第二話 一持院胤光と鬼宿星――ワールド・トラベラーズ 2
熱海海岸で正座。あてどなく亡者が彷徨う砂浜で、胤光は寺勤めの頃に戻ったみたいに耳を傾ける。
「まず、お主が勘違いしている点から修正するとじゃな。そもそも世の中は昨日今日でこんな有様になったわけではない。この状態はかれこれ三ヶ月の間続いておった。改善の見込みが届いたのは四日前。そして決行日の今日を迎えた、という訳じゃ」
胤光の頭の中で無数のハテナが浮かぶ。だから当然のように、ありのままの事実を伝える。
「それは、おかしいですよ。だって昨日、俺は萌子さんに俺の誓いを、愛を伝えたばっかりですよ」
ジト目。表情をなくした少女の顔は、どこかキツネの面を連想させた。
「まだ懲りぬか。最底辺の屑ヒモ破戒僧が」
感情もなく吐き捨てて、さめざめとした嘆息。感情と一緒に説明する気も失せたのか、キラリは無言で右手を左の裾に突っ込むとゴソゴソし始める。
面倒臭くなったから終了の合図に脳天に鉛玉一発喰らわすつもりか――胤光は逃げ出そうとして、正座で痺れた足でもんどりうって砂浜に顔を突っ込ませる。
砂だらけの顔を上げた時、その前に差し出されていたのは拳銃、でなく一枚の手鏡だった。
「まあその辺は、ちゃちゃっと進めた方が良いの。自分の顔を見るが良い」
キラリに言われるがまま、胤光は手鏡を受け取ると自分の顔を覗き込む。
「あっ」と間の抜けた声が口から漏れる。
そこに映っていたのは、見覚えのない顔。それが自分と理解するのに時間が掛かった。
痩せこけた頬に伸び放題の無精ひげ。肌は乾き切って安アパートの砂壁みたいな色をしている。そんな酷い顔の方々にはいくつものアザ。そして歯型と思わしき古傷。綺麗に染めていたはずの金髪は、根元の方から黒くなっていて、いわゆる『プリン』状態。手品みたいに手鏡に仕掛けでもあるのかと疑ってみても、どうやらそれもないらしい。
つまりは、間違いなくそこに映るのは自分の――記憶にある昨日とは全く別人の――顔だった。
「『ロメロ・ウィルス』に感染、平たく言うなら『ゾンビ』化した瞬間より、人としての記憶は失われる。感染者に噛まれて感染した時点で、胤光、お主の人としての記憶も止まっていたというわけじゃ」
キラリは常識、とでも言うようにさらりと告げる。
「ロメロ・ウィルス?」
胤光がひとりごつように尋ねると、キラリは意地悪そうな笑みをたたえて。
「三か月前に突如として世界各地に広がった直接感染型のウィルスじゃ。鳥やら犬やら猿やら所説諸々、感染源の特定に各国の関係機関が振り回されている間に気付けばパンデミック。世界が滅ぶ一歩手前で、捕らえた発症者から日本橋のとある製薬会社が抗ウィルス剤とワクチンの生成に成功したとされるのが二週間ほど前の話。企業大盤振る舞いの特許無償で、世界中で大量生産。そして試験散布を経ての主要都市での一斉散布、その晴れの日が今日というわけじゃな」
胤光は莫迦みたいに愛想笑いを浮かべる。
「いや、そんな危険なウィルスに感染したっていうなら、俺が三ヶ月以上生きてるわけがないじゃないですか」
キラリの話す世界スケールの与太話に少しだけ胤光は体裁を崩した。余裕が湧きかける。
でも。
「胤光、お主はちゃんと尊の話を聞いておったのか?」
目じりにわずかの怒りを滲ませ、キラリは言った。
「ウィルスに感染した瞬間からお主は、世間一般のイメージで言うところのゾンビになっとった、と尊は言ったばかりじゃろ」
ゾンビ、と言ったのか――胤光の淡い余裕なぞキラリはあっさりと打ち砕く。
不快感が三度押し寄せて来る。空っぽの胃袋から吐き出すものなんてないと分かっているくせに。
(――つまり生ける屍、と)
「ゾンビ化するとのう、人間だった頃とは体のつくり自体が変わってしまうのじゃ。最低限の血肉さえ摂取すれば、数週間飲まず食わずでも生きられる。まあこの場合、生きている、という表現が正しいかどうかは不明じゃがのう」
最低限の血肉――キラリは確かにそう言った。
「嘘、だろ……」
胤光は吐いた。口から吐き出せるものなどないとわかっていたのに。何かを、なんでも良いから何かを吐き出そうとして。有らん限りに体の神経と細胞を総動員して、声を上げた。吐き出せるものなどないから、獣のように咆哮し続けた。
「ようやく産声を上げたのぉ、胤光よ。ことここにきて、人間の世界に輪廻転生を果たせたのう」
キラリは愉快そうに言った。
「人間は、感染者と非感染者に分かれる。お主のように感染する者が大半の中、非感染者はお主ら感染者の貴重な食糧になっとったという訳じゃなあ」
救いの手を差し伸べに――キラリはそう言った。だが潤んだ瞳で見上げた彼女の姿は、まるで真の地獄に叩き落とすために遣わされた悪魔……
胤光の顔面にぽっくり下駄の太い歯がめり込んだ。
「お主、いま悪魔でも見るような瞳で尊を見上げたの? 本当に覚えの悪いヤツじゃのう、お主は。仏門を叩いて齧ったことのある身なれば、そこはせめて悪魔でなく修羅や羅刹であるべきじゃろう?」
お見通しのように言った後で、キラリが嘆息する。
「お主の感情なぞ大事の前の小事に過ぎぬ。問題ですらないわ。良いか、本当の地獄が溢れるのはこれからじゃ。問題は、いま、その瞬間に立ち会ったお主が、仏門の徒としてその義務を果たす気概があるかどうかじゃ」
乾き切った唇が完全に割れていた。だが血も出やしない。痛みもありゃしない。だから、這いつくばったまま、胤光は見上げる。縋るように見つめる。
キラリは視線を十分に察したうえで、胤光が力なくぶら下げていた手鏡を奪い取った。
「これとて大層な『
三昧耶形――神仏を表す象徴物。言いながらそれを左の袖にしまうと、左手も同じく右の袖にしまう。収納性も不明な袖からゴツイ塊を取り出す。しかも今度は二つ分。
「――
一見して分かる重量級を、華奢な双腕は苦も無く持ち上げる。黒塊。しかして陰りゆく陽光を受けて輝くそれが、ただの黒色でないことに気付く。右に持つ方は濃い藍色、左に持つ方は鈍い灰色。二丁拳銃。六連装填の
胤光が呆然と見つめる中、キラリはその
弾ける火薬。風を切る弾丸。そして炸裂。三つの音が同時に聞こえた。
「『
静謐に、キラリの透き通った声だけが響く。
弾丸は胤光の頭上を通過していった。その衝撃波が左右の頬を震わせていた。なのに、胤光は目を離せずにいる。銃の衝撃を感じた様子もなく凛として立つキラリから。恐怖も忘れて。ただ見惚れていた。
だから、どさりと崩れ落ちる音が聞こえて、ようやく振り返る。
離れた砂浜には二体の死体。その死体の後方には、瞳に色のない人間たち。数十の群れ。理由もなく彷徨うように映る姿は、まるでその理由をこそ探し求めているよう。
キラリは言った。
「抗ウィルス剤は確かに完成した。人としての機能を完全に失うほどゾンビ化していた者たちはウィルスの死滅と共にようやく成仏することが叶った。じゃがのう、胤光。お主の如く、現世の肉体へと戻れた帰還者たちが、真の意味で人に戻れるかどうかは別の話。人か人成らざる者、つまりは白か黒。その
キラリが慈愛の瞳を向ける先、遺骸を胤光も見つめる。事実を直視したことで壊れてしまった有閑マダムの結末を。
視線はそのまま、不意にキラリが言った。
「お主には、神々が存在足るに必要なモノとは何か
呟きにも似たキラリの問いに、胤光は答える。寄る辺を失い、畜生道へと堕ちる寸前で人としての成仏を施させられた萌子を見つめながら。
「信仰――、ですか?」
「七点じゃな」キラリは解答も何点満点中の七点かも示すことなく続けた。
「神にとっても存在を揺るがしかねぬこの緊急の事態に、両界曼荼羅に名を刻みし全ての仏が、
キラリの言葉に胤光は我に返る。ことの重大さに気がついて。
確かにキラリの言っていることはもっともだった。人ともゾンビともつかない存在で溢れかえって、白とも黒ともつかない世の中になってしまう前に行動を起こすべきは正道だ。方法なぞ分からない。それでも、救いの為に身を挺すことこそが仏門の徒として、いま果たすべき責務だ。
だが――
「で、でもそんな重要な役割、俺なんかよりもっと適任がいるんじゃ……例えば、師匠とか」
だからこそに。罰当たりな破戒僧は、至極当然の疑問を口にする。
「インケイ、か……というか淫行の師匠が
「字違いですっ。師匠は血筋という意味の胤に恵むで……」
脱線甚だしいキラリ。さっさと核心に戻さなきゃと話の腰を折った胤光に、しかし横入りしてその説明を土台ごとひっくり返したのもまたキラリだった。
「胤惠なら死んだぞ。ゾンビに食われての」
頭の中が真っ白になる――師匠、死んじゃったのか……。
蚊の鳴くような声で問う。
「じゃあ、俺が選ばれたのって……」
キラリは、然もありなんと言った表情で、
「徳も名もある僧が生き残っておれば
がくりと項垂れることも許されず、
「さあ、さっさと立ち上がるのじゃ、胤光。手始めに砂浜の掃除から始めるぞ。お主の
立ち上がった胤光へと、
「破門された身とはいえ、
胤光は動いた。キラリに言われるがままに。
印相――砂浜の上に
真言――仏尊ごとにある、真実の言葉を意味する呪文めいた言葉を口にする。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・アビラウンケン――」
種子――その存在が秘めし本省や余力を示すただ一つ――唯識――の文字を告げる。
「大日如来法界定印――
両手を重ねた四指と親指との空間に脈動し続ける小さな球体が出現する。時折わずかの黒いシミを浮かび上がらせ、極小サイズの爆発を発する赤橙の光球。それはまるで小さな太陽のようだった。
「ふえっ!?」胤光の頓狂な声と共にプリズムが迸る。
それは光の帯となって胤光の法界定印より放出された。さながら強力なサーチライト。その光が命中した瞬間、離れた浜辺の彷徨える徘徊者――
「慣れれば胡坐をかかずとも
言ったキラリはその様子に目を細めて、
「大日如来の広大無辺な慈悲により、我を取り戻す者もいれば、ようやくにして成仏できたものもあろう――」
続けて口端を歪めながら、
「――本家の数万分の一の力とはいえ、これ程とは……。尊の思惑通りじゃな」
悪役めいた台詞を呟く。
ややあって胤光の冷やかな視線に気づいたキラリは、
「神仏の土着信仰にも似た一面を垣間見るなぞ、この不徳者めっ☆」
よく分からない例えとわざとらしいウィンクなんかした後で、これまた仰々しく合掌してみせる。
「良いか、胤光。お主と尊はこれで一連托生の間柄となった。尊は言うなれば、今世という道で迷ったお主を導くガイドにしてコンダクター。良いな、尊を信じよ。さすれば尊もお主を信じよう」
遥か後方で、沈みゆく西日が最後の輝きを放っていた。後光の差したキラリはまさしく神々しく、胤光も自ずと合掌していた。
「尊は
あの世に還ることも敵わず彷徨っていた霊魂は、今世で再び産声を上げた。キラリのいうところの旅とは、胤光が人としての何かを取り戻し、ひいては人としての魂の昇華、そして解脱に転ずることを目指すものとなるだろう。合掌。胤光は、混沌たる世に顕現されし神仏――鬼宿の星――と一体となる。帰依を示す。
しかして深き尊敬の念を示す胤光だったが、
「良いな、胤光。くれぐれも精進するのじゃ。お主の働き
キラリからがっかりなお言葉を賜った。
「上手くいけば菩薩部、いや如来部入りもあり得るか……いや、まさか!?」
ブツブツ言っていたキラリは真っ直ぐな瞳で、
「さあ、早く尊を胎蔵界曼荼羅の中央にならせろ!」
いよいよ本格的に悪役じみた台詞を吐いた。
なので胤光は――
驚愕に震えつつ、
「いや中央って。キラリさんの鬼宿星、そもそも胎蔵界曼荼羅じゃ外側も外側、
マニアックな突っ込みをいれた。
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