそ長く作品を生み出し続けることを社会に許されたとも呼べるはずだ。
そして今回、漫画界では栄えある『藤岡フジコ賞』の受賞まで果たせた。商業的な側面に興味がないといえば嘘になる。となれば、共同体という表面上分かりやすい形での漫画家と編集のスタンスを演じる義務も必要だろう。
私の名前は、
≒
フジコ賞の打ち上げ、という聞こえの良い口実のもと、ダンスフロアの人波に消えてはや三十分、ちらとも編集の姿は見当たらない。だからお酒が強いというわけでもない花織は、角のテーブルで一人カシスオレンジを舐めていた。
本当は早く帰って読みかけの本の続きにありつきたかったが、編集いわく『社会勉強』の切り上げ方もタイミングも経験不足の花織には分からなかった。
お祭り騒ぎのような店内では、恋人同士、友人たち、見ず知らぬの客たちですらが繋がっていた。この場所で孤独に過ごす人間など、花織の他には――ただの一人だけだった。
それは若い女性で、テーブルには空になったショートグラスが四つ並んでいる。時々思い出したようにしては、誰もいない宙に向けて管を巻く。大分アルコールも入っているようだ。
「がんばったよ、私。がんばってるよ、私。ローカルのお天気キャスター干されたけど腐らずに、一生懸命勉強して今の会社にはいったんじゃない」
一人酒。そのうえ泣き上戸らしい。嗚咽交じりにしゃべっていたかと思うや、
「なのに広報の仕事なんて全然ないじゃないっ!」
ついには声を上げて泣き出してしまった。その後もひとり愚痴を重ねていたが、どんどん呂律は怪しくなり、聞き取る事もできなくなっていく。
と、ふいに彼女のスマホが着信を報せた。
「られよ、こんな時間にぃ」
液晶画面を見るや彼女は目の色を変えた。慌てて女はスマホに向かって応じる。
「す、すいません。も、もう一度私にチャンスをください!」
彼女は通話の相手に必死に弁明しているようだったが、酔いのせいか意味も脈絡もどんどん不明と化していく。
「次こそはっ、次こそは奴らを倒してみせます!」
瞬間、通話が途切れたらしい。彼女が何と戦っているのか花織には分からなかったが、勢いで言った彼女にしてもおそらく分かってはいなかったろう。
遠い目をして彼女は言った。
「この戦いが終わったら結婚するのもいいかもしれない……えっ? 相手ですか? いないですけど」
もはや幻覚とでも話し始めたかのように視線の先には誰もいない。酔いに任せて死亡フラグめいた台詞を乱発した彼女は、それでも「スティンガーおかわり」と五杯目を注文する。
そんな彼女の頭部へと吹き抜けになった二階席から液体が零れ落ちた。頭上へと見上げた女の額から頬を伝っていく緑色の液体。
額を拭いながら、
「ん、何よこれ……」
唇へと流れたそれをひと舐めしたあとで叫んだ。
「青汁のカクテルなんて頼んだの誰よ!」
客と口論を始めた彼女から視線を離し、花織はカシスオレンジを舐める。
笑顔が飛び交う集いの場に、編集が見立てたダルブルーのドレス。煌びやかな空間と装いに、自分だけが借り物のよう。無意味に消費される時間に心が磨耗していく。だから花織はまるで店内のオブジェにでもなった気分で、カシスオレンジを舐め続ける。
ただの置物と化しているというに、目ざとく花織を見つけた酔っぱらいが絡んできたのは間もなくしてのことだった。
「地味系っての? 頑張って着飾ってみたところで芋っぽさの抜けない女ってのも結構好きだぜ、俺」
花織はテーブルを見下ろしながら溜息を吐いた。輪になった水滴の数をなんとなく数える。それでもテーブルに片手をついた男の腕、視界の端に映ったそれが筋肉質でごつごつしたものであるのは見て取れた。
「おい、この俺がせっかく声かけてやってんだぞ? なんか反応しろっての」
当然、言葉を返すなんてつもりもなかった。
「聞いてんのか? こら」
徐々に男の声は大きくなっていく。
場内はらんちき騒ぎに大忙しだ。編集が戻って来る気配もない。そもそもこんな状況なぞ、花織は想定していなかった。花織の漫画に筋肉質で無粋な酔っぱらいが出てくることはない。対処の仕方も経験もないからこその社会勉強なのかもしれない。だが、引率の先生はここにいない。
喧噪の中、誰も花織のことになんて気づかない。花織は僅かな期待を込めて、フラグを立てまくっていた女に視線を送った。だが当の彼女といえば、
「眠いんだ。少し……眠らせて」
やはり死亡フラグを立てるだけ立てて眠りの底に落ちていった。
「なんか言えっつってんだよ!」
男の声はダンスミュージックに負けない程の大音量になる。そして花織のカクテルグラスが床に叩き割られる。
「お客様、申し訳ございませんが――」
間に入る店員の声が聞こえた。花織はその声に向けて視線を上げた。
だが見上げた先では、バーテン姿の青年が胸倉を掴まれて宙に浮いていた。
「なんか言ったか? 俺がなんか言えっつったのはテメェだったか?」
男の腕は花織がチラ見して想像していた二倍の太さはある。
「も、申し訳ありません」蚊の鳴くような声を発したバーテンはさっさと逃げ帰っていった。
「やっとコッチ見たな、お姉さんよぉ」
こんなことならずっと水滴の数を数えていた方がマシだった。助け舟など来なくてよかった。太い首の上に乗った金色短髪の四角い頭、珍しい毛色のゴリラみたいな顔が醜く歪んでいた。
花織の顔の間近へと、ずいと金髪ゴリラの顔が近づく。酔いを怒りでシェイクしたみたいに真っ赤な顔が。
「芋が寂しそうにしてたから、人がせっかく声かけてやったわけだよな。で、お前は人の好意を踏みにじっておいてどう責任取るつもりだ、あ?」
酒臭い息が花織の顔にかかった。不快さは徐々に怒りへと変化しつつあった。ゴリラゆえ人語を解せないとはいえ、それでもやはり花織には意味が分からない。『責任』の意味が。
「……責任、だと」
花織は単語を呟く。それは徐々に憎悪へと変わる。言葉の意味も理解していないようなケダモノに責任の意味をとやかく問われる筋はない、と。そっと割れたカクテルグラス、その破片を右手に忍ばせる。
だが、花織の言葉は大音量の音楽に掻き消されたらしい。ゴリラには花織が恐怖で戦慄いたようにしか映らなかったのだろう。
「勘弁しろよ。これじゃまるで俺がイジメてるみてぇだろ。いいからよ、責任の取り方から何から俺が教えてやるからよ。一から仕込んでやるからよ」
醜悪な笑みを浮かべたまま、花織の髪の毛に優しく触れる。
その瞬間、頭皮にぬめりとした触感を覚えた。忌まわしさが、屈辱が、頭の先から全身へと広がっていく。
(ケダモノは私の尊厳を踏みにじった――)激しい怒りに、ガラス片を固く握った右手から血が滲む。痛みは熱さに上書きされていく。
「お客様、申し訳ございませんが――」
衝動に駆られるその間際、再び間に入る声が聞こえた。でもそれは先とは別の――女の声だった。
瞳を向けた先で、その人は立っていた。花織の視線はその女性に釘付けになる。
男に及ばないとしても、すらりとした長身。白いブラウスシャツと黒いパンツ姿で、肩にわざとらしくバーテンが着けていたベストを引っ掛けている。小首を傾けると長い
「今度はなんだ? お前が俺と遊びてぇのか? だがこっちの姉ちゃんのが先だ。怪我したくなけりゃ引っ込んでな!」
男の声が再び怒気を孕んでいく。
殺気めいた言葉を避けも払いもしなかった。彼女は瞳を三日月にして薄く笑う。その瞳は――右の
「お客様、申し訳ございませんが。お客様ではトーテイ無理でしょう」
美しいと思った。恐怖も、怒りも、悔しさも過去の出来事だった。
イメージ重視の演出に過ぎない栗色に染めた髪や、慣れないコンタクトレンズ。そして編集の見立てたドレス。すべてが
「ブチ殺す!」
類人猿の沸点が一瞬でピークに達する。太い右腕、だが反射的に構えて打ち出されたそれは素人目にも卓越した技術だと分かる。格闘技経験者特有の右ストレート、ただの怒りまかせなんかじゃない。
画的には『
そこからのことはほとんど理解できなかった。彼女が自分の右掌で弾いて、拳の軌道を逸らせたところまでは目で追えた。でも気付いた時には彼女は既に男の背中へと回り込んでいて、同時に左腕を両手で極めていた。その一連の動作に、彼女の肩に掛かったベストが落ちることもない。そして男が何か声を上げようとした瞬間にはその肩口に左足を添えて、許しを乞わせることすらせず男の左肩を外した。
鈍い音がして男がうずくまる。ゆっくりと回り込むと、女性は見下ろす。男が反射的に左肩を押さえた右腕を、両手で引き剥がした。
唾液まじりに男の怒声が響く。
「テメェ、こんなことしてただで済むと思ってんのか!」
彼女は右腕を持ち上げたままで、血管の浮き出る男の顔を見下ろしていた。
憤怒の形相を浮かべたままで、男の歪んだ唇からは気の狂ったような笑い声が漏れる。
「ひはっ、ひはははっ、テメェもテメェの家族も一人残らず見つけ出して地獄を見せてやる。死んだ方がマシだって思えるほどの生き地獄をなぁ。俺は、俺はなぁ、
彼女は薄笑いを消して、
「それならなおさら良かったわ、だってアタシは『バンキッシュ』だもの」
邪悪そうに笑った。
真っ赤だった男の顔が一転して青ざめていった。
それを目に留めることもなく、ただ彼女は掴んだ右腕に自身の足を絡めるや、躊躇いもなく全体重を後ろに預ける。再び響いた鈍い音はフロアの喧騒に掻き消された。
両肩を外されたゴリラが気絶するのを待っていたかのように、若い男がおずおずとやってくる。それは先のバーテンだった。
「ご苦労様です、Eさん。助かりました」
彼女は白シャツ姿のバーテンにベストを返しながら、
「苦しゅうない、苦しゅうないぞ。むしろリスト入りしてた
悪代官じみたセリフを吐きつつ、世直し隠居のようにカッカッカと笑う。
花織は彼女の表情、仕草、言葉、その全てに目を奪われていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。「あの……」ようやく我に返って言葉を紡ごうとした。しかし……。
「マコさん、ゴメンよぉ。一人にしてしまって。怖い思いをしたね。さあ、さっさとこんなとこ出よう」
まるで騒ぎが落ち着くのを見計らったかのように現れた編集に促され、花織は店の外へ連れ出される。追い立てられながら首だけ振り返った花織が最後に見たのは、人波に消えていく彼女の後ろ姿。そしてライティングを浴びる
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