第十三話 山吹虎徹――ニルヴァーナ 2


 広域指定暴力団、鶴代会かくよかい系、茨木組。五十年前から新宿に根を下ろす老舗組織。那狼会系でも生粋の武闘派組織として有名だ。

 土地の利権を狙う輩が乱立し、シノギ目的でのいざこざが止まないのは新宿の常だった。そんな折、茨木組の先代が対立組織に消されたのは今から十年以上前に遡る。


 先代の葬儀も終えぬ内にその対立組織へと単身乗り込んだのは、茨木吟仔いばらきぎんこがまだ十八歳の頃だった。

 表向きは手打ちを装い、父の仇の門前に立つ。同世代より頭ひとつ高い身長に、濃紺のブレザーを纏っていた。膝下まで届くスカートに、長い黒髪を三つ編みに結って、縁のある眼鏡をかける。胸に抱えるのは分厚い文庫本――ドストエフスキー著『罪と罰』――という入れ込みようで。

 一見、害もなさそうな文学少女の装い――擬態――で立つ吟仔に、ヤクザ者どもは完全に警戒を怠っていた。あっさりと組織のトップに面会を果たした吟仔は、挨拶することもなく隠していた長ドスでその男の首を刎ねた。


 和解が成立するはずだった会場は一転して血の海に染まった。


 泡を食った構成員の一人が日本刀ダンビラを振り回す。吟仔は切っ先を分厚い文庫本で受け止めると、高らかに嗤った。

 吟仔は奪い取った刀で次々とヤクザ者どもを切って捨てていった。なますのように。

 むろん吟仔とて無傷では済まない。ブレザーは裂かれ、シャツが破れる。肌は露わとなり、無数の傷から血が流れる。

 

 辺りは血の池地獄と化した。永続的に続く断末魔の叫び。だが、ただ一人吟仔だけがそこに立っていた。

 

 虫の息の男どもは見上げた。上半身半裸となった吟仔の姿は、文学少女の面影もない一流アスリートの如き強靭な体をしている。それは少女の容貌に、ぎっしりと中身の詰まった凶器だった。発達した筋肉。手足の節々は、こぶのように盛り上がっている。

 そして背中には千手観音の彫り物――無数の手に刃や銃、手榴弾といった殺傷武器を持った――が施されている。朱に染まるそれが死の間際の男たちには神々しく映った。

 千手のひとつが握ったものと同じく、吟仔が右手で力強く握った日本刀。その先端からはいまだ血が滴り落ちていた。名もなきその刀はやがて『鬼太鼓枹オンデコバチ』と呼ばれ、吟仔の右手と同じくして茨木組の象徴となる。


 対立組織の増援と茨木組の救援部隊が駆け付けたのはほぼ同時だった。そして双方が同時に息をのむ。

 無理矢理に気勢を上げて銃を構えた対立組織の構成員を、同じ組織の男が撃ち殺した。男はそのまま吟仔の前に歩み出ると、恭順の意思を示す。

 救援部隊の陣頭に立っていた男も同じく、深々と頭を下げた。先代の葬儀も終わっていない。だがこの瞬間に茨木組の継承者は決まった。

 その二人は今や吟仔の忠実な手足として茨木組の双璧を為す。茨木組の風神と雷神として。


 風間玲心かざまれいしん。対立組織から寝返ったのち、茨木組の頭脳としてシノギを仕切るインテリヤクザ。吟仔への忠誠の証として背に入れた墨は――風神。

 

 雷同鋼らいどうはがね。先代から仕える茨木組の精神を継承する生粋の武闘派。齢は既に五十近くも自他共に認める茨木組最強。吟仔への忠誠の証として背に入れた墨は――雷神。

 

 茨木吟仔は風神と雷神を従え、名実ともに茨木組のトップとして新宿に君臨する――歌舞鬼寵かぶきちょうの女王の通り名で。


 虎徹が茨木組の首脳陣たる吟仔、風間、雷同と初めて顔を合わせたのは、今から約三ヶ月程前に遡る。その日、虎徹は新宿にある茨木組の本部へと呼び出された。

 虎徹は出会った瞬間に直感した――自分はこの誰一人にも純粋な戦闘能力では適うまい、と。直感には違いない。だが確信的にそう思った。


 左側頭部に残るまだ新しい銃創を隠すでもなく頭髪をオールバックに撫でつけた風間が、薄い色の入った眼鏡の位置を直しながら口火を切る。


「姐さん。こいつが涅槃ニルヴァーナって呼ばれてる探偵です。物探しの腕にかけちゃ、裏社会じゃこいつの右に出る者はないって噂です」


 細身のスーツ姿ながら、刃のように鋭い殺気を放つ茨木組の風神。それに当てられながらも、虎徹はポーカーフェイスで訂正する。


「探偵、というよりは何でも屋みたいなもんですがね」


 ニヤニヤと口元を緩めながら眺める吟仔は和装姿。長い黒髪を夜会巻き風にアップにして、蓮の描かれた帯に髑髏が刺繍された黒地の着物に身を包んでいた。両脇に男二人を従え、重厚なプレジデントデスクに直接腰掛けている。

 睥睨へいげいするように虚徹を見下ろしながら、真っ赤なルージュのひかれた上唇を舐めた。搾取する者と搾取され続ける者、明確な序列を醸し出す空間の中でめかしく。そして卑猥に。顔はほんのりと桜色に染まっている。茨木組の象徴たる右手には、琥珀色の液体がなみなみと注がれた円筒型のグラスが握られていた。

 重ねた着物でごまかしているが、その内側に練りこまれた筋肉の塊が秘められているのは明白だった。噂によれば筋肉増強剤アナボリックステロイドと合成麻薬の混ぜ物で異常なまでの怪力を誇る筋肉を維持しているらしい。


 愉しげに見る吟仔の右隣にはひときわ大きな影、顔を紅潮させてがなるように言ったのは雷同だった。


「そんなもん、どっちでも良いわっ。とにかくこっちのを見つけ出せるってんならよぉ!」


 短髪に顔中に走る幾つもの傷。さながら赤鬼の如き風貌。こちらは隠すことなく、タンクトップ越しにはちきれんばかりの筋肉を露出させていた。


 吟仔は変わらぬ嘲笑のままで問う。


涅槃ねはんのにいさんは昨今の状況をどう考える?」


 答えなどなかった。虎徹には自分で考えるつもりなど毛頭ない。だから質問を重ねて返す。「昨今の状況とは?」


「今の新宿のことさね。チャイマは潰せど潰せど湧いて出やがるし、最近じゃ関東暴童なんて半グレどもが幅を利かせてやがる。裏じゃあバンキッシュとかいう無頼者がおイタをしているようだしね」


 チャイニーズマフィア・黒星玉ヘイシンチュウと茨木組の諍いはこの三年尽きることがなかった。そんな折、半グレ集団の連合体である関東暴童が好き勝手し始めたことで、二強時代は終了した。新宿におけるパワーバランスは確実に崩れた。虎徹もその程度の情報は知っていた。最近では、用心棒バウンサー気取りだった集団が身の程をわきまえずに裏社会で暗躍しているらしい、ということも。


「まあね、そいつはしようのないことだ。ここ新宿における常ってヤツさね」


 言いながらも、吟仔の笑いは止む。

 デスクに腰掛けたまま、吟仔は背後へと振り返った。壁には二枚の額縁――二重菱の真ん中に鶴の文字が記された鶴代会の代紋と、二本の角の間に茨の文字が記された茨城組の代紋――が飾られている。二枚の間には茨城組の任侠精神を表した『不退転』の掛け軸。その下には白鞘に収められた茨木組の象徴、鬼太鼓枹が飾られていた。眺める吟仔は懐かしむように話した。


茨木組ウチの先代を取った敵対組織をアタシが潰したって話くらい、あんたも聞いたことあるわね?」


 考えはしないが、虚徹は知っていることなら即座に肯定する。頷いた。


「以降も関西系の本店からは何度も代わりが送られてきたけどね。そのたんびに茨木組は返り討ちにしてやった。だのに連中ときたら性懲りもなくてね。で、いい加減あきらめてくれたら良かったのだけど……」


 一転して、虚徹へと視線を戻した吟仔の双眸に宿っていたのは怒りの色。瞳の周囲にはドス黒い血管が浮かび上がる。そして右手を握り締めた。ウィスキーグラスは粉々に砕け散った。


「連中、関東暴童と手を組むとぬかしやがった。任侠道の風上にも置けねぇクソどもだ」


 怒りに任せて虎徹を殺すとでも思ったのか、割って入ったのは風間だった。


「ガキどもに尻尾をふるクソどもは許せないが、まず何より関東暴童だ。クソガキどもは暴対法でこっちが身動き取れないのを知ってて好き勝手してやがる。だから何よりも先に排除すべきはクソガキどもの方だと茨木組は判断した」


 考えるまでもないことだった。殺し合いなぞ本職たちの領分だ。排除するならするで虎徹には出番はない。と、なれば虎徹が呼ばれた理由は明解だった。そうすることが出来ない不測の事態トラブルが発生したのだ。


 顔を紅潮させたままの赤鬼――雷同が続けた。


「今から三日前の話だ。ガキどもを殲滅させるべく、茨木組はロシアの武器商人、バーバ・ヤーガから多量の銃火器を買い付けた。連中は船を使うが、さすがに港での直接取引はリスクが高すぎる。だから取引は茨木組の所有するスクラップ工場で行うことになった」


「取引はなんの支障もなく無事に終わるはずだった」左側頭ひだりそくとうに触れながら風間が言った。銃創の疼きを確認するように。


「場所も日時も誰にも知られていないはずだった。しかし突如現れた黒づくめの集団に茨木組もバーバ・ヤーガも襲撃された。組織の別なく、工場にいたほとんどの人間が殺された。そして金も銃火器も持ち去られた」


 その声には苦々しさが付きまとう。おそらく茨木組側の陣頭指揮は風間が執っていたのだろう、ということはすぐに察しがついた。

 虎徹は風間に向けて言った。


「そいつを俺に見つけ出せと?」


 風間が言った。「銃を」

 雷同が言った。「金もだ」

 吟仔が言った。「どこのどいつがやったのか、盗人野郎ぬすっとやろうもだよ」


 誰ともなしに継いだ言葉、それが輪唱となって広がっていく。「皆殺しだ」「皆殺しだ」「皆殺しだ」「皆殺しだ」「皆殺しだ」「皆殺しだ」「皆殺しだ」「皆殺しだ」

 血走った眼で繰り返す。紛れもない三匹の悪鬼が。

 

 その時、虎徹が恐怖を感じたか否か? どうでも良い話だった。どうせ虎徹の記憶は曖昧で、抱いた感情など間もなくして忘れてしまうのだから。

 虎徹は茨木組の依頼を受けた。だがそれは感情によるものでも報酬に目が眩んたわけでもない。いくばくかの給料を得て、飯を食らい、眠る。それが人生というものだと虎徹は信じて疑いもしなかったから。諦観にも似た感情――もはや信仰と呼んでも差し支え無いかもしれない。


 虎徹は依頼を受けた。しかし、実際に虎徹が行動を起こすことはなかった。正確には起こしようがなかった。


 茨木組からの依頼を受けた翌日、東京でロメロ・ウィルスの集団感染パンデミックが発生した。関東中の人間が保身に明け暮れる最中、銃と金の捜索どころではなくなった。世紀末じみた世界になったとて、一般人もヤクザ者も我が身可愛さに変わりはない。事態が収束するまでの間、虎徹は食客しょっかくとして茨木組のアジトのひとつで厄介になった。

 茨木組から無償で提供される食事と酒。現実を理解してなお、考えることをしない男が昼から酒に溺れる生活は、きっちり三ヶ月続いた。不測の事態に、依頼を断るという選択肢もあったろう。だが流れに身を任せるのが虎徹の信条である以上、茨木組に貸しを作るという現実も既定路線でしかなかった。


 で、ある以上。感染騒動に一応の収束の目処がたった現状において、茨木組から仕事の催促が入るのもまた必然だった。

 吟仔から直電での招集を受け、虎徹は三ヶ月ぶりに茨木組の本部を訪れた。まだ日も高い頃合いだった。幽鬼のような――先日までそこかしこを徘徊していたゾンビのような――顔色をした若衆に案内され虎徹は奥の間へと通される。


『この男が『涅槃ニルヴァーナ』だよ』


 そう言って茨木吟仔が、虎徹を紹介したのは今から一時間程前の話だった。

 裏社会アンダーグラウンドでの通り名を、涅槃ニルヴァーナ――山吹虎徹は小さく会釈する。

 虎徹が会釈した先で、口ひげを蓄えた小太りな男が品定めでもするように、威厳たっぷりに話す。


初めましてオーチンプリヤートナ。ワタクシは、イイツオー・スヂバー。使者だ。君たち日本人ヤポンスキーには言いにくかろうから、卵男エッグマンとでも呼んでくれたまえ』


 間延びするイントネーションがどこかコミカルだった。 

 両の耳たぶにはコイン大に拡張されたラージホール。リング状のピアスに引っ張られるようにして下がる目じり。そんな眠たそうな眼は、やがて虎徹の顔をじっと見据える。まるで絵本から飛び出したハンプティ・ダンプティ。緊迫感もない容姿に、しかし疑いの眼差し。手にしたステッキで虎徹を指し示すと、


淑女ガスパジャー・吟仔。彼で良いのかね? 本当に彼が適任だと?』


 信用の欠片もないように卵男エッグマンは訊いた。

 吟仔は艶っぽい笑みを浮かべた。口元のホクロが、真っ赤なルージュのひかれた唇を際立たせる。めかしく上唇を舐めた後で、ゆっくりと告げた。


『もちろん問題ないわ。彼に任せればすべてが上手くいくから』


 二人のやり取りに、虎徹はすでに察しがついていた――これは茨木組とバーバ・ヤーガの取引の件だ、と。


 ロシアの死の商人――バーバ・ヤーガ


 バーバ・ヤーガと茨木組は敵対しているわけではない。吟仔としては便に済ませたいはずだ。

 バーバ・ヤーガには金を。茨木組には銃を。犯人を見つけ出せば、そのどちらかが始末をつけるだろう。依然、虎徹の仕事の内容は変わらない。


『まあ良いだろう。今回は淑女ガスパジャー・吟仔の顔を立てて君に任せてみよう。取りあえず今夜一晩は待つ。零時を過ぎるまでに何か一つでも捜査の進展が見られたなら、明日一日期限を延ばしてやろう。ただ何も見つけられなかった場合は、そこで君との契約は終了だ。その意味が分かるな?』


 卵男エッグマンは手にしたステッキを振りながら、大仰に告げた。

 静かに頷いたあとで、虎徹は吟仔を見る。

 吟仔が言った。


『頼んだよぉ、涅槃ねはんのにいさん……』

 


    □■



 虎徹が上半身を左に捻るや、今の今まで頭があった空間が打ち抜かれた。タイル壁の外装がおが屑ほどの脆さで弾け飛ぶ。巨躯の右拳はテナントの壁に深々とめり込んでいた。


『黒づくめの集団に茨木組もバーバ・ヤーガも襲撃された――』

 

 風間の言葉が頭をよぎる。それを振り払うように、虎徹は大きく上半身を仰け反らせる。

 全身黒づくめの巨躯、その上腕を覆った巨大な六角レンチを思わせる形状の籠手ガントレット。本来とは別の用途。衝撃を防ぐはずの防具に、破城槌の如し威力。

 反射的に虎徹の右手が籠手に触れる。その硬度と重量。虎徹の頭程度なら一撃で粉砕出来るだろう。瞬間的にそれを理解しての行動は逃走以外になかった。右奥のドア、事務所で唯一の脱出経路を一瞥する。


 分かっていた。正面から戦うことが無意味であることなど、分かりきっていた。最優先にすべきは成功確率の高い離脱方法の取捨選択。なのに虎徹は思考することが出来ない。耳元では歩の声がリフレインしている――『俺と一緒に行こうぜ』


 黒づくめが左の拳を打ち下ろすのと、あぐらの姿勢の虎徹が両手で床を弾いて飛ぶのは同時だった。

 そしてコンマ一秒、黒づくめが明らかに困惑するのを肌で感じる。その左拳は空を切っていた。

 虎徹は黒づくめの射程圏内から離脱する。滑るように飛んだ。出口とは逆側への逃走は、脱出への経路を迂遠するかたちとなる。それは歩が立っていた左斜め側への脱出だった。

 黒づくめの反応が一瞬遅れる。刺さった両腕が壁から抜かれるのと、立膝の姿勢で虎徹が構えるのは同時だった。革ジャンの裏から取り出したグロッグ、虎徹は七発連続で引き金を引く。ガードは間に合わない。黒づくめの胸元に全弾が命中した。

 うぐ、という呻き声。それは間違いなく男のもの。だがそれ以上を確かめる余裕なんてない。虎徹は全力疾走でドアまで駆けた。

 とどめを刺すべきだろ――いもしない相棒の声が聞こえた気がして、虎徹は声を張り上げる。


「っせえよ! 俺はなあ、お前とは違うんだよっ!」


 転がるようにして階段を駆け下りた。


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