第五話 友直真先――ストライカー 1
薄闇の中で二人の男女が立ち尽くす。
着崩された制服。ブレザーはタータンチェックの柄。
少しだけ染めたショートマッシュに長身の男子生徒。ミデイアムボブの黒髪で小柄な女生徒。
二人の顔。そこに張り付いた驚愕。
遅れて響く悲鳴。
やがて。
静寂の中に取り残された二つの感情のない顔。
諦め――つまりは絶望。
薄闇に鮮血が飛び散った。
†
差し込む陽光がまぶたを焼く。覚醒には程遠くて、まどろむ。でも、じりじりとした日差しから顔を背けたところで、白んだ闇に浮かぶのは悪夢だった。
「う……ん」
不安定にきしむ背に寝返りをうつことを諦める。そして泥の中にあるように重い右手を持ち上げた。視界に影を作ってようやく瞳をこじ開ける。
少し高い位置にある視線が一連の動きに気がついて、その視線が重なる。
「ノブ……か?」
ついて出た言葉は、まるで蚊の鳴き声。唇はやけにかさついていて、口はほとんど開かなかった。
「マ、マサキぃ」
それでも隣でハンドルを握る、ノブこと
車が急停止する。ハンドルを握り締めたままで、ノブは俯いた。
「良かった……良かった……ぼく、ひょっとしたら……マサキはもう……目を覚まさないんじゃないかって……」
たどたどしい言葉に、しかし感情が渦となって溢れ出る。
「目を、覚まさない? 俺は、ずっと眠っていたのか?」
マサキ――
ノブは躊躇いがちに言った。
「マサキは……ずっと眠り通しだった。ショック状態を起こしたんだと思う」
「ショック状態? いったいどうなってるんだ?」
助手席のシートに深くもたれていたマサキは視線を動かす。状況を理解するために、ゆっくりと。
車内は狭い。軽自動車であるのは間違いない。だとして、なんでノブが車を運転しているのか理解できなかった。仲間内からモブと揶揄されていたノブのふっくらとした頬は少し痩せ、顔つきには精悍さすら感じられる。自分の知る記憶と現実の噛み合わない薄気味の悪さを覚えた。
逸らすように後部座席を見やると、季節感もまばらな衣料品やスナック菓子の袋、箱入りのペットボトルが雑多に積んであった。
視線を下げる。着ている服はギンガムチェックの半袖シャツの上に重ねた白いパーカー。そしてチノパン。不思議なことにマサキには覚えのない代物だった。目にかかった前髪を払う。ツーブロックの短髪だったはずが、鬱陶しく感じられるまでに伸びている。物心ついてからそこまで髪を伸ばしたことなど記憶にはなかった。
両腕には無数に走る傷と、紐が食い込んだかのような痣が見てとれる。血はすでに止まっていた。頬に触れるとそこにもいくつかの傷跡を確認できた。
身に覚えのない衣類と傷。情報を整理しようとしたマサキだったが、逆に混乱は深まるばかり。だから、
「なあノブ、いったい何があったんだ? 今は……今は何月の何日なんだ? 俺はどれだけこの状態だったんだ?」
結局、尋ねることしか出来なかった。
ノブは自問するように呟く。
「覚えてない、の?」
口を開きかけたノブだったが、思い出したようにペットボトルを取り出すとマサキの口に水を含ませた。それはマサキにとって数日ぶりに飲んだ水のように、ただのひとくちで全身を潤していく。マサキは少しだけ動きの良くなった右手でペットボトルを握った。ふたくち目はどうにか自力で飲むことが出来た。
ノブが「あとはこんな物しかないけど」そう言ってグローブボックスからゼリータイプの栄養補助食品を取り出した。マサキは一口ずつ含んでは飲み込んでいく。
リハビリの様子を見ていたノブが微笑む。
「マサキは……丸三日間、眠り続けてたんだよ。お腹も空いてるだろうけど、まずは水分補給が必要だね」
患者の良好な経過に気を良くしていたノブだったが、一転瞳に険しい色を覗かせると、言葉を選びながら話し始めた。
「マサキは発症事件のこと、覚えてる?」
「発症事件……」反芻した瞬間、マサキの頭の奥がズキリと痛んだ。
「三ヶ月前のことだよ。未知のウィルスによって、四つの国がわずか三日でフェイズ6のパンデミック期に突入するという緊急事態が発生したんだ。そしてここ日本もその四つの国のひとつだったんだ」
ノブの言葉は重く圧し掛かる頭にまとわりつく。頭の中の回路がせき止められて、ふくれあがっていく。マサキの脳を締め付けていく。
「そのウィルスは通称、『ロメロ・ウィルス』って呼ばれるようになった。発症すると瞬発的に攻撃性を解放した後、やがて感情と思考能力、そして運動機能が緩慢に失われるんだ。白濁した瞳の連中がすり足歩行で街中を徘徊する様はまさにゾンビ。だからかの映画監督にあやかって、ロメロ・ウィルスってわけ」
ノブは面白くもなさそうに笑って。
「最初は狂犬病の変種が疑われたんだけど。情報が整理されるにつれ、日本では成田空港で国内初の発症が認められたってことになったらしいから、おそらく外国の観光客の中にウィルスの保有者が紛れ込んでいたんじゃないかって。まあ、テロ攻撃っていう説は今も根強く残ってたりするんだけどね。事態の収束に追われる政府にすれば、とても事実確認まではとれるレベルじゃなかったからね」
発症――という言葉にマサキの記憶は確実に反応していた。しかしそれを具体的なイメージにしようとすると、やはり脳が拒絶する。
「感染経路は直接感染に限られてた。空気感染はなし。つまり噛みつくことで直接的にウィルスを感染させるらしいんだ。そして感染者はネズミ算的に増えていった」
頭が痛かった。水を口に含むと確実にマサキの身体は潤っていく。感覚が取り戻されていく。しかし頭の痛みはひどくなるばかりだった。
ノブはもうマサキを見ていなかった。フロントガラス越しに一点を見つめたままで、独り言のように話し続ける。
「感染してもすべての人間が発症するってわけじゃなかった。感染しても発症するのはおよそ八割……でも発症しなくても、それで済むってものじゃなかった。感染者が何をもって、自分たちとそうでないものを区別しているのかなんて分からない。だけど、確実に認識したうえで、自分たちとそうでないものを区別したうえで、襲ってきた――」
ノブがマサキへと顔を向ける。
「――『食料』にするために」
その顔は能面みたいに無表情だった。まるでノブ自身が語ったその発症者みたいに。
表情のない顔、その頬を一筋の涙が伝う。徐々にノブの呼吸は荒くなっていった。それを見てマサキは声をかける。
「ノブ、外の空気を吸わないか?」
ノブが小さく返答する。車はのろのろとロータリーの脇へ止まった。
マサキが助手席を開ける。ぐるりと見渡した後で、ペットボトルの水を一息に飲み干した。広がるのは音のない世界。周囲を囲むように並び立つのはくすんで映る建物。方々の窓は割れたままで人の気配は感じられない。静寂の中で建築物がわずかに影を落としていた。高く昇った陽がゆっくりと傾き始めるそんな頃合いだった。
昼下がりの街を風が吹き抜けていった。その匂いはマサキの知るどれでもない。都会のものとは思えないほど澄み切っていた。同時にそれは人類の歴史が一時的であったとしても中断していたことを意味している。ノブの話を証明するように街並みは惨憺たるものだった。
「日本橋にある製薬会社が抗ウィルス剤を完成させたのが、今から二週間前の出来事。そこからは加速度的に事態が動いた。スピード認可を経て、二次災害の少なかった離島や地方での坑ウィルス剤の試験散布が行われたのが十日前の話。関東圏での坑ウィルス剤の散布は昨日だった。これでも世の中は確実に改善に向かってる。だけど――」
運転席から降りたノブはどこか他人事のように力なく話す。それでも落ち着きは取り戻していた。
改めて見ると、その姿はやはりマサキの知っているノブではない。目元を覆うほど伸びた前髪。ライトグレーのパーカーの上に重ねたカーキのフライトジャケット。覚えている限り、ノブらしい趣味とは呼べない髪型と服装だった。ノブの身の丈にジャケットはだいぶ緩い。だが、だらしない着こなし以上に、以前より痩せた体型を際立たせてみせていた。
「この三ヶ月間、世界は噛みつかれてゾンビになるか、噛まれてゾンビにならなくても食われるかの、ふたつにひとつの生き地獄だったんだ」
辺りは見慣れない風景。ロータリーの中心には螺旋状に上昇する赤、青、緑のモニュメント。小さな公園の趣に、植樹も紅葉に色づき始めている。ノブが停車したのは、蒲田駅の目の前だった。
馴染みのない場所にも、車を止めてよい場所でないことくらいマサキにも分かった。だとして道路わきには既に数台の車が停まっている。いや、交通ルールを無視したように乱雑に置いてあった、と呼んだ方がしっくりくる。所々がひしゃげ、落葉が積もった車体。それらは乗り捨てられたまま放棄されたものらしい。
新鮮な空気を吸い込んだにもかかわらず、マサキの気分は晴れない。見知らぬもので埋め尽くされた世界に居心地の悪さを感じていた。
「その地獄からぼくたちは必死に逃げ続けたんだ。いつものぼくたち、ぼくとマサキ、そして――」
ふいに言葉が途切れる。ノブが目を瞠っていた。表情は一転して凍り付いている。
ノブは呆然と呟いた。
「……
マサキもノブの視線の先を追った。十メートル程の距離を置いたそこに、異様な姿を見つける。
男だった。黒いティーシャツとワークパンツ、立たせた髪の毛は紅蓮の色をしたモヒカンヘアー。モヒカンまで含めると二メートルを超えそうな長身。道路の真ん中に立ち、太陽にでも喧嘩を売るように空を見上げていた。
いつからそうしていたかも分からない。マサキたちからは後ろ姿しか見えない。それでも男と視線が交差しているようにマサキには感じられる。男の後頭部にはモヒカンの生え際を中心にして二つの巨大な『瞳』が配置されている。その目がマサキたちをじっと見ているのだ。
「あれは一体なんだ?」
マサキがノブへと顔を向けた瞬間だった。排気音が響くや、マサキの視線の先を黒い影が通り過ぎる。二台の大型バイク――ハーレー――だった。
揃いのバイクスーツに身を包んだ三人組。運転するのはスキンヘッドの痩躯と、バンダナを巻いたロングヘアー。スキンヘッドが運転するバイクの後部席には顔全体に髭を生やした――フル・ビアード――の巨漢。山羊のように胸元まで伸ばした髭の大男が軽々とノブを抱えていた。抵抗を続けるノブの脇を締め付けた太い右腕は南京錠の如くびくともしない。
二台のハーレーは紅蓮のモヒカンの両脇に停まった。
「ノブをどうするつもりだ!」
マサキは叫んだ。だがそれを半ば無視してロングヘアーはモヒカン男へと訊く。「あっちはどうしますか?」
モヒカンを含めた五人の男がマサキの方へと顔を向ける。瞬間的にマサキの全身を寒気が襲った。
バイカーたちの額にすべからく刻まれていたのは『瞳』。アーモンドの形に六重の輪で形成された黒目部分、
集団の中、モヒカン男だけが後頭部と右の側頭に刻んだ異形の印。瞬きもしないそれが
正面を向いたモヒカン男は、引き締まった肉体に良く映える端正な顔立ちをしている。アスリートと呼んでも差し支えない風体、それゆえ不気味なタトゥーが違和感をますます募らせる。本物の瞳はといえば潤んでいて、優しげな色さえ浮かんでいた。
男は豚のように鼻を鳴らした。端正な顔立ちに似つかわしくない下卑た所作。その後で言葉を発した。
「あ、あっちはいい。きょ、今日はそれだけで」
バイカー姿の三人が頷く。
「ま、待て!」
恐怖を強制的に追いやるとマサキは叫んだ。そして駆け出す。病み上がりの体に鞭を打つような急激なリハビリ。それでも駆けるたびに両脚は力を取り戻していく。
モヒカン男は必死なマサキには目もくれず、ロングヘアーがハンドルを握る大型バイクの後ろに跨った。アクセルを吹かすや、排気音が唸る。マサキを置き去りに二台のハーレーが加速していく。
「くそっ!」
見送る余裕もなく、マサキは急いで引き返す。早くも肺は悲鳴を上げていた。男たちの行く先なぞ分からない。もとより車の運転の経験もない。だが考えている暇はそれ以上になかった。運転席に飛び乗るとワンボックスの軽自動車のエンジンをかけた。
ガタガタと加速と減速を繰り返しながら走りだした自動車。ロータリーの外周を擦りながら逆走させた。止まったままの信号も無視して、バイカー集団が進んだであろう大通りの一本手前のルートを右折する。そして一方通行の細い道路を逆走していく。
マサキは連中の進路を見送ってはいない。それでも連中が大通りを行ってくれたことを祈りながら、個人飲食店の並んだ細い通りをフルスロットルさせた。
通りの先で、十字路を横切る二台の大型バイクを捉える。通りを抜けざま、目前の中華料理屋の外壁にほとんど車体をぶつけるようにして、ハンドルを右に切った。
マサキの駆る軽自動車はハーレーの後方に張り付く。後部座席に跨った巨漢が振り返る。風に激しくなびくフル・ビアードまでがはっきりと視認できた。このままさらに加速すればバイクを転倒させるのは簡単だった。だが巨漢はノブを抱えている。このままではノブにも大怪我を負わせてしまう。
(どうする、どうする、どうする、どうする)
ハンドルを握るマサキに募る焦燥。なお悪いことに、もう一台の大型バイクが減速し軽自動車へと迫ってきていた。
並走するバイクと軽自動車。バイクの後部に乗ったモヒカン男とマサキの視線が重なる。男は左手を振り上げていた。その手に握られていたのは無骨な形状をした刃物。
「うおおおお――」
マサキが車ごと体当たりを仕掛けた瞬間、モヒカン男の持つ大鉈が振り下ろされた。天井から運転席側のドアが歪に切断される。砕け散った窓ガラスの破片がマサキの顔面に降り注いだ。一瞬失われた視界の中、ハンドルがとられる。ハーレーが再加速する中、コントロールを失った軽自動車がスピンしていく。やがて道路わきのラーメン屋へと車体は叩きつけられた。
遠くなっていくふたつの排気音。徐々に静寂が訪れていく。
マサキの意識は白い靄の中へと沈み込んでいく。記憶は曖昧で、夢と現の区別すら怪しい。イカレタ連中とのカーチェイスだって夢かと問われればそれまでのような。そんな中、マサキの脳裏に二つの顔が浮かんだ。
少しだけ染めたショートマッシュに涼しげな笑みを湛えた男子生徒。
明るい髪色のセミロングを内巻きカールにした女生徒。
声は聞こえない。それでも二人が『マサキ――』と口にしたのは理解できた。
呼ばれる方へ──
──導かれるように目を開く。
ドアを蹴破った。ひしゃげたドアは上半分がなく、ほとんど機能を果たしていない。なんとなく運転席側にくっついているといった有り様だった。残った窓ガラスの破片がこぼれ落ちる。
マサキはゆっくりと車から降りると周囲を見回した。全身を強く打ちつけはしても主だった外傷はなかった。
覚醒していた。アドレナリンの成せるわざだったとしても痛みひとつ感じていなかった。あるのは静かなる怒りだけ。それに突き動かされるようにして、迷いなく半壊状態の車に再び乗り込んだ。
衝撃で開いたグローブボックスの中にバータイプの栄養補助スナックを二本見つけると、封を開けるなり噛り付く。ドリンクホルダーから、ノブが飲みかけていたペットボトルを手に取った。無言でスナックを咀嚼し、水で流し込む。カロリーを詰め込んでいく。ガソリンで満たし、火を点けるために。
確証なんてない。だが直感が告げていた。真っすぐ進むのもやっとの車にエンジンをかけた。意志の赴くままに走らせる。目前の十字路を迷うことなく右折した。
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