第七話 XXXXX――ベルゼブブ 1
『さあ、レースも終盤だァ! 駆け抜けろプレイヤーたちよォ!』
館内放送が響き渡った。わざとらしいまでに大真面目な調子で。
三層ガレリア式の大型ショッピングモール。一階を見下ろす二階の円環状テラスから観客の声援が上がり続けている。テラスは身を乗り出す百以上の人々で埋め尽くされていた。
館内放送と声援に急かされ、全速力で駆けていく一階フロアの面々。そんな中、悪目立ちする一つの影が目に留まった。ブリーチを繰り返したホワイトアッシュに、うっすらバイオレットが混じるショートヘア。顔の下半分に巻いたシュマグ――イスラム圏の装身具――から覗く怒りの眼光。
『第七回スパルタン・Zの優勝チームがァ、もうすぐ決まるゥ!』
建物の中央、巨大モニターが印象的な吹き抜けのイベントスペース。パライソスクエアと名づけられたそこへ一目散に駆けていく人の群れ。ステンレス製のボウルを被った男や、盾代わりの中華鍋と包丁を手にする女――プレイヤーたち。出足が遅れたのは、着込んだスノーボードウェアにヘルメット、プロテクターを装着した青年。アイスホッケーのゴールテンダーじみた重装備は明らかに機動性を欠いている。
目指すのはパライソスクエアのさらに奥、西側フロアの端にあるエスカレーター――ゴールだ。
ゴールを目指す直線から、グリーンのアーミージャケットを羽織った男は――
ショーケースが割れたサービスカウンターを飛び越えたとき、白く濁った瞳と視線が一瞬重なる。着地した辺り一帯に広がるのは、散乱する洋酒の瓶の残骸と銘店の茶葉。その床を砕けた片膝で這いずる
だがケンは一瞥しただけ。腐乱状態から危険度の低さ――感染二ヶ月以上の熟成もの――を即座に判別する。
ケンがゾンビをスルーした瞬間、ショートヘアのタグリが――チームメイトの
「ミチルッ、テメーいい加減にしろよッ!」
カーボン製の小ぶりな黒色のバットを振りかぶったのは、棚が空になった冷食コーナー。
毛先まで綺麗なピンクプラチナのロングヘアーが振り返る。全身黒一色のタグリが死神の鎌ならぬ少年用の軟式バットを振り下ろすのを見ても、動じることもなかった。
タグリのバットは空を切る。まるで風に舞う
口元を覆っていた蛍光色も鮮やかなガスマスクを緩めながら、ミチルは話す。どこかアニメキャラを連想させる甘ったるい声。
「ああそうだった。思い出したよっ、タグリちゃん☆ いつか言わなきゃって思ってたんだよね。そのヴィヴィアンのピアス。あんた全然似合ってないからー。ヴィヴィアンが可哀そすぎるからーW」
タグリはかぶせ気味に返す。
「ッせぇ、性格ブス。テメー毎回毎回、レースそっちのけで無節操にプレイヤー狩りばっかしやがって。テメーはなんだ? 発情期のチンパンジーかなんかか!?」
薄紫の髪の毛、前髪のかかった瞳はグレーのシャドウと黒のアイラインで仕上げたハードなロックメイク風。そこにありありと浮かぶ憎悪。黒いシャツと同色のネクタイを緩めながら、軟式バットの先を向けるタグリ。
かたやふんわりとした袖の白いブラウスに、ショートパンツ姿といったミチル。羽のように広がるバルーンを重ねた袖と常に浮かぶ笑み――天使の佇まい。だとしてフィールドホッケーのスティックを肩に乗せながら口汚く、
「とっとと来れば? 顔面偏差値万年赤点のタグリちゃん♪」
「その足りねーノーミソ、満漢全席に並べてやっから。このメスチンパンジーがッ」オーバーリップしたローズレッドのグロスから吐かれる暴言。黒色カーボンを振り回しながら突っ込んでいくタグリ。耳元で衛星をモチーフにしたピアスが揺れる。だが二度、三度と空振りだけが繰り返されるだけ。
ミチルは水平に右へ左へと器用にかわす。両足のインラインスケートを完璧に使いこなしていた。距離を置いたミチルはやはり微笑みながら、
「ぜんぜん届かないねー。あ、そうだ。こっちの方が長さもあっていいと思うよ?」
持っていたスティックを放り投げた。
受け止めるか捌くか、タグリに浮かんだ刹那の気の迷い。当然ミチルは見逃さない。距離を一気に詰めると、
「でも一人遊びが好きそうなタグリちゃんの好みはこっちかなー?」
いつの間にか手にした催涙スプレーをまき散らした。
噴霧されたガスは顔面に直撃。つかみ損ねたホッケースティックと軟式用の黒バットが床に転がる。
「んぃぎぃぃぃぃぃぃぃ」
そして悲鳴を上げながらタグリもまた床を転げ回っていた。プリーツのミニスカートがはだけるのもお構いなしに。
慈愛に満ちた笑顔とは裏腹に、ミチルは下卑た笑い声をあげた。
「スカートの下に短パン履いてるとかってー。ないなー。顔面偏差値落第の分際で貞操観念堅いふりしちゃってるとか。憐れすぎだよっ。マジうけるーW ビッチビチのビチ子ちゃんじゃないならさーキャラ崩壊でしょー、あんた」
スケート靴の先がタグリの腹部に突き刺さる。無防備への一撃。せりあがってくる胃液を止める術もない。自身の吐瀉物にまみれてタグリは床を転がり続ける。
「タグリちゃんの初めて♂ はゾンビに決定だねっ☆ あはっ、記念にピアスは私がもらっておいてあげよう」
身を屈めながらタグリの左耳へと手を伸ばしたミチルは、一転、その手を引っ込めた。ウィールを滑らせ瞬間的に加速――回し蹴りを躱す。
「ないなー。丸腰のおんなのこ♀ 相手に、おとこのこ♂ のガチの暴力とかってー。ダメだぞ♪ ケン」
振り返るミチルはいたずらっ子でも叱るような余裕の表情。
口元を覆うカモフラ柄のシュマグの位置を直しながらケンは、
「なんであろうと仲間を傷つけるヤツは許さねえよ」
小柄なミチルを真正面から見据える。ダークブラウンのショートカット、上げた
ミチルは微笑を浮かべながらガスマスクをつけなおすと、
「良かったねっ、タグリちゃん。今日のお相手♂ がゾンビにならなくてー♪」
捨て台詞を吐いて逃走した。
ケンは最初から追うつもりもない。早々とタグリを抱き起こす。
「タグリ、大丈夫か?」
視界は奪われたまま、よろよろと立ち上がる。崩れたメイクのせいでパンダ目になったタグリ。それでも、「くそミチル、次はぜってー殺す」悪態をつく気力はあるらしい。
スタート前にタグリの右腕に巻かれていた腕章がなくなっているのにケンは気づく。
「頼むぞハギト……」呟いた後で、ミチルに蹂躙された
「ゾンビに囲まれる前に、全速力でゴールを目指すぞ」
四人は駆けた。だが三階建ての大型ショッピングモールの店内は広い。怪我人と視界不良のタグリ、フォローしながらのケンでは当然足取りも重い。東棟の食品エリアから中央のイベントスペースへと辿り着く頃には、一階フロアのあちこちから既にゾンビが集まり始めていた。
人のものとは思えぬうめき声を上げながら、突き出した両手で探るように歩くゾンビたち。その数は七。白濁した瞳が宙を
緊迫した状況にも、ケンは冷静に端から順に観察する。
「どいつも熟成モンだな」
確認するように呟くと、羽織っていたアーミージャケットの右ポケットから、玩具コーナーで仕入れた水鉄砲を取り出した。とはいえそれは高圧縮で中身を射出できるよう改造が施されてあった。
ケンは立て続けに身近のゾンビ三体に向けて水鉄砲を撃った。ゾンビの体に命中したのは水ではなく、腐りかけのミンチ肉。発酵する生臭くも肉々しい臭気が辺りに広がる。
間近の『肉』をゾンビたちが認識する。視覚と嗅覚が衰えたゆえの誤認――ゾンビが釣られる。感染から時間が経過していくに従い感染者の五感は著しく低下していく――
共食いの様相を目に留めるや、ケンたちは棚を迂回して駆けた。ついでにペット用のジャーキーを引っ掴んで。
さすがのゾンビもいずれは気づく。時間稼ぎが功を奏しているうちに重い足取りで走り続けた。
レースの状況がアナウンスされる。ふざけた調子で。まるでケンたちの逃避行を嘲笑っているかのように。
『おおっとォ? ここでタッチダウンの権利を得ていたチーム『
「まさか、ハギトが……」ケンに浮かぶ焦燥。追い討ちをかけるように後方から荒い息遣いが迫ってくる。
「急げ!」ケンは気持ちを切り替えるべく短く叫んだ。
『そしてその隙に今回も一位でゴールしたのはァ、チーム『
無情にもレースの終了を継げる館内放送。それを半ば無視して駆け続けた。
右手にあるアパレルショップからワンピースとスカーフを体に巻き付けたゾンビが飛び出してくる。咄嗟の機転をきかせたカイゼル髭が、左側の北欧雑貨店に飾ってあったデスクランプを掴むや投げつけた。わずかに傾いだゾンビへと跳び蹴りを食らわす。ゾンビが倒れるのを確認する時間すら惜しんで、再び駆け出していく。
ようやく西棟奥に控えるエスカレーターが視界に映った。すでにゴールしたプレイヤーたちがエスカレーターの上方で待機していた。
プレイヤーたちが叫ぶ。「早くしろ!」
その声に最後の力を振り絞り、ケンたちはエスカレーターを駆け上る。
試合が終われば敵味方の区別はないというノーサイドの精神、それは建前。五感の冴える感染間もないゾンビにレース会場をうろつかれるのはどのチームにとっても迷惑、という本音。理由はどうあれ、他のプレイヤーたちが追いすがるゾンビを手にしたモップで突き落としていく。
ゾンビを振り切ってエスカレーターを上りきる。四人が走り込むと同時に、ワイヤーで補強した防鳥網がエスカレーターの降り口を覆っていく。幾重にも。それは最終走者のゴールも意味している。
ケンとタグリ、
と同時に駆け寄ってくる長身。へそ出しスタイルの光沢のあるシャツとパンツ。それがピタリと張り付いた長い手足。鮮やかに染まった青いロングヘアーと長いツケマがドラァグクイーンを連想させる――
「すいません、ナタ姉さん。ウチらが不甲斐ないばっかりに。二人揃ってミチルに足止め食って、姉さんの役に全然立てなくって」
メンバー二人を長い両手で抱きしめながら、ナタクは言った。
「そんなこと言うんじゃないよ。アンタらは良くなってくれた。そんなアンタらのことがアタシは大好きだよ」
「ケーン!」声が上がる。小学校高学年といった少女と少年が駆け寄ってくる。
ショートカットの少女、リンがケンへと抱きついた。
首からゴーグルをぶら下げて鼻の上に絆創膏を貼った少年、バトは浮かべた安堵の表情をすぐに曇らせた。しゃがみこんだままぐったりとしているタグリに気づいたからだった。リンも慌ててタグリのもとへと駆け寄る。
「タグリ姉ちゃん!? 大丈夫……なわけないよな。ケン兄ちゃん、俺、
回れ右をして走り出すバト。その背中に「頼む」とケンが声をかける。
「タグリ姉ちゃん……」ハンカチでタグリの目元を拭うリンが瞳を潤ませる。そんなリンへとタグリは平然と言い放つ。
「問題ないよ、リン。この程度じゃ私の国宝級たる可愛さは失われない。とはいえ危うく国家規模の損失を招きかけたツケはいずれ払わしてやるけどな」
館内放送が、モールの一階部分で開催された命がけのレース――スパルタン・Z――の順位を発表していく。
『今回も優勝はァ『
順位はともあれ今回も生還できたことに気が緩む。それも束の間、我に帰るとケンは急ぎ訊いた。
「ハギトは。ハギトは無事なのか?」
「ハギト兄ちゃんは……」リンが言いかけた時だった。
「ハギトなら無事だ。同盟を組んでいる以上、助ける義務があるからな」
リンの後ろから現れたのは、赤銅色のジャージに身を包んだ眼鏡の男だった。首までシップアップされたスポーツブランドのアウターとデニムのパンツ。鍛え抜かれた逞しい肉体が、ジャージ越しにもはっきりと分かる。
「お前のトコのジイサンに預けである。重症には違いないが、命に支障はないはずだ」
淡々と話す男――
「だが、それも今日限りの話だ。『
ゴウカの隣で、小柄な少女が眼鏡越しに無感情な瞳を向けている。黒地のセーラー服にタイツ姿、その制服は都内でも進学校として有名な中学校のものだった。長い黒髪が印象的な少女、
言葉もなく二人を見つめるケン。風向きが変わりつつあった。
厳しい瞳の
「優勝すりゃあ食いもんにゃ不自由しねえ。だから前の二戦は同盟の誰かが一位でゴールすりゃいいってな人海戦術で望んだ結果、要所要所を
紺色のバンダナの下から狡猾そうな瞳を覗かせた
モトルはガムをクチャクチャと噛み鳴らしながらケンに話す。
「だから、今回は最初っから
情報を整理しながらケンは継いだ。
「ああ、ゴウカかナタクによるマッチアップが成立しさえすれば作戦は成功するはずだった。だがレース開始直後に飛び出したタギルはサポート組を蹴散らし、本来のポジショニングとは違う外周へと離脱した。それでもまだ俺たち戦闘班が外周に逃げたタギルに包囲網を敷けば修正は可能なはずだった。なのに次にタギルが姿を現したのはゴール目前の場所だった。モールの端から端へ、まるで瞬間移動。トップスピードでタッチダウンを目指す最速班の前に突如として現れたタギルはメンバーを壊滅させた。消えたタギルを探し右往左往する俺たちを尻目に、ワタルは悠々とゴールした」
倉庫から引っ張り出してきた催事用デスクで見立てた表彰台。トロフィーの中に納まっていた目録を
その脇を固める
スパルタン・Z最強のプレイヤー――
自分を崇めるファンにでも応じるように、ミチルが指ハートでポージングして見せる。ひと際大きな歓声が飛んだ。
レースには不向きな膝丈までの黒いコーディガン姿のワタルが、涼しげな瞳でこっちを見ていた。もったいぶった所作で投げてよこしたのは二位の目録。
それをゴウカがキャッチするのと同じタイミングでモトルが言った。
「
くそっ――ケンは内心で舌打ちする。恐れていた事態の訪れを感じながら。
「完全に裏をかかれてる以上、同盟を組むこと自体がリスク。みんなそう思っているってことだよね」
ソプラノの声。新たに話に加わったのは、一見すると女性と見紛う小柄な人物。華奢な体躯と、サイドをヘアピンで留めたミルクティーベージュのショートヘア。着ているライダースもどこか大人ぶったよう。儚げな表情を浮かべたままで
「毎回こちらの意図を完全に読んでいるような
顎に手を添えたヨミが、物憂げな文学少女の雰囲気で尋ねる。
「つまりこの中に裏切者がいると?」
抜けるような白い雪肌の細い首。ソラの耳元で黒い石――
「最初から輪に加わることのなかった
スノーボードウェアを脱ぐ
伸びざらして毛先にだけ残るパーマの跡が汗でぐっしょりと濡れていた。そこから覗かせるのは疑いの眼差し。他のチームのことなど意に介さない孤高の存在は、同時に孤独を意味していた。完全武装に拘るあまり完全に失った機動性。ゆえに最下位常連。それでも死ぬよりはマシだ、とスタイルは変えない。聞く耳は持たない。
「同盟のメンバーに
ヨミが全員の内心を代弁する。取り返しのつかない亀裂を生じさせる言葉にも、切りそろえた前髪の下の瞳はやはり無感情のままだった。
モトルだけが反応する。ガムを吐き捨て、声を荒げた。
「おいおい、犬を悪者にしてんじゃねえよ。言うなりゃそいつはゾンビにたかる『蠅』がいいとこだ。履き違えんな。裏切者のクソは犬じゃねえ、蠅野郎だ!」
割れた皿を元に戻すことは出来ないと分かっていた。誰の目にも明らかだった。だからこそ、ナタクは言った。ドスを利かせた声で。
「アンタらはアンタらで好きなようにすりゃあいい。そんなことより今は怪我人の手当の方が先だろう? 景品だってアンタの好きにすりゃあいいさ、ゴウカ。
ゴウカが宣言する。
「次遭うときは敵同士だ。全力で潰させてもらう」
眼鏡の男女が踵を返す。
「短い間だったけど、楽しかったよ」
にっこりと笑ったソラがライダースを翻す。
「じゃあな」
バンダナを巻いたモトルも去って行く。
ふとその後ろ姿にケンは違和感を覚えた。いつもと同じ、ダメージ加工の施されたデニムジャケットとレザーパンツのロックスタイル。だがパンツのポケットが不自然に膨らんでいる。それは紛れもなく――
ケンの頭に浮かんだ疑問。それを遮ったのはナタクの声。
「女の子の相手になんてことしてくれてんだっ! 女の子の顔をグチャグチャにするなんて!」
振り返った先で床に足を延ばすタグリをナタクが抱きかかえていた。
両目をハンカチで覆ったタグリは心配させまいと気丈に、
「心配ないって、ナタ姉――」
と。
「――て、ええッ!? グチャグチャって、私の顔そんなに酷いの!?」
慌てふためいた。
しかし眺めるケンを尻目に、二人は既に別の話題で盛り上がり始める。
「いいかい、タグリ。世の中がどうなろうとか知ったこっちゃない。どんな世界だろうが、どんな境遇だろうが、どんな体だろうが、女の子は可愛くあるべきなんだ。そして立ち止まらず磨き続ける。だからこそアタシらは可愛い。それが唯一絶対の真実にして真理、そして正義だ」
「もちろんだよ、ナタ姉。私は可愛い。可愛いイコール私。そんでもってナタ姉ももっと可愛くしてあげるからさ」
タグリが右手を持ち上げる。その手にはあの緊迫した中にあって、ちゃっかりくすねてきたブリーチ剤が握られてあった。
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