第三話 黒丸リオ――エンチャンター 1
『国内における抗ウィルス剤の散布は終了していますが、ワクチン接種が完了するまで屋外への外出は控えて下さい――』
ひび割れたアルタの大型ディスプレイ。騒動収束の〝顔〟は繰り返していた。
深刻そうな表情にあって、どこか幼さの残る目鼻立ち。ハーフアップにしたミデイアムの髪にうっすらと差す栗色。地味になり過ぎない黒のレースブラウス姿。洗練された清潔感に初見では見落としがちなわずかの崩し。国営放送に映し出された彼女はむしろ民放のアナウンサーを彷彿とさせる。
『ワクチンは各家庭を自衛隊、警察と医療機関がまわるかたちで進めています――』
すべからくの生活に影響を与えかねない情報保持者でありながら、どこか親近感を覚えさせた。自分の家族の心配でもするように、彼女は真摯に訴え続ける。
ゴミが散乱する交差点にチラホラと点在する人影は固唾を呑んで見上げていた。その考えは分からなくもない。待ち望んでいるのは新たな情報。それは彼女が発信する展望でもあった。
今の世の中、彼女の発言はすぐにSNSで拡散されトレンド入りする。放っておいてもネットニュースの一面を飾るだろうが、情報欲という旧時代の遺産はその時代が破壊されてなお、いや、破壊されたからこそにか、強く在り続けている。
まるで女神の神託でも待ち望むかのような人々。そんな中、ひとつの視線だけは別の場所に釘づけられていた。カリスマ性を演出する彼女でなく、新宿駅の外壁に書かれた落書きに。
と。
「黒マリモじゃん!」
ふい打ちは二年ぶりに。そして当たり前のように常套句を返す。それもまた二年ぶりに。
「黒マリモじゃねえ、くろま、リ、オ、だ!」
駅の外壁に書かれた落書き。そこから反射的に視線を移すや、すでに後悔。振り返った先で、
新宿駅の東口。三ヶ月前までの賑わいが嘘のように、人の影はまばらで閑散としている。路上には転がったマネキン。東口近くのセレクトショップのものであろうそれが野ざらしにされている事実が、収束したはずなのに混沌としたままの現状を物語っている。
だからこそ、待ち合わせの場所にリオは敢えて指定した。時刻は約束の正午丁度。しかし現れたのは想定していた待ち人ではなかった。
「中学以来っても変わってないよなぁ、くろまり……黒丸リオは」
「読み直すな、てかいちいちフルネームで呼ぶなっ」
橙は、にかと笑う。ポニーテールにしたロングは夕焼けの色に似た独特の赤毛。それにスカート丈の短いキャメル色の制服。見た目そのものギャルな彼女は、生態系の違う生き物で。
なのに。
「リオって結局、高校行かなかったんだっけ? あたしんトコに来りゃ良かったのに」
二年前と変わらず、ぐいぐい距離を詰めてくる。
「うちは自分の生きる道で忙しいのだよ。高校なんてツーシンで十分なのさっ」
結局、リオも橙のペースで会話を続けていた。
「中学の頃から変わってないのは橙だって一緒だろうがっ」
ファッションというより、動きやすさを重視したがゆえのスカート丈。駆けたり塀を上ったり、中学時代はとにかくアクティブだったが、いまもスカートから覗かせた長い脚の膝は擦り傷だらけだった。
「あ、変わってないっていったけど、髪切ったんだね、リオ。それに眼鏡もやめたのかぁ。なになに、なんだかちょっとシャレっけづいちゃってさ」
ギャルな見た目に反して、橙は誰とでも会話できた。せっかく伸ばした黒髪も強いくせ毛のせいで忌み名を賜ることとなった魔の中学時代のリオに対しても、だった。
「ロングだと手間かかるし。何より髪の毛乾かす暇もないほど忙しいのだよ、うちは」
(ホントはちょっとした美容室で縮毛矯正&おしゃれショートにアレンジしてもらったんだけど)口には出せずにリオは答えた。とはいえそれも三ヶ月前の話。市販のストパー剤じゃメンテもままならない。頭皮の周辺は既に強いくせ毛がその片鱗を覗かせる。
黒髪ショートは前髪にだけビビッドピンクなメッシュ。いかがわしい英語が羅列されたダボティーに、合わせた目玉柄のニーハイはグリーン。そこに黒のフード付きパーカーとショートブーツをトッピング。本日たまたまに攻めた装いは、久方ぶりの再会を祝うにあたっては幸か不幸か。リオはその辺曖昧にして答えた――(それでもまあ、忙しいのは事実なわけだし)
「なんだよ忙しい忙しいって……あっ、リオ、ひょっとしてついに漫画家になれたのかっ!」
塩対応に口を尖らせる橙が、一転瞳を輝かせる。
リオは「一応、描いてる」とだけ答えた。
(同人だしBLだけどね、とは言えなかったけど橙相手だし、まあいっか)リオは思った。ちょっと高いところで瞳を輝かせている彼女の期待を裏切るわけにはいかないだろう。読者に夢を見せてあげるのも作家の役割ってヤツだ、と。とはいえ橙はBL読者じゃないけれど。
しかして橙はといえば……。
「そっかぁ、リオ絵ぇ描くの上手だったもんなぁ」
と、これだ。
中学時代、気の緩みでリオが描いた短編を読まれた時も、BL物に対する偏見でも作品自体の良し悪しでもなく、今みたく目をキラキラさせて「リオって絵ぇ描くの上手だなぁ」と橙は言ったものだった。
リオのBL偏愛は中学時代に遡る。数多ある作品の中でも児童文学フランダースの犬をモチーフにした『アントワープ・シンドローム』はその後の彼女の人生を決定づけた。作者はBL漫画界新時代のパイオニア、流川マコト。
流川作品を繰り返し、まさしく穴が開くまでリオは読み返した。アントワープ・シンドロームの終盤、聖秘宝『ルーベンスの大聖堂』消失という主人公の冤罪を晴らすため、名も身寄りもなき親友(主人公によってパトラッシュとあだ名される)と宿敵の腹心にして、通称、花街の魔法使い――
リオは生粋の流川信者、通称、マコニストだった。だから、流川マコトが『瑠花和マコト』名義に名を変えて新境地を開拓されると噂されていた新作、『ローレライ』が今回の騒ぎを見越したように休載に入ったことが残念でならなかった。
と。
「で、なんてタイトル? 教えてよ、あたしこんど探してみるからさっ」
ぼんやり流川作品に思いを巡らせていたリオへと、橙の声。一瞬、流川作品のタイトルを挙げそうになったリオは小さくかぶりを振りながら、
「えっと、『夜叉の系譜』とか『螺旋階段』とか、最近のだと『イーメソッド・悪の方式』かな」
上の空で自身の代表作(とはいえ今のところそれで全部)を口にするリオへと、橙が言った。
「本屋巡りしないと、だな」
「ああ、えっと、それね……」
「今はネットでしか買えないぜ。まあネット通販が機能してないのは周知の事実として、だけど」
声。後ろから聞こえたそれはリオにとって聞き慣れた男のものだった。
リオが振り返るより早く、男は橙へと右手を伸ばす。
ひょろりとした体躯に似合いもしないガラ物のシャツ、その上にジャケットを羽織ってはいたが、なで肩は隠しきれていない。ボサボサの髪の毛はどうみたって不審者じみていた。
それでも、一瞥してくる橙にリオは目で合図を送る――一応、害はないと。
握手を交わす二人を傍から眺めつつ、リオが男を紹介する。
「今のとこの不承不承の相棒、ルイージだよ」
「ルイージじゃねえ、レイジだ! アウトレイジのレイジだっ!」
男は喚いてみせたが、そのリアクションたるや五分前の自分と同じようで、リオはうんざりさせられる。
「
前のめりなルイージと後じさりぎみな橙。リオはそんな様を眺めながら溜息を吐いた。
橙は少なく見積もっても美人の類に該当する。声のトーンを抑えて格好つけてはいるが、ルイージのことだ。スマートに声を掛けることも出来ず、しばらく周囲をウロウロして聞き耳を立てていたに違いない――(この奥手野郎め)
「へえ、橙さんって言うの。そう。でもどうしてこんなところに? 見たとこ、ひとりっぽいけど。新宿の治安もだいぶ落ち着いたとはいえ、まだ女子高生のひとり歩きは推奨できないな」
余裕ぶった話し方で、勝手に話を進めるルイージ。ひとり、ってトコにこだわるあたり、ルイージの必死さが伝わるようだ。リオは身内の恥を曝しているようでモヤモヤして……。
『お前の呼び方なんてマリオでいいじゃん。俺、お前のこと女子として見てねーし』――そうルイージに上から目線で一方的に宣言されたのは、会って間もない一年前の話。当然リオは却下してやったが。
その後、リオはルイージに身の程というものを教え込んできたつもりだったが、どうやら彼の自己評価は当時とあまり変わりないらしい。
「でもホント、なんで新宿なのさ。橙ンチからは結構離れてるよな。ガッコもコッチじゃないだろし」
というか、そもそも今の状況で授業も何もあったものじゃないだろう。最初からリオは橙の制服姿に違和感を覚えていた。とはいえ、最近のJKとは制服を普段着として着回すものなのだろうか――程度の小さな違和ではあったが。
「良いか、橙ちゃん。ひゃあうっ……」
すでにさん付けからちゃん付けに距離を詰めたルイージが小さく悲鳴を上げる。
恋愛ベタ丸出しのダメな距離の詰め方に一瞬イラッとしながら、リオはルイージの視線を追った。
三人の男たちがすぐ脇を通り過ぎて行った。
ダンサーかと見紛うスラリとした体躯と長身の男が二人。少し後ろを一際いかつい筋肉をタンクトップから覗かせた大男がついていく。大男はスキンヘッドで、その頭部には、悪趣味なタトゥー――十字架を包み込む骨の両手――が刻まれている。
男たちは周囲を気にするでもなく話している。
「しかし、ここまでの惨状はKとS、それにお前の前任のWが殺された時以来かもな」
ダンサー1はスキンヘッドを一瞥すると、抑揚なく言った。バーテンみたいなスーツ姿。黒髪は前髪にだけパーマをかけて、そこから覗く瞳は氷のように鋭かった。
「目つぶし、耳もぎ、喉裂き。見ざる、聞かざる、言わざるの順に殺された時な。なんつったっけ? くそチャイマの
ダンサー2は誰にともなく大声で言った。こっちはもっとラフな格好。Tシャツに黒のニットパンツ、そしてサンダル。深めにサイドをツーブロックに刈ったモヒカン風。伸ばしざらした黒髪は後ろでひとつに結われていて侍風、というより野性味あふれる雰囲気は野武士っぽい。そこにワンポイント、かけたサングラスは一見して安物と分かるプラスチック製。
「『
スキンヘッドが見てくれ通りのドスの効いた声で答えた。
野武士はさも愉快そうに口端を持ち上げる。その後で、
「まあ俺がついてりゃあ、お前の前のヤツもそんなことになっちゃいなかったがなぁ。新しいWくんが殺される前に俺がその殺人猿を駆除してやっからよ。安心しな、Wくん♪ チョチョイのチョイっとよ、なあB?」
ダンサー1に向けて豪放に笑った。
男たちの姿が小さくなっていく。それを見送り終えて、女子ふたりの影に隠れていたルイージがようやく姿を現す。そして咳払いなんかしながら偉そうに語ってみせた。
「いいかい、橙ちゃん。発症騒ぎが収まったといえ、食糧難やらの暴動騒ぎが続いているのは君も知っているだろう? 感染者だろうと普通だろうとおっかないのは結局人間って話。特にここ新宿は、チャイニーズマフィアや『
「なによそれ?」橙だけでなく、リオが初耳のように問いただす。
「この界隈は昔っから悪い連中が入れ替わりで覇権を争ってんだよ。感染騒動以前だと、リアルで青龍刀振り回すチャイマの『
ルイージの説明にリオは冷めた表情で返す。
「なんつー説明台詞よ。ほんと男子ってそーいうの好きよね。てか、あんた絶対に実録ナックルスとか読んでんでしょ?」
ちょっと顔を赤らめたルイージは咳払いをもうひとつ。仕切り直す。
「今回の件のあと、結成当初のバウンサー気取りなんて忘れて、バンキッシュの害獣っぷりには拍車がかかってる。橙ちゃんも何か理由があるんだろうけど、早く家に帰った方が身のためだよ。特別な事情があるっていうなら、僕らの用事が済んだ後で、僕が代わりに請け負ったって良い。だからとりあえずラインの交換だけ……」
「そうだよ、橙。まだぜんぜん安全じゃないんだよ」
ルイージのどさくさ紛れを潰すがごとく、リオは機先を制した。
「外出やらの自粛要請も解かれてない街でJKひとり旅ってあんた、襲ってくれって言ってるようなもんじゃん」
分かりやすいくらいの不機嫌。唇をとんがらせる橙。それを見てリオはようやく気がついた。橙の首からぶらさがる、とても彼女に似つかわしくない代物に。
デジタル式の一眼レフカメラ――キャノン製のそれは結構値の張るヤツだった。
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