第六話 友直真先――ストライカー 2
しばらく車を走らせた先でマサキは車を停めた。五階建てのビルは複合施設となっている。
車外へ降りたマサキが見上げる。一階はカプセルホテルになっており、二階はビリヤードやダーツが楽しめるバー。四階にはボウリング、さらに五階ではバッティングセンターまで完備していた。
トンネルのように薄暗い共用の入り口へと進む。はたしてそこには二台の大型バイクが駐めてあった。
エレベーターに乗り込み、手始めに二階のボタンを押した。揺れを感じるのも束の間、二階に到着したエレベーターのドアが開く。
「ビンゴ」感情もなくマサキは呟く。
赤と黒のツートーン。チェック柄の床では至る所にビリヤードボールが転がっている。
並列する六台のビリヤード台と、床に並んだ四台のダーツ台。奥のバーカウンターにはアルコールをラッパで飲むバイカーたちの姿。完全なリラックスムード。足元ではノブが小さくなって震えている。
四人の中でマサキに初めに気づいたのはスキンヘッドの男だった。
「ガキぃ、テメー何しに――」
だが、言い終えぬうちに頭部が後方に仰け反り、そのまま昏倒する。
「セカンドゲームに決まってるだろ?」
投球動作を終えた姿勢のままでマサキは言った。スキンヘッドの顎を砕いたビリヤードボールが跳ね返り、台の上を転がる。
下半身からの体重移動、しならせるように振るった右腕、スナップさせた右手首、すべてが理想通りの動きだった。痛みもなくぎこちなさもない。皮肉さを感じられるほどに、理想のフォームが自然と出来ていた。
スキンヘッドが大の字に倒れると、弾かれたように二人のバイカーが飛び出してくる。
二人の額に刻まれた瞳のタトゥーにマサキはもう動じることもなかった。恐怖を内なる怒りが凌駕していた。マサキが壁に掛けられたビリヤードのキューを取ると、バイカー二人もキューを振り上げながら迫ってくる。
やや遅れたフル・ビアードの巨漢に比べ、ロングヘアーの男は細身で足も速い。あと三歩で距離を詰められると分かってなお、マサキは冷静だった。振り上げられたキューとは対照的に、マサキは低空の槍投げの如く男の足元めがけて投げつける。足の間に絡んだキューに足を取られ、ロングヘアーの男はもんどりうって倒れた。
一足遅れて迫る巨漢に向き直るやスライディング。その脇を抜けざま、床に転がるビリヤードボールを掴んだ。それらはすべて一連の動作。立ち上がった時には、既に投球フォームへと移行している。
硬球に比べ一回り以上小さいビリヤードの球をワンシームで握る。腰の回転を右肩から腕へと伝え、スナップを効かせた右手から発射されたのは――渾身の
ゆっくりとした動作でビリヤード台に散らばったボールの一つを掴んだマサキは、立ち上がったロングヘアーにもあっさりとストライクを決める。倒れるロングヘアーの意識の有無を確認することもなく、モヒカン男へと視線を向けた。
「スリーアウトチェンジ。今度は俺が攻撃の
強気で言い放ったマサキのもとへ、ノブが駆け寄ってくる。
「マサキぃ、早く、早く逃げよう」
形勢は確実に逆転していた。しかしそれでもノブに余裕はない。
「アイツら、
マサキはノブを下がるよう促しながら、
「で、結局なんだよ、お前ら? なんのためにノブを攫った?」
バーカウンターに背を預けたままのモヒカン男を見据える。
隣でノブが言った。
「アイツらはヤバい連中なんだよぉ」
「それはつまり連中が、ノブがさっき言ってたゾンビってことか?」
俺の番か――強気な姿勢にも相手がまともに返すとも思っていなかったマサキは、小声のままでノブへと訊いた。
「正確にはゾンビとは違うけど――」
だが。
「オ、オレは
問答が通じるとは思っていなかったマサキはモヒカン男――溶鉄――の返答に戸惑う。吃音まじりの言葉だった。
溶鉄と名乗った男は、マサキの方へとメモ帳を放り投げる。
ビリヤード台に落ちたメモ帳をマサキはめくった。中は三色ボールペンでびっしりと記されている。赤色で、女(24)。青色で、男(3)。黒色で、女(30代)。そんな調子で三十ページ以上が埋まっていた。
溶鉄は少し演説ぶって話す。
「オ、オレたちは『翼のもがれた天使』だ。オ、オレたちが天使だった『あの世界』に戻るために、オ、オレたちは『あの頃』と同じ儀式を行わなければならないのだ」
正確にはゾンビとは違うけど――ノブの言葉が頭を巡る。マサキはノブが続けようとした言葉を理解する。そしてメモ帳に記された三色の意味も。
感極まるように肩を振るわせる溶鉄。天を仰ぎぽろぽろと泣き出していた。
「い、偉大なる
マサキを支えてきた怒りが砕け散る。吐き気をもよおした。目の前の男たちがしてきたことを理解した瞬間、すべてが黒く塗り潰されていく。善意も良心も良識さえも、人として生きる意味や目的が泥の奥へと沈んでいく。
戦慄くようにマサキは絞り出した。
「食べたってのか、ここに書いてある全員を……」
溶鉄は言った。寂しそうに。
「も、元天使が元天使を食ったところで、せ、せいぜいが傷の再生くらいにしかならねえんだ。な、なのに普通の人間に死体、年寄りから赤子まで。ど、ど、どれだけ食べても『あの頃』の特別だった自分には決して戻れねえんだ」
溶鉄は豚のように鼻を鳴らす。
「こ、高校生くらいのは一度食ってんだ。だ、だけどよ、毛並みの違うお前ら二人を交互に食えば、ひょっとしたらひょっとするかもしれねえ。ま、混ぜご飯ってのは初めての試みだ」
カウンターの裏から取り出したのは先刻の大鉈。長身の溶鉄が持つため、サイズがぼやけたが、よく見れば刃の部分だけで一メートルはある。角ばった形状は切るというより叩きつけるのに適していそうだ。その上で溶鉄はさらにもう一本取り出す。先端が鎌状になった
右に大鉈、左に山刀を握った溶鉄が叫んだ。
「オ、オレは六識深滔・泥眼、
黒いティーシャツから伸びた逞しい両腕。左右に大振の刃物を軽々と携え、溶鉄は駆ける。数歩で全力疾走の域に達するや、その勢いのままビリヤード台を駆けあがった。
反射的にマサキはビリヤードボールを掴む。二振りの刃を振り上げながらの跳躍、溶鉄に回避するすべはない。分かっていればこそ、自分のフォームを信じて渾身のストレートを見舞った。
だが溶鉄が怯むことはない。紙のように振るった山刀の腹でビリヤードボールを弾いた。
逃げ場を失ったのはマサキの方だった。振り下ろされる大鉈、刃が壁に当たったことでコンマ一秒減速したのが幸いだった。鉈は切るというより、叩きつけた壁を削っていった。転がるようにして斬撃の合間を潜り抜ける。怒りで押さえつけていたはずの恐怖がぶり返す。ダン、とエンジニアブーツを鳴らして着地した溶鉄、その後頭部、紅蓮のモヒカンの両側に位置するふたつの瞳がマサキを捉えて離さない。
悲鳴をあげる前にビリヤードボールを掴む。大鉈を構えなおす溶鉄に、だが立ち上がるまでには至らないマサキ。投球フォームには遠く及ばない悪あがきの動作でボールを投げた。
「く、くだらねえ。だ、黙って、すす、崇高なる儀式の生贄になれ」
当然のように眼前に迫るボールを左の山刀で弾いた溶鉄。山刀の腹で視界が途切れる。そのとき、
「マサキ、逃げてっ」
溶鉄のさらに背後で声。ノブの言葉に従うようにマサキは立ち上がる。
「に、逃げられるわけ――」
対照的に足を滑らせた溶鉄がひっくり返る。それはノブの援護射撃、床に転がった数多のビリヤードボール。
溶鉄の上を飛び越えるようにしてマサキは駆けた。
「ノブ、助かった」
短く告げ、エレベーターの乗り口へと向かう。一足先に辿り着いたノブがボタンを連打した。追いついたマサキはしかし、ノブの手を引いてさらに奥の階段へと走る。
「ダメだ、間に合わない。だから――」
追走する溶鉄の息遣いが聞こえた。
「――下に逃げろ、ノブ」
一階へと下る階段にノブを突き飛ばしたマサキは、上階へと続く階段を上っていく。追撃者の気配を後方に感じながらも、微かな安堵を覚えた。
猟犬の息遣いに、時々豚のように鳴らされる鼻。階段を上る溶鉄との距離は確実に縮まりつつあった。
「そうだこっちだ! ついてこい溶鉄!」
マサキは一気に気を引き締め直すと同時に、一心不乱に駆け上がっていった。
間もなくマサキは最上階へと到達する。五階の出入り口を抜けると、障害物を掻き分けるようにしてフロアの中央まで走った。そして息を切らしながら振り返る。その先で溶鉄もまた姿を現した。
「どど、どうしてだよ! どうして黙って食われてくれようとしねんだ! お、往生際の悪い奴と嘘つきはダメだって閃虚様も言ってた。か、覚悟の決められねえヤツは幸せになれねえって」
二振りの刃物をぶら下げた溶鉄は激情に身を任せる。涙はやむことなく流れ続けていた。
小さく深呼吸しながらマサキは対峙する。この数分の間に様々な感情が現れては消え、揺れ動いてた。だがその心は極めて平常に近い。小さく深呼吸した。最後になるとして、なるとするならなおさらに。この場所に来られたことに喜びすら感じていた。
「懐かしいな、この光景」
この状況下でマサキは見上げた。本物のフィールドには遠く及ばないとして。都会のバッティングセンターは天井が低いとしたって。
溶鉄は変わらず声を上げ続けていた。吃音がますますひどくなっていく。
「オ、オレはちょっとだけでいいから幸せになりてえだけなんだ。ひ、人並なんてもとめちゃいねえ。ちょっ、ちょっとの、ほんのちょっとの幸せだけでいいんだ。い、い、居場所なんてずっとなかった。せ、閃虚様だけが俺に居場所を与えてくれたんだっ! オオオ、オレが幸せになってもいい場所をっ!! ななななのに、なのに! そっ、それが悪いことなのか? オッ、オレみたいなもんはそれすら求めちゃいけねえっていうのか!! おお、お前はそんな俺のために黙って食われてやろうと思わねえのか!!」
足元に広がるのは人工芝のマット。左側にはピッチングマシーンが並んでいる。誰とも知れないデジタルピッチャーを中央に、他はアーム式のもので七台。右側にはコインを入れる箱型の機械と、金属バットが立てられたバッターボックス。張り巡らされたネットが低い天井を一層低くして見せる。
「ツーアウト満塁。九回裏、最終打席だ」
言いながら、マサキは転がったボールを拾った。試合用のものとは比べようもない。だとしたって硬球は硬球だ。
「しっ、幸せになってやる! く、くく食ってやる!!」
溶鉄が地を蹴った。
マサキも投球フォームを開始する。
溶鉄の大鉈が振り上げられる。
マサキは下半身からの体重移動をコントロールする。
溶鉄の山刀が振り上げられる。
マサキはしならせるように右腕を振るう。
溶鉄は防御すべきポイントを見極める。
右手首がスナップする。
制球を見定めた溶鉄が、顔面を山刀の腹で覆う。
投げ終えてマサキのリリースポイントは安定していた。
そして――。
溶鉄の顎が弾け飛ぶ。
何が起こったのか当の本人さえ理解出来ていなかった。顔の半分がなくなったのかと思うほどの衝撃。完全に砕かれた溶鉄の顎。
狙いも、速さも十分に把握したうえでの対応だった。溶鉄にすれば完璧に防御したはずだった。にも関わらず、硬球は瞬間移動でもするようにして溶鉄の顎で炸裂した。
「な、なにがどうなっれ」
低い天井が片方だけ赤く染まるのを見ながら、溶鉄は言った。顎を砕いた硬球は失速しつつも跳ね返り、左目も潰していた。気づいた時には人工芝の上で大の字になっていた。ゴボゴボと口から血が迸る。破壊された顎では、まともに言葉を発するのも困難だった。
「フォーシーム」
マサキが言った。
「ビリヤードのボールじゃ小さくて無理だけど、硬球なら本来の投げ方ができる。俺の決め球、渾身の
人差し指と中指を並べ、ボールにある縫い目に交差させて握り、リリースの際にバックスピンをかけて投げる――
「いまかよ、ってのが皮肉が効きすぎだけど」
マサキは溶鉄の前へが歩み寄る。そして見下ろした。
「二度とノブに手を出すな。分かったら、これで終わりにてしてやる」
一方的に告げると踵を返した。低速のバッターボックスの先にある出口へと向かう途中で、マサキは芝に転がる硬球をひとつ拾い上げる。
感慨深く眺めた――ノブを遠ざけられたことにほんの少しだけ胸を撫でおろしながら。マサキが続けるのを誰よりも望んだ友に、野球を冒涜するような真似を見せずに済んだことに。
小さくため息を吐いて切り替える。そしてマサキはノブのもとへと向かおうとした。
「お、おい……」
マサキは背後から掛けられた声に足を止める。
溶鉄だった。大の字のまま、天井を見つめ続けている。視界にマサキは入っていない。それでもしゃべり続けていた。
「い、いっらよなあ。も、もろ天使がもろ天使食っれもよお、せ、
床に這いつくばったままで溶鉄は右手をどうにか自分の顔の方へと持ってきた。
「まさか――」
マサキの全身を冷たいものが駆け巡る。嫌な予感しかなかった。
溶鉄は自分の右手の親指を嚙みちぎった。そして飲み込む。同時に身体が跳ね上がる。左腕と左の太ももが腫れるようにして不規則に盛り上がっていく。
「んぅぐ、ぐ、ぐ、ぐ、ぐ」
唸るたびに左の半身だけが急激に成長していく。盛り上がった左肩の筋肉に引っ張られるようにして顔の位置が無理やりに整形されていった。同時に砕けた顎が修復されていく。ティーシャツの左肩と、ワークパンツの左側が発達した筋肉で破れ散った。顎周りは凹凸の目立つプロテクターをはめ込んだような筋肉で補強されていた。
「嘘、だろ……」
マサキの眼前で、左半身を歪な肉塊と化した怪物が立ち上がる。
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