白百合と祈り

「──そうして、瀕死だったゼルと、わたしが出会ったわけだ……」

 ジェイルは未だに目覚めない。

 必要だったとは言え、凄惨な過去を追体験させるという荒療治のショックは計り知れなかったのだろう。

 僅かな浅い呼吸以外は、微動だにしない。

「……そんなことが……」

「最初の一年は本当に大変だった。深夜に飛び起きて発作的に自決しようとしてな……正直あの頃は鍛錬どころではなかった」

「……」

 ルチルは押し黙り、涙を溜めながらジェイルを見つめる。


「戦に負け、王が姿を眩ませるのと同時に、わたし達は敗残兵となり、例の神殿の地下に幽閉された。そこで反省会と名ばかりの糾弾が何十年も行われた結果、わたしは最低限の生体機能以外を破壊されたまま、長い年月が過ぎるのをただひたすらに待ち続けた……そんなわたしを、ゼルは助けてくれたんだ。……いや、おかしなことを言っているのはわかっている。こんなこと、とてもゼルには言えない」

「……アリアもジェイルを本当に大切に思っているんだな。それは、少し安心したよ……」

 アリアが不意に紡いだ、自らの出自をさらけ出す言葉に、ルチルは鼻をすすりながら優しい声で答える。

「……さあ、そろそろいつもの御者が来てくれる頃合いだ」

 アリアはルチルから顔を隠すように背けると、努めて抑揚のない声でそう答えた。



 断続的な弱い振動と、車輪が回る音。

 それと、誰かの寝息。

「……」

「ゼル」

 仰向けで寝かされているジェイルが、声の方向に顔を向ける。

「……アリア」

「心配いらないぞ。マーティスの仕事ぶりはいつも通りだ」

 ここは、よく見知った王国軍の馬車内だ。

 あれからどれほどの間、眠っていたのだろう?

 ズキズキと、頭が酷く痛む。

 寝息の方向に目をやると、ルチルが床の上に倒れこむようにそのまま眠っている。

 傍に置いてある水が入った樽、自分の額に掛けられた濡れた布…どうやらルチルが率先して看病してくれていたらしい。

「……何か、ひどく懐かしい、長い、長い夢を見たような……」

 渇いた喉から枯れた声を絞り出す。

「そうか、今はゆっくり休め」

 アリアのその声色からは、アリアがこの話題に触れさせないようにしていることが察せられた。

 それが、何より自分の為であることも。

 そう言えば、いつからこの娘は、こんなにも人間らしく振る舞えるようになったのだろうか。

「ルチルには、話したのか……?」

 天井を向いたまま、問いかけるジェイル。

「……ああ」

「そうか……」


 アリアの返答に、目を閉じ、小さく溜息をつくジェイル。

 今までに自身の過去を詳細に知るものはいなかったが、存外、不愉快な気持ちではなかった。

 そしてしばらくの沈黙の後、ジェイルが二の句を継ぐ。

「──アリア。マーティスに伝えてくれないか?ルチルを起こさないように」

 ジェイルの頼みに、アリアは意図を探ろうと質問する。

「急ぎの用か?」

「王都へ戻る前に、墓地へ向かって欲しいと」

「……わかった」

 会話の後、ジェイルは黙り込み、ただ馬車の天井を見つめ続けていた。




 ──ゼルについて行ってやってくれ。

 アリアにそう言われたルチルは、重苦しい雰囲気を感じながら、アトラス郊外の軍人墓地の入口をくぐる。


 五メートルほど前方には、無言で順路を進んでいくジェイル。

 その右手には、直前の町で購入した、白百合の花束。

 常駐している墓守によって手入れされた墓は、どれも清潔に保たれている。

 その中でも一際目立つ、純白の墓石の前で、ジェイルは立ち止まった。


 ラピス=クロックフォード

 墓石には、その名だけが刻まれていた。

 ジェイルが墓前にそっと花束を手向け、両手を胸の前で合わせて祈ると、ルチルもそれに倣う。

 やがてそれが終わった後も、ジェイルは墓石を見つめて動かない。

「……ジェイル……」

「すまないな、付き合わせてしまって……ここに誰かと連れ立って参る日が来るとは、思いもよらなかった」

 ジェイルはルチルに背を向けたまま言う。

「アリアは、一度も?」

「自分が祈るのは、おかしいと言ってな……」

「でも、ジェイル……もし気に障ったら、心から謝るしかないけど……ラピスさんは、その……幸せだと、思うよ」

 ジェイルの動きが、不意に止まる。

「……」

「愛しい人が何年経っても、自分の冥福のために祈り続けてくれるなんて、それはとても嬉しいことだと思う…きっと、私なら、嬉しくて泣いてしまうと思うよ……」

「……そう、か。そう、思ってくれるか……」

 ジェイルの語尾は、不意に込み上げる感情の波に飲まれ、尻切れになる。

「うん……」

 優しく肯定したルチルは、それ以上は何も言わず、また、俯き震えるジェイルからもそっと目を逸らし、ただ時が過ぎるのを待つ。

 そうして数分経った後、ジェイルが元の様子で言う。

「見苦しいところを……」

「……気にしなくていいよ」

「本当は、自分もよく分かっている。彼女はもう、どこにもいない。無論、この墓の中にも。そうして置いていかれた者は、在りし日々を、ただ繰り返し思うだけだ」

 ジェイルの瞳はもう、何も見ていない。

 手向けられた花束が、風を受けて微かに揺れる。

「もう、終わらせなければ」


 ジェイルのその台詞に、ルチルは何かを強く決意した表情で切り出す。

「ジェイル、これだけは聞いておきたい。すべてを終わらせた後、君は一体どうするつもりなんだ……?」

「……」

 質問の意図を察したジェイルは、まるで叱られる子供のような、ばつの悪そうな表情をして、黙り込む。

 沈黙の意味するものは、一つ。


「私は、亜人種なんだ。素直さだけが取り柄なんだ……!」

 呟くルチルの目は、ジェイルと同じく、充血して赤い。

「ジェイル!君は……アリアと私を、今の君と同じ気持ちにさせようとしてる……!」

「──そんな大袈裟なことじゃない。手負いの獣が、予後不良で勝手に死ぬだけだ」

 その一言に、ルチルの顔色がにわかに変わる。

「ッ…!言っていいことと悪いことがあるぞ!ジェイル!!」

 まるで他人事とでも言うような態度に、ルチルは左手でジェイルの襟首を全力で掴み上げながら、およそ彼女自身が発したことのないほどの声量で、彼を叱りつける。

 そして右掌を大きく振り上げ──

 ジェイルは予想だにしない厳しい叱責に、驚きを隠し切れず、思わず無防備に目を閉じる。

 しかし、甘んじて受けるつもりだった平手打ちは、飛んでは来なかった。


「ごめん……君の覚悟を否定するつもりはないんだ。だからと言って私には、君の苦しみをどうにかする方法も思いつかないんだよ……だから、どうか、頼むよ……そんな結末ではあまりにも、あまりも悲しい……」

 ルチルはジェイルの両肩に手を置き、涙を零しながら心から懇願する。

 しかし──

「……ルチル。人の身の上で、神を殺すほどの大業を成そうとするなら、この命だけでは到底足りない。本来なら……」

「……」


 ルチルの引き続きの無言の抗議に耐えかねたジェイルの雰囲気がふと、不自然に切り替わる。

「……しかしまあ、もし万が一にも無事に仇討ちを果たしたその時には、そうだな。田畑を耕してのんびりと暮らすのもありか」

 そう言いながらジェイルが浮かべた作り笑いは、余りにも、下手過ぎた。

 ここまでわかりやすい嘘を吐く人間を、ルチルは今まで見たことがなかった。

 しかしそれでも、彼女はただ黙ってジェイルから目を逸らし、俯く事しか出来なかった。



 ──同時刻、イースレイ上の何処か。

 オルディウムの大群に蹂躙され、廃墟と化した街。

 その中でもひときわ高い塔の頂点付近に、その場にはそぐわない小柄な人影が二つ。

「──やはり、未だお姿は見えないのか」

 金糸であしらった意匠が目立つ、ローブのような服装に身を包んだ少女が問い掛ける。

「あの忌まわしい神殿に囚われの時はまだ良かったと考えてしまう───たかが十五年。だが、我が王にお会い出来ずに駆けずり回るこの十五年は、余りにも長過ぎる……」

 心底辛そうな声で返答するのは、あの日。

 ジェイルの運命を決定付けた張本人、光の祟り神。

 セラ=カルザハイト。

 ジェイルからすれば、正に不倶戴天の仇だが、あの日ジェイルの運命を嬉々として蹂躙した存在と同一とは到底考えられないほど、憔悴した様子を見せていた。


「しかし……道化師に追い詰められた時の、あのようなあられもないお姿、見たくはなかった……」

「口を慎めローザ。第弐荒御魂とはいえ、看過出来んぞ」

 ローザと呼ばれた少女が漏らした一言に、打って変わって厳しい表情で詰問するセラ。

 その様子は正に、信仰対象を貶められた狂信者のそれだ。

「──軽んじるつもりなど毛頭ない。お前には及ばないだけだ。済まなかったな」

 もう慣れっこという様子で、セラを宥めるローザ。

「まあいい……実は、もうこちらの方が耐えられそうもないのが現状でな」

「……」

 セラが弱々しく心情を発露すると、ローザは沈黙で返答する。


「ローザ。我は、禁を破る」

「──馬鹿な!いくらお前でもどれほど厳しいお叱りを受けるか理解して……そうか、そうすれば」

「あの方に、一目逢えるだろう?」

 今度は、正に恋煩いの少女の、憂いに満ちた表情でセラは続ける。

「例え、その場で自壊を命じられても一向に構わぬ……もう一度だけ、あの方にお逢い出来たなら」

「泳がせておいた、やつらを刈り取る時は、今か……」

「そうだ。決して認めたくはなかったが、あのお方の一番のお気に入りだったアリアを討てば──我はそれに賭けることとする。ローザ、お前にも引き続き働いて貰うぞ」

 そう言い放つセラが浮かべる邪悪な笑みは、あの神殿でジェイルに見せたものと、やはり同じだった。



 任務から戻った後、またもジェイルの自宅に招かれたルチルに、アリアの手料理が振舞われるも、彼女の様子は暗い。

 その空気は二人にも伝播し、今夜の三人の会話は口数少ないものとなってしまっている。

 その原因に自覚のあるジェイルは、食後早々に家から出て、独り無心に刀を振る。

「何か言いたそうだな」

 アリアが、食器の片付けをしながらルチルに水を向ける。

 ルチルもまた、何かを強く覚悟した様子でアリアを真っ直ぐに見据える。

「──もう、やめることは出来ないのか?ここまでやったんだ。もう、いいんじゃないか……死闘の果てに擦り切れて斃れるなんて、ジェイルには、そんな終わり方をして欲しくない。アリアだって、本当は、そうなんだろう……?」

「それは出来ない。わたしは祟り神だ。神子の唯一の希望を違えるなど、おかしな話だ」

 アリアは冷たく返答するが、そこには確かな動揺の気配があった。

「おかしくなんかない。今一度聞くが、君の、君自身の希望はどうなんだ?アリア……君も、ジェイルに生きていて欲しいんじゃないのか……?」

 ルチルの深く切り込んだ問い掛けに、アリアの手がピタリと、止まる。

 そして、実に十秒以上の沈黙の後、アリアが絞り出すように言葉を紡ぐ。

「わたしは、人を殺すしか能のないわたし達をこの世から消せればそれでいい。わたし達は、みんな消えるべきなんだ……わたしが、それ以上望んでいいことなんて、ない」


「嘘だ……じゃあ、なんで、なんで泣いてるんだ」

 ルチルの指摘に、アリアはまたしても黙り込む。

 彼女が思わず指を頬に当てると、確かに、無色の液体が頬を伝って流れていた。

「……これ、は、いや。わたしは泣いてなどいない。兵器は涙など、流さないんだ」

「流してる!現に今……」

 否定するアリアに、近付いたルチルが勢い余って手を添えたアリアの首筋は、酷く冷たかった。

 そして、ルビーのような真紅の瞳は、やはり死を想起させる原始的な恐怖を湛えている。

「うっ……」

 全身を駆ける怖気に、ルチルは思わずうめき声を上げ、アリアから目を逸らす。

「ほらな、言っただろう」

 アリアは自然な動きで手の甲でさっと目を拭うと、いつもの様子でルチルに言う。

「違う!君の本質は、違う!」

「……やりにくい人間だ。本当に……」

 折れないルチルの必死の語りかけに、アリアは何とも複雑な表情を見せる。


「──わたしが何人殺したと思っている。他者の絶望で腹を満たす、そもそもそんな存在が許される筈がない。身に余る希望など、端から持ち合わせていないんだ」

 ルチルに背を向けてからそう続けたアリアは、そのままリビングから出ると、後ろ手で静かにドアを締めた。



 それから自宅に戻って数日経った後も、ルチルの様子は暗い。

 蓄えは十分にあるという怠惰な安堵も相まって、能動的に何かを成すことの意思を、彼女から根こそぎ削り取ってしまっていた。

「……」

 ルチルの家はオルディウムの研究室も兼ねているので、隣人に迷惑の及ばぬよう、市街地から少し離れた区画にある、中古の戸建に一人で住んでいる。

 壁際に所狭しと並べられた本棚には、魔導書やオルディウム関係の学術書がぎっちりと詰められていた。

 前の住人が残していったロッキングチェアに腰掛け、ルチルは無言で、何をするでもなく、膝の上に置いた例の古書の表紙をぼーっと眺めている。


 その時。

「サーシャ……」

 ここまで脱力しているにも関わらず、ほぼ無意識に展開していた索敵術式が検知したのは、よく見知った戦友の気配。

 続いて、ノックされるドア。

「入ってくれ」

 立ち上がり、出迎えたルチルが言う。

「や、久し振りね」

 しばらく振りに会う彼女は、見慣れない奇妙な形の弓を背負い、纏う雰囲気も少々変わった様子だった。


「あの後会いに行ったんだが…帰郷していたんだってな」

 先ほどまでの気の抜けた様子と打って変わって、とはいかないが、客人をもてなすためにお茶の準備をしながら、ルチルが言う。

「おかげさまで、今回まとまった収入があったからね。実は、今回初めて帰ったんだ」

「家出同然で飛び出した、と言っていたのを覚えてるよ」

 まだ会って間もない頃、彼女が叔父に反発して故郷を去った話を聞いていた。

「で、その人には会ったのか」

「会えなかった」

 サーシャにしては珍しく、含みを持たせる短い台詞。ルチルは、それに気付いた上で尋ねる。

「……どうして?」

「──ちょうど半年前。オルディウムと、刺し違えたんだってさ」

「そう、か……」

 サーシャの雰囲気が少し違うと感じたのはこのせいだったようだ。

「…どんな人だったんだ?」

「頑固で、意地っ張りで、でも父さんより弓が一段上手かった。と言うか、一族で一番…だから、私も余計悔しかったんだ、認めてもらえなかったのが」

「今のサーシャを見たら、誰でも認めざるを得ないだろうがな…」

「そう言ってくれるけど…多分今でもおじさんや父さんには敵わないよ。でも今回、オルディウムよりももっと人知の及ばない存在がいるってわかっちゃったから……やっぱり、人が勝てない存在がいるんだなって。ふと、そう思っちゃって。おじさんにも会えなくなる前に会わなくちゃって、そう、思ったのにね」

「…そうなんだよな。急に、二度と会えなくなるんだ」

「それも謝りたくて、ルチルに。本当に、ごめんね」

「気にしてないよ、言っただろう。それより、その背負ってるのは…? 」

「アリアちゃんがね、くれたんだ。化合弓って言うんだって」

「アリアが?」

「故郷に行く夜にね、ふらっと訪ねてきて。口約束では終わらせないとか言って。アトラスに戻る頃には出来るから、ランドール工房まで行って受け取ってほしいって」

「確かにそんな話をしてはいたな…」

「私がジェイルを嫌ってたから。それが、アリアちゃん的にはつらかったんだって。『人の気持ちを物で贖うことは出来ないとは理解しているが、それでも受け取って欲しい』ってさ」

「奇妙な形だ。兵器とは思えないな…」

「本当にね。でもこれ、本当にすごかったよ。実はルチルが来られない間だけ、近場で簡単な討伐任務をしてるんだけど、弓の威力が上がった分、魔術師の支援がなくてもギリギリこなせるって感じ。早く戻ってきて欲しいけどね」

「…すまない。今はまだ…」

「待ってるからね。で、すごいものをもらえたってことはもちろんなんだけど、なんかね、あの不器用な二人が、幸せになれるといいなって、ふと、そう思ったんだよね」

「幸せ…」

「そ。多分ね、ジェイルは死ぬ気だよね。会った時から、それは分かってたよ。そういう奴なら、それで終わってもまあ、仕方ないねって思ってたんだけど…アリアちゃんがね、いるから。あーダメだって。ジェイルも死んだらダメじゃんって」

「…そうだよな、本当に。私も、そう思う」

「あとは、もちろん。ルチル、あなたもね」

 そう言ってサーシャは優しく微笑む。

「あ…え…え?」

 思わず狼狽するルチル。

「好きになっちゃったんでしょ、あいつのこと。本当、趣味悪いけどね」

「──いや、その。そういう感情かどうかはよくわからないが。…そうだな、死んで欲しくないと、無事に生きていて欲しいと、本当に思ってる」

「今はそれでいいんじゃないの。年上のあなたに言うのもおかしいけどさ。でもそうなら、アリアちゃんに勝たなくちゃね」

 サーシャが冗談めかして言う。

「そんな単純な関係ではないんだ、二人は…」

 複雑な思いを整理し切れないまま、ルチルは続ける。

「でも、どんな形でも、二人には幸せになってもらわないとな…」

 ただただ、純粋な祈りを込めてルチルはそう呟いた。


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