第一話 一持院胤光と鬼宿星――ワールド・トラベラーズ 1


 夢をみていた。気がする。

 不条理と戦う夢を。

 それは例えば、タイムカードのないブラック企業とか。格別旨味もなさそうなこんな世の中を支配しようとする悪の軍団だとか。

 泡沫の夢の断片は曖昧模糊に溶けていく。

 今はもう思い出せない。だからそんな夢を見ていた気がする。それだけの話。

 非現実的な話だったとして、たいがい夢とはそういうものだ。

 だから夢の終わりは非現実の終わり。

 そして覚醒は現実の始まり。


 そのはずだった。

 


   ☆



 水平線の彼方へと傾き始める太陽。突き刺すような西日に目が眩んだ。

 たなびく雲が数本、薄く開けた瞳に映った。それを追った先には軍用の輸送機――C‐2――が三機。スモークを噴出させながら、北を目指して飛んでいく。

 煙状の白はやがて粉雪のように舞い落ちて、星屑のように煌めいて、青く澄んだ空に消えていく。溶けていく。


 辺りに微かに漂う白い粉塵。周囲の砂が舞い上がったせいじゃないってことくらい、回らない頭でもなんとなく当たりがつけられた。相模湾の人口浜、そこに広がる砂浜の物とは質が、何より色が違っていた。


 砂浜ではたくさんの人が日光浴を楽しむように寝転がっている。しかし季節外れのように涼しげな――初秋を思わせる――風が通り過ぎていく。


 鼻腔に貼りついた粉塵を吐き出すようにせき込む。ふいに何か別のものがこみ上げてきて、膝から崩れおちて盛大に吐いた。ありったけの胃液を吐き出して、腹の中が空っぽになっても吐き気はしばらく治まらなかった。

 深呼吸を繰り返す。落ち着きを取り戻して立ち上がった時、ようやく自身の異変に気がついた。そして再び理性を失った。


「なんだ、これ……?」


 数分前まで新品だったはずのシャツも七分丈のパンツも所々が破れ、元の色が分からない程の汚れにまみれている。そして屋外だというのに、乾いた空気に混じる籠ったような悪臭。堪らず口元を覆った時、それが自分の手、いや体中からも発せられていることに気が付いた。

 再びこみ上げる嘔気。胃のむかつき。狼狽するように二歩、三歩と後ずさると、足を取られて砂上でひっくり返る。

 したたかに背を打ち付けた後、


「ひぃいいいいい」


 タイミング遅れで悲鳴を上げた。

 足に引っかかった物の正体を察したからだった。水着姿の青年、だけど体のあちこちが肉食獣の檻にでも入れられていたかのように食いちぎられている。絶命している。


「なんだこれ? なんなんだよこれはっ!」


 男は砂浜を見渡した。

 日光浴に興じていたと思った人々、それらは全てそんな有様だった。

 中にはぴくぴくと両手足を震わせるビキニ姿の若い女性や、小鹿のように立ち上がろうとする中年男性の姿もあった。だが、それが元の姿に戻らないのは一目瞭然だった。

 累々たる死者の山。そこから這い出てきたような亡者の群れ。一面の地獄絵図。

 辛うじて人としての動きを思わせるそれらも漏れなく土気色の肌をしている。紛れのない生の残滓。死神の鎌は既に喉元に押し当てられていた。もうどうしようもなかった。何をどうしたって救いなんてものは存在しなかった。

 声も出なかった。死に行く者へ駆け寄ろうなんて気すら起こらなかった。ただ立ち尽くすことしか出来やしなかった。


「……聖夜せいやくん」


 ふいに聞こえた声――潮風が運んできた幻にも似た。それでもすがるように振り返った。


萌子もえこさん……」


 瞳から涙が溢れ出す。


「萌子さん、萌子さん、萌子さん」


 彼は駆けだしていた。愛しい女性の名を繰り返しながら。

 二人だけの熱海旅行。新調したはずの白のワンピースは血が変色したような錆色で塗り潰されている。艶のある黒髪からは水分が失われ、一部が顔に貼りついていた。虹色のマニキュアが施されたネイルチップは、数本が剥がれて手負いの獣を連想させる。


 だけど、それがなんだ。


「萌子さん、萌子さん、萌子さん」


 まるで世界の終わり。そんな中、生きていてくれた。彼女だけは生存していてくれた。それがすべてだった。それが何よりの救いだった。


「萌子さん、萌子さん、萌子さん」


 記憶はごっそり抜け落ちていた。この数分か数時間か、何が起こったのかさっぱり分かってはいない。


 だけど。


(俺は二度と彼女を離したりしない)

 

 彼女の温もりを――彼女の存在を――確かめるために駆けよる。あとちょっと。手を伸ばせば彼女に触れられる、そんな距離。彼の歓喜へと応えるように、


「……聖夜くん」


 彼女も名を呼ぶ。

 しかしその声に力はない。幽鬼のようなかお、その双眸を見開くや、


「わぁ、わだじぃ、もお無理ぃぃぃぃ耐えられないぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」


 発狂したように叫んだ。

 悲鳴も上げられなかった。骨と皮だけになった両腕。まばらに尖った爪。開かれた口から覗く歯は所々が抜け落ちている。そこに在るのが誰なのかも理解できない。

 振り回された両腕。付け爪が弾け飛ぶ。呆然としたままで男は尻餅をついた。躊躇なく右の肩口へ咢が食い込む。瞬間、痩せ細った歯茎で支えきれなくなった歯が数本あさっての方へと飛んでいく。


 と同時に、彼女の頭部が木っ端微塵に吹き飛んだ。


「萌子、さん……」


 つぶやきは遅れてきた轟音に掻き消される。


 音の消えた世界で、すべてが乾いて見えた。セピア色、なんて感傷的なものじゃなくて。現実に。景色が。彼女が。自分自身すらも。

 大の字に倒れた彼女、頭部のないその亡骸を呆然と見下ろす――ようやくそれが誰だったかを思い出しながら。実年齢よりも若く見られると誇らしげだった意識高い系の美熟女は、最後の間際、痩せこけ、歯茎が抜け落ちて実年齢より遥かに老いていた。


 永遠のような、刹那のような時は過ぎ、やがて音を拾い始めた聴覚へと、


「またつまらぬ魂を救ってしまったのう」

 

 声が聞こえた。


 それは呆然と膝をつく男の後方から。声の出所へと彼はゆっくりと振り返る。

 そこに一人の少女がいた。和装ゴシックとでも表現したら良いのか、牡丹の花の散った黒の振袖風に丈の短い裾をふんわりとパニエが広げて見せる、いかにも場違いな少女が。


「ぬっふっふ、そん羅喉ラーフ火を噴いノヴァっちまったぜ、じゃ」


 少女は立ち昇る硝煙をわざとらしく吹き消すと、手にした回転式拳銃を左の袖へとしまい込んだ。


 せいぜいが中学生といった容姿。その透き通るような肌に誇張したかのようなメイク。まぶたと唇に引かれた紅は、まるで子供が背伸びして大人の真似ごとをしたかのようで、なおさらに少女を少女として肯定しているよう。だからこそ、その右手に先刻まで握られていた黒くてゴツイ塊とのギャップに呆然とさせられる。

 和洋折衷。黒地の振袖にミニスカートを掛け合わせたような姿。後ろでリボンのように結ばれた袋帯の帯締めや、振袖を彩る牡丹の柄は赤。統一された色のモチーフは漆黒と真紅。膝まで届く長いツインテールを留めた髪飾りも同じく血のような赤色をしていたが、湾曲して先の尖る形状は鬼の角を連想させた。


「阿鼻叫喚の地獄絵図に空空漠漠くうくうばくばくといった表情じゃの?」


 男の、いや世界の混乱を愉しむように、嘲るように、少女は朗らかに言った。小さな口から八重歯が覗く。


 確かに訳が分からなかった。だがそれよりなにより、遅れてやってきた感情に男は身を任せて声を荒げる。


「どうして……だ? どうして萌子さんを殺したっ!」


 少女を睨み上げる。呪いの如く吐き出される言葉は重ねる程に、淡く甘い彼女との日々を甦らせた。乾き果てたはずのまぶたから涙が溢れ出る。


「萌子さんは、俺を救ってくれたんだ。命の恩人だったんだ。俺は、俺は彼女の愛に応えるって、そう誓ったばかりだったんだ。なのに、なのに……」


 昨夜のことを思い出す。ベッドの上で伝えた宣誓を。それに応えてくれた彼女の微笑みを。そして、そして――


「だまれ、最底辺のホストにすら成れん屑ヒモ野郎がっ」


 萌子さんとの美しい思い出に浸っていた男の顔面に、ぽっくり下駄の太い歯がめり込んでいた。

 気勢は完全に挫かれる。少女はまるで虫でも見るように男を見下ろしていた。


「だって、だって……」言い訳がましく言葉を紡ごうとするが、赤い紅のひかれた小さな唇はそれすら許さず罵倒の言葉をまくしたてる。


「なぁにが愛に応える、じゃ。お主なぞ、ホストの才能もなくて客が全然つかんかったことに憐れんだ有閑セレブの気まぐれで構ってもらっとっただけの小者じゃろうが。愛? お主なんぞ、そこな女にすれば愛玩動物ペット以下の暇つぶし。で、お前自身はそれ以下のごく潰し。それを熱海旅行に誘われたくらいで勘違いしおってからに」


 圧倒的。ぐうの音も出ない。それでもなお少女は、完璧に男の心をへし折りにかかる。


「そもそもじゃ。ホストの志望動機からして屈折しておる。お主は全国のホストに対して謝罪の行脚あんぎゃに赴くべきじゃな。なんじゃお主の糞みたいな動機は? 寺勤めの修行僧が後妻の未亡人に手を出して破門されたから、ってどういう了見じゃ。莫迦か? 莫迦なのかお主は?」


 脳内で炸裂する罵詈雑言が、男の精神を削ぎ落としていく。ああ、心と頭って繋がっているんだな――なんて客観的で逃避ぎみの思考ゆえ、違うんです手を出してきたのは向こうなんです、と反論を挟む前にぼんやりと差し込んだ疑問。


(どうしてそんなに俺のことに詳しいの?)


 それを察してか、少女はぬふんと鼻で笑う。

 ふんぞり返るとミニスカートから伸びた細い足が露になる。そこには一見、フリルの施された白いハイソックス。でも赤い鼻緒の下駄を履いているのを見るにソックスではなく足袋らしい。


「お主の行いはとても褒められたものじゃないがの。だが、だからこそにじゃ。こうして尊が現世の業からお主を解き放つため、救いの手を差し伸べに来てやったというわけじゃよ。のう――インコウ」


胤光いんこう、いま、そう言ったのか?)呆然とする。


「あなたは……あなたは一体何者なんですか?」


 戦慄くように尋ねると、


「尊の名は、きしゅくせいの鬼宿星たまほめキラリじゃ。キラリちゃんと呼んで構わぬぞ☆」


 彼女は八重歯を覗かせて高らかに告げた。

 鬼宿星きしゅくせい――魂緒たまおの星、魂賛星たまほめぼしとも呼ばれる二十八宿のひとつで、南方朱雀七宿の第二宿。宇宙を示す胎蔵界曼荼羅たいぞうかいまんだらにおいては東方上部に配置されている。


 ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐る尋ねる。


「そ、それで、あの、キラリちゃんは――」


 男の顔面にぽっくり下駄の太い歯がめり込む。


「やはり却下じゃ。お主にちゃんづけで呼ばれると、なんかムカつく」


 有無をも言わさぬ純然たる暴力。完全に被害者は男のはずなのに、キラリは両手で身を庇うようにして、


「そもそもがじゃ、一持院イチモツいん淫行インコウとはなんじゃっ! そんなおぞましい名の男にちゃんづけで呼ばれると精神的に犯されている気になるわっ!」

 

 犯罪者の如く糾弾した。


「字違いですっ。一持院いちじいん胤光いんこう、血筋という意味の胤に光というたっとい意味を込めて師匠がぁ……」


「紛らわしいんじゃ、屑ヒモ破戒僧が。それもこれも名が体を表しとらんお主の人生がゆえ、もありなんわ」


「というかそれ以前に、俺には胤光じゃなくて聖なる夜と書いて聖夜というゴージャスカッコいい名前が」


「なにが聖夜じゃ。どこが聖夜じゃ。屑ヒモ破戒僧の分際で人の名で呼んでもらえると思うなぞおこがましいわっ。尊の威光において戒名で呼んでもらえるだけでもありがたしと思えっ。まあそんなことは置いといて、お主何か聞きたげじゃったな?」


 弁明も説明も空しく、キラリは胤光の冤罪と尊厳をなかったことにした。やる瀬もなく、胤光は無理やり気を取り直して。


「えっと、それで、キラリさんはどうして昨日今日で世の中がこんな地獄みたいな惨状になってしまったのか、ご存じなのでございましょうか?」


 キラリは吊り上がりぎみに見せる、祭りの踊り手風メイクに彩られた大きな瞳を満足そうに緩めて。


「うむ。迷える仏門を……まあ、お主は破戒僧じゃがの、導くのも胎蔵界曼荼羅に名を刻みし尊の使命じゃ。とっくりと説明してやろう」


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