第十二話 山吹虎徹――ニルヴァーナ 1


 赤と黒のランドセルが揺れていた。

 寂れた通り。正確には、往来も途絶え、寂れてしまった通り。そこを行くのは三つの影。

 数ヶ月前までは賑っていたアメ横商店街連合会、通称、上野アメ横。男は無邪気に揺れるふたつのランドセルを眺めながら歩く。

 視線の先で、黒いランドセルを背負った少年が舐めていたロリポップキャンディーを手渡す。赤いランドセルの少女はキャンディーを咥えてにこりと微笑んだ。お返しのように預けたウサギのぬいぐるみ、それを少年はぎゅっと抱きしめる。

 少年と少女は学校帰りのように楽しげ。軽い足取りはスキップ交じり。

 遠足の引率じみた気だるいムードから一転、緊張が走る。人の姿など期待もしていなかった通り、その横道から現れた影と鉢合わせしたからだった。

 男は――山吹虎徹やまぶきこてつは――チラと視線を走らせる。色違いのランドセルを背負った少年と少女は気づいた風でもなく、楽しげな足取りのまま通りの奥へと進んでいく。一瞬だけ躊躇した後で、結局二人に声をかけることなく虎徹は三人組と対峙する。


 黒スーツで揃えた三人組。葬儀帰りを連想させるも、安全保有率五割の東京では時期尚早のはずだった。三人ともにサングラスで身を固めるさまはメン・イン・ブラックのようでもあった。サングラス越しにも気まずそうな雰囲気を察することは出来たが、中央の人物は空気も読まずに虎徹へと絡んできた。


「アンタさあ、ニュースとか見てないの? ワクチン接種が完了するまでは屋外への外出は控えるように言ってたでしょ?」


 それは三人組の中で頭一つ小柄な女性で、何やら気が立っている。


「美雛さん、我々は一応隠密行動なんですから、あまりことを荒立てないようにしてください」


 とりなすように女の右隣に立つ男が言った。男二人はほとんど同じ体格と風貌ながら、その男は顎の傷を隠すように髭を生やしていた。

 忠告された女は気にも留めずに吐き捨てる。「っさいわね」

 美雛と呼ばれた女は、なんにでも噛みつきかねない狂犬病のチワワを連想させた。正直その女のことなどどうでも良かったが、左右に立つ二人の男に関してはそういうわけにはいかなかった。うっすらと顔に見え隠れする疲れの跡、双方ともに、自身と同じく中年期へと差し掛かる年代かと目算した。とはいえスーツで隠し切れない屈強な体つき。どちらもが短く刈り上げた頭をしている。立ち居振る舞いから、自衛隊か警察の元関係者であろうと男は当たりをつけた。注視せざるを得なくなる。虎徹の意識は自身の羽織った色の褪せた革ジャン、その内側に忍ばせた黒い塊へと向けられていく。緊張が高まっていく。

 と、美雛のジャケットの裏で通知音が響いた。スマホを取り出した美雛は頭を抱えて、地面に蹲った。


吉野よしのぉ? 根拠も無しに抗ウィルス剤の副反応被害を声高に叫ぶ低脳が増えてるっていうのはどういうことよ。閣僚を通じて馬鹿な風評を広げる自称専門家の馬鹿どもを黙らせるよう言っておいたわよねぇ、私ぃ」


「も、もちろん伝えてはありますが、政府も遷都法案についての審議で忙しいらしく……」


「専門家だ細菌学の権威だが聞いて呆れる。今の今までゾンビの影に怯えてSNSですら発信もしてこなかったくせに、身の安全が保障された途端に売名行為に走りやがって。いったい誰のおかげで――」


 手にしたスマホで再び通知音。クソが、と悪態をついた美雛。ハーフアップにした頭髪を掻き毟った。


染井そめいぃ? 自衛隊や警察はまだあのクソッたれ集団の『泥眼デイガン』を制圧できてないわけぇ?」


「自衛隊と警察の最優先課題は国民七割のワクチン接種です。とてもそちらに手を割く余裕は……」


「あったま痛くなってきた」言いながら懐からケースを取り出すと、中に入っていたカプセルを美雛は齧るようにして飲みこんだ。


閃賀センガのクソ野郎がっ、頭イカレんならイカレるで田舎に引っ込んで勝手にカニバってりゃいいものを、仲間増やして首都くんだりまで上ってきやがって。せっかくの苦労を台無しになんてさせねーからな。私はまだこれからなんだ。私はここからなんだ」


 呪詛の如くブツブツと吐き続ける美雛へと、居心地も悪そうに男二人が言った。


「「エゴサなんかするからですよぉ」」


 美雛は感情のままに爆発する。


「ッザけんな!! 抗ウィルス剤の副反応で人肉嗜食主義カニバリズムになんかなるかっつーの!! クソッタレの泥眼! キングオブクソの閃臥獣蔵せんがじゅうぞう!! それにたかる低脳インフルエンサーどもがっ!!」


 そしてぐったりと下を向いた。

 短髪の毛先をツンツンに立たせた吉野と呼ばれた男は心配そうに、「大丈夫ですか?」


「……大丈夫、ちょっと休めばすぐに元気になるから」


 顔も向けずに美雛は答えた。その後で、


「……先に行って。すぐに合流するから」


 五分刈りの頭髪から顎へと繋げたラウンド髭のコワモテ風。だとして染井は憐れな声を上げる。


「行けるわけないじゃないですかぁ、そんな死亡フラグみたいなこと言われて。それもダブルでぇ」


 しゃがみこんだままの美雛は変わらず頭髪を掻きむしり続けていた。慣れないベビーシッターのようにオロオロする屈強な男二人。混迷の中にある場で、虎徹は舌打ちする。混迷が混乱へと転じるのを肌で感じたからに他ならない。

「おい、お前見たことあるぞ」脇道からひょっこり現れた男はそう言った。新たな登場人物の登場で、場の空気は明らかに変わっていく。

 男の後ろから現れた別の男が軽蔑の視線を美雛に向ける。


「俺たちの翼を捥いだ汚らわしき悪魔、日本橋の製薬会社の手先。テレビでその罪状をまるで神の奇跡の如く吹聴する愚かな女」


 若い男だった。まだ二十代になったばかりといったところか。あどけなさが残っている。人生を謳歌していてもおかしくないはずの年頃、なのに目は虚ろで薄汚れたデニムにシャツというみすぼらしい姿だった。ぞろぞろと姿を現した男たちは合わせて五人。そのすべてが同じような格好をしている。そして五人がともに額に瞳の形をした刺青をいれ、揃いの手斧をぶら下げていた。

 サングラスで表情の読み取りにくい美雛。しかしその顔に憎悪の色が浮かぶのがありありと分かった。


六識深滔リクシキシントウ・泥眼――ゴミクズ野郎の閃臥に傾倒する邪教徒どもがっ!」


閃虚セロ様を愚弄するか、悪魔の分際で!」薄汚れた集団が口々に美雛をなじる。手斧を振り上げながら。

 集団の中、若い男が手斧を持たない左手を高々と挙げた。


「我は六識深滔・泥眼、第五深層ダイゴシンソウのブンラクなり。我が名において命ずる。信徒よ、忌まわしき者どもを閃虚様の供物とせよ」


 リーダー各と思わしき若い男の額には、他の信徒と同じくアーモンドの形に六重の輪で黒目を形成する瞳のタトゥー。それとは別にマジックで書いたと思われる瞳が四つ、タトゥーを囲むようにして配置してあった。

 ブンラクと名乗った若い男の命令に従い早々と集団は臨戦態勢を整えていく。

 美雛の前へと染井が歩み出る。


「美雛さん、下がってください」


 屈強な男二人の対応は早かった。ジャケットから取り出した拳銃の銃口はすでに集団へと向けられている。九ミリ拳銃。虎徹の予想通り、自衛隊御用達の代物だった。


「とりあえずコイツら黙らせます」


 吉野が言うと、美雛は頭を掻きむしりながら立ちあがる。


「第五って言ったら、そこそこ上のヤツよねぇ?」


 手短に吉野が答えた。


滔主とうしゅ・閃虚の前後左右の席を担う大幹部、教団内の階位ランクでいえば№2のはずです」


「ふぅん」呟いた美雛は、淡々と事務的な口調で告げた。


「何人かは生かしてキングオブクソ野郎の居場所を吐かせなさい。手段は問わないわ」


 一触即発の場にあって、虎徹の存在は薄れていた。逃げるなら今しかなかった。殺意の感じられなくなる領域まで、虎徹は気配を殺して離脱する。

 その背で発砲音が聞こえる頃、走り出した。先を行く少年と少女を追いかけた。距離を詰める為に走っただけで息が切れていた。年のせいは否めない。


「……何もかもがツイちゃいねえ。流れ流れに身を任せた結果がつまりはこの有り様ってワケか?」

 

 誰ともなしに呟くと、軽く咳がこみ上げる。

 信念などというものを持つこともなく男は生きてきた。処世術と呼べば聞こえは良いが、ルーティーンを繰り返すだけの生き方に過ぎない。

 視線の先では二色のランドセルが跳ねながら揺れている。世事程度に整えた顎ひげを掻いた。虎徹は二色のランドセルを終着駅でも見るように眺め続ける。


『子供が出来たわ、あなたの子よ――』


 今でも彼女・・の声が頭の中で聞こえるときがある。それもまるで昨日のことのように。


(俺の子供も生きているなら今頃はあれくらいの年頃に……)


 伸びざらした髪の、自分で切った前髪の先端が目に刺さって軽い痛みを覚える。

 革ジャンの右ポケットからスキットルを取り出すとウィスキーをひとくち含んだ。痺れるような熱さが喉の奥へと流れていく。記憶は曖昧でひどく混線しがちだった。抑える方法など虎徹は知らない。いつからか、アルコールの力でなおさらグチャグチャにしてしまった方がまだ楽だと気づいた。

 それでも一応の整理をつけようと頭を働かせる。

 虎徹には当てなどなかった。今回の揉め事・・・で一番得するのは誰か、を問うとほとんどの人間が口を揃えてチャイニーズマフィアの『黒星玉ヘイシンチュウ』と答えた。

 だから知り得る黒星玉のアジトである上野を訪れたに過ぎなかった。

 さすがに本部のある新宿はないだろう――というのはあくまで虎徹の直観だったが、仮に探し物が本部にあったとして、チャイニーズ・マフィアの巣窟に虎徹一人で乗り込んだところでどうにもなるまい。


「まあ、一人じゃないけどな」


 虎徹の視線の先には揺れる二色のランドセル。それを見つめながら、スキットル入りのウィスキーをもうひとくち口に含む。

 焼けるような喉越しを感じつつ、静まり返った街並みを振り返った。


「地方じゃ慰霊祭だなんだと復興アピールに大忙し。東京は死んだ。これから集団疎開が始まるのかもな。だとして俺はこんなとこで何をしてるってんだ?」


 何にも責任を持たず、流れに身を任せる。男はそれが当たり前だと思っていた。そうすることでいくばくかの給料を得て、飯を食らい、眠る。人生とはそういうものだと。

 だから男は与えられた仕事を今日もこなす。今日がいつかも分かってはいなかったが。

 記憶は曖昧だった。いつからそうだったのかも今は覚えてはいない。流れに身を任せる毎日には些細なことだった。それでも年月は確実に進んでいく。気づけば三十を過ぎていた。

 男は与えられた仕事をこなす。実際には受ける、受けないという選択ですらどうでも良い話だったが――ズラかって、見つかって、消されたとしてもそれはそれ――思ってはいても行動に移すことはない。

 自分で考えること――意思を持つこと――など最初から放棄した生き方しか男には出来ないから。

 すべては失ってから気づくもの。二度・・あったチャンスを棒に振ったあとで、男は自分が生まれ変われる機会を喪失したのだと理解した。 


「――ねえオッサン、オッサンてば」


 少年の声に虎徹は我に返る。

 啖呵売たんかうりで知られた店の軒先で、偏光サングラスのレンズが虹色に輝いていた。スポーツタイプのサングラスはお洒落のつもりかもしれないが、表情の読み取れなさも相まって少年の声は不愛想に聞こえた。


「ねえオッサン、イモートがなんか食べたいって言ってんだけどさ。適当につまんじゃっていい?」


 そういえば彼らのことを何ひとつ知らなかった、と今さらながらに虎徹は気づく。

 ショートとロングの違いはあっても共に美しい白金髪プラチナブロンド。瓜二つの容姿――まるで磁器人形ビスクドールのような双子。

 後頭部は刈り上げたショートカット。色とりどりの蛍光色をぶちまけたようなダボダボのジップアップパーカーに、ライン入りのスパッツ姿の――少年。

 ヘッドドレス越しに揺れるツインテール。パニエでふわりとフリルを広げたジャンパースカートの甘ロリスタイル。右目にハートの形をした眼帯をつけ、両目がボタンで出来たウサギのぬいぐるみを抱く――少女。

 通学用には程遠いいでたちに、むしろ黒と赤のランドセルが浮いて見える。

 国籍も、年端も不明な少年少女を愛玩動物よろしく手もとに置きたがる変態は裏社会には大勢いるし、真っ当な企業の令息や令嬢が社会勉強の一環として(もちろんエスコート付きだが)、こちらの世界を覗きにくることだってある。だから子連れでの仕事に面倒くささは覚えても、幼い双子の存在自体は別段不思議とも感じていなかった。

 根掘り葉掘り詮索するつもりもなかったが、唯一知りえたのは少年の方が年長であるということだけ。


 なのに――。


「むぅー、ワタシはタピオカがいーな、オトート」


 少女が言い、少年が口を尖らせる。


「今回はボクが兄設定って決めたじゃんかよ」


 虎徹は一人苦笑う。二人のやりとりに、本当のところなんてどうでも良くなって。

 虎徹はズボンのポケットから皺くちゃになった千円札を五枚取り出すと少年に手渡す――ことここに来ては、性別も怪しくなってきたショートカットの双子の片割れへと。


「やってる店があるとは思えないが面倒事は御免だ。好きに漁って構わないが金は適当に置いてこい」


 曖昧な記憶の侵食に囚われつつも、周囲の警戒は怠っていなかった。人の気配はなかったが、食べ物の類も残ってはいないだろう。先刻覗いたフルーツショップもガラスが割れ、空の盛りかごが散乱していた。惨憺たる店の状況を思い出し、虚徹は忘れず付け足す。「怪我しないよう、気をつけろよ」


 少女が左の瞳をぱちくりとさせた。


「オジサンはどうするの?」


「俺は野暮用を片付けてくる。その間、ここいらで時間を潰しててくれ」


 さすがにここから先は子供の出る幕じゃない。単独行動で行くべきだった。

 虎徹の答えに幼い少女が納得する。あとは欲求と好奇心に衝き動かされるだけだ。一足先に露店へと向かった少年の後を追って、少女も駆け出していく。

 本当にいるかどうかも知れない自分の子供と重ねるなんて――二人の背中で揺れるランドセルを眺めながら虎徹は一人呟く。


「何を勘違いしてたんだ、俺は。あの子らはそういうんじゃないって分かっていたくせに」

 

 そして路地裏を目指した。


 アメ横のメイン通りから一本外れた狭い路地。ひっそりと建つテナントビルの二階が黒星玉ヘイシンチュウのアジトのひとつになっている。茨城組からの情報だった。

 錆びた階段を虎徹は上り、ドアノブに触れる。ひんやりしたステンレスの感触。直近で人の出入りがないことを確認する。

 ポケットから取り出したピッキングツールでわけもなく開錠した。

 警戒しながら屋内へと侵入する。真新しさもないカタギの事務所のおもむき。一目見て、もぬけの殻であることが確認できた。

 屋内灯は切れていた。室内はぼんやりと薄暗い。窓からの陽光は遮られていた。さすがにチャイマのアジト、磨りガラスと防弾使用の二重窓らしい。

 さしたる不便さを感じることもなく、上役のものと思われるデスクへと辿り着く。そしていいかげんに物色した。プリペイド携帯。走り書きの乱雑な付箋の束。名刺入れ。吸殻で半分埋もれた灰皿。

 物色した品々を両脇に抱え、スペースの開けた場所へ移動する。床にそれらを並べると、壁を背にした。ちょうど事務所の中間、入り口は右手に位置している。


「さて、茶番の時間だな」


 虚徹は緩くあぐらをかいて、腿の上に両手を置く。そして目を閉じた。

 無意識のように動いた右手は、プリペイド携帯、付箋の束、名刺入れ。灰皿と次々に触れていく。

 流れに身を任せるように、他人事のように、ありのままを受け入れていく。瞳は閉じたままだった。

 だからそのとき聞こえた声も、また曖昧な記憶の成せるわざだった。


『まだそんなことやってんのか?』


 それは相棒の声だった。瞳を閉じているのに、その姿を知覚する。

 瞑想じみた行為。それは一種の儀式的なもので、ある種の座興だった。本当はしなくても良い作業だが、ただのごまかしで始めた行為は、いつのまにか虚徹の通り名として定着していた――涅槃ニルヴァーナ、と。

 虎徹の左斜めに相棒――七ヶ瀬歩なながせあゆむ――が立っていた。最後に見た若かりし姿のままで。

 相棒だけが知っていた。茶番の正体を。他でもない。それを唯一話したのは虎徹自身だった。歩は知っている。知っていればこそ、次に言うことも決まり切っている――もうそんなことやめちまえよ……


『……俺と一緒に行こうぜ』


 歩が言った。

 歩が虎徹に頼みごとをしたのはそれが最初で最後だった。変化という概念が最初から存在しえない虎徹はそれを当然のように断った。そして一度目のチャンスを失った。

 虚徹は相棒の姿を目で追う。瞳を開いて、自分自身の目で――つまりはそれが必然と呼べるものだったのかもしれない。

 虎徹が瞳を開けた瞬間、視界に捉えたのは歩の姿ではなかった。虎徹の眼前に巨躯が聳え立っていた。


(いつ入ってきた? まさか、最初からここにいたっていうのか?)


 長年、裏社会で生き残ってきた虎徹が気配を読めなかったなど、ましてやこれほどの巨体を今の今まで認識出来なかったなど、にわかには信じがたいことだった。 

 ライダースーツのように全身にぴったりと張り付いた衣装からは筋肉の隆起が浮き出ている。そして表情の計れないフルフェイスのヘルメット。そのすべてが漆黒に塗り潰されていた。

 巨躯は無造作に右拳を持ち上げる。奇怪な形をしていた。上腕を覆うのは巨大な六角レンチを思わせる形状の籠手ガントレット。それが虎徹の顔面目掛けて振り下ろされた。


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