追憶

 ──生まれる時や場所が違えど、せめてその終わりの時だけは。

 互いにそう心より願うほど、彼らは深く心を通い合わせていた。


 煉王暦三三八年九月下旬

 ジェイル・グリムハルト、二十歳。

 生まれ故郷、デパス王国にて。

 彼の記憶の中、そして記憶の外。

 これは、彼の人生を一変させた出来事の顛末だ。


 ズドン!


 轟音に一拍遅れて、がらんっと派手な音を立てて地に落ちたのは、安価な青銅製の兜。

 ただし、それは中央からほぼシンメトリーに真っ二つに切り離されている。

 その断面は、鏡のように滑らかだ。


 デパス城内地下、特殊工作部隊員の訓練室。

 ジェイルは、緊張を切らさぬまま大型のマチェットを腰の鞘に納めていく。

 そしてわずかな鍔鳴りが鳴った後、彼は大きくガッツポーズした。

「よし!」

 心底嬉しそうなその表情は、少年のような無邪気さを感じさせる。

 今の彼とは、まるで別人だ。


 床を見れば、同じような兜がそこら中に散乱している。

 ただし、どれも深々と切りつけられてはいるものの、離断はされていない。

 時刻は午前一時半。

 彼はここ数日、ひたすら『兜割り』の訓練に明け暮れていた。

 青銅製とはいえ、分厚い金属を剣で両断するということは容易なことではない。

 若干二十歳にしてこの芸当を成すには、優れた才能と血の滲むような努力、どちらも不可欠だ。


「──明日は非番だからってどこまで追い込むんだ君は。でもまあ、成功おめでとう」

 突如ジェイルにかけられるのは、澄んだトーンの若い女性の声。

 いつの間にかジェイルの背後には、亜人種の少女が立っていた。


「……ラピス。息をするように隠匿術式を使うのはやめてくれ……先に帰るように伝えただろう」

「わたしの気配を察知できないようでは、君もまだまだだな」

 突然背後を取られ動揺を隠せないジェイルと、いたずらっぽく口角だけでニヤリと笑う、ラピスと呼ばれたスノーエルフの少女は対称的で、二人の関係性は、仲が良いだけというより、一目でそれ以上のものを感じさせた。


「一体いつからそこに?」

「君が鼻歌歌いながらマチェット研いでる時からだな」

「──いやいや。それ、この訓練始めた時だぞ?」

「流石のわたしも魔力が保たないんで、コレをフル活用させてもらった」

 彼女が手に持つのは、デパス国王より直接下賜された、特殊な杖だ。

 事前に大量の魔力を貯め込むことが可能で、術式の展開時間を大幅に伸展出来る。

 国内の遺跡から出土したロストアームズの復元に奇跡的に成功した代物で、正に国宝と呼んで差し支えないほどだが、満足に使いこなせるのは国中を探しても彼女しかいないという。

「急な作戦に備えて貯めてるんじゃなかったか……?」

「まあ大丈夫だろう。今まで必要だったことないから。それより剣を振る度に一喜一憂してる君を見てたら、本当に面白すぎてね」

 そう言って亜人種の少女は、今度は屈託のない心からの笑顔をジェイルに見せる。

 するとその輝きに、ジェイルは思わず目を奪われてしまう。

 ジェイルの心臓は大きく鼓動し、甘酸っぱい感情が彼の心中に湧き上がる。

 そもそも控え目に言っても彼女の容姿は、端麗と表現するに相応しかった。

『傾国の─』と表現する者がいても異を唱えるつもりは毛頭ない……少なくともジェイルは心底そう思う。

 スノーエルフという種族名の由来の、透き通るように白く、きめ細やかな肌と、艶やかな銀色の髪。

 ジェイルは彼女を真っ直ぐに見据え、こうも思う。

 このまま時が止まってしまえばいいのにと。


「──見過ぎだぞ。まあ、私の美貌をゴニョごにょ…」

「……照れるなら始めからやめとけ」

 どっと二人は笑う。

 それが当然であるかのように。


「さあ、いい加減にもう帰ろう?」

「そうだな。ラピスも明日は非番だな?しっかり休んで、昼過ぎから何処か行こうか」

「ふふ。隣町にサーカスが来ているんだと。ほら、チケットもこの通り」

「人気で即完売と聞いていたが……王国直属の軍人にかかればチョロいものだな」

「人聞きの悪いことはヤメタマエ。で、行くのか行かないのか」

「決まっているだろう。君と一緒なら、何処へでも」

 ジェイルはラピスの目を見つめ、微笑みながら答える。

「はぁー。亜人種顔負けの素直さだこの人は。参った」

 ラピスは思わずジェイルから目を逸らしながら呟く。その頬は紅を差したかのように赤く、口元は緩んでいた。


「あああもう!ちきしょうお前ら、こちとら睡魔と戦ってんだよ!さっさと帰れよもう」

 その時、訓練室のドアを荒々しく開け、喧しく入室してきたのは本日の当直のフレイドルだ。

 その顔には大きな傷が斜め方向に走っており、機嫌が悪そうな表情と相まって、非常に人相が悪い。

 ジェイルよりも二歳上だが、入隊時期は同期だ。


「ジェイルが遅くまでガチャガチャやってるのはいつもの事だからもう慣れたけどな、イチャイチャはすんなよ!なんだよ二十二年彼女いないおれへの当て付けか?」

「「すまない」」

「言ってるそばからハモってんじゃねえ!ジェイル!給料出たら奢れよ!」

「分かった分かった。美味い羊でも食いに行こう」

 忘れんなよ?と念を押すフレイドルを残し、二人は詰所を出る。

 夜は日中の服装では出歩けないほど冷えていた。

 二人は自然と横並びになり、帰路を歩き始める。


「ふふ……」

「どうしたラピス、フレイドルの必死さがそんなに面白かったか?」

「それもだが、思い出してな。君と初めて話した時もこんな夜だったなと」

「──そうか、もう一年になるな」

「あの夜、飲み屋街の通りで、酔っ払いの傭兵が六人。正規兵だと身分を明かそうとしたのに、居合わせた君の方が遥かに速かった」

「君が説明をする間、あの小汚い男に掴まれた君の手がそのままということに耐えられなかったからな」


「あの時の君は本当に怖かった。全員を無言で、まるで、蚊でも叩くみたいに」

「あの時の自分と喧嘩しても勝てる自信はないな」

 ジェイルは本気なのか冗談なのかわからないニュアンスでそう言う。

「……それまで同じ部隊にいたのに話もまともにしてくれなかった。なのになんであの時助けてくれたんだ?」

「──話してなかったんじゃなく、したくても出来なかった。その……君が、眩し過ぎて。気味悪がらないで欲しいんだが、実は君が配属された時からずっと、話す機会を窺ってた……」

「その話は……初めて聞いた……」

 二人は揃って黙り込む。

 そしてどちらからともなく、二人は手を繋ぎ合う。

「君の手は鈍器みたいだな。でも、すごく温かい」

「ラピスのは華奢過ぎて心配になるな」

 そんな会話を交わしながら二人は歩いていく。きっとこんな瞬間が、二人のかけがえのない思い出になっていくのだという、確かな予感と共に。


 二週間後。


 朝九時。

 王直々の緊急の命令により、この国の全ての軍属が王宮前広場に会していた。

 その数、およそ一万人。

 国の総人口と、現在の世界情勢に鑑みると、その規模は少々過多とも言える。

 ジェイルとフレイドルは、彼等の本隊からは少々離れた場所に陣取っていた。

 その顔には鉄仮面が装着され、表情を伺うことは出来ない。

 王の御前とは言え、これがジェイル達のような隠匿性の高い部隊員の正装だった。

 そして、それはまもなく壇上に姿を見せる彼女も。

 やがて音楽隊の奏でる高らかなファンファーレで幕を上げた式典は、宰相の短い挨拶の後、デパス国王の演説に至る。


 ──曰く、偉大なる我が国の技術開発部は、また新たなロストアームズの復元に成功した。

『聖杭』と呼ばれるそのロストアームズは別のロストアームズに干渉出来る能力があり、これを足掛かりに我が国は各地の遺跡に眠っているロストアームズの発見、復元に本格的に着手し、世界一の軍事国家となることを目指す。

 しかしその操作には常人離れした量の魔力が必要なため、前回の杖同様、この国で一番の魔術師へ下賜することとした。

 王国の代表として、我らの目標をしかと心に刻み、また、全軍が一丸となってこれに邁進するように──と。


 王の演説の切れ目を見計らった宰相が、野太い声で宣う。

「ラピス・クロックフォード!御前へ!」


 名を呼ばれた王国随一の術師が、舞台の脇から姿を現わす。

 鉄仮面と軍属の制服に身を包んだラピスが登壇すると、恭しく一礼をし、国王の前に跪く。

 国王は何やら仰々しくラピスに声を掛けているが、ジェイルたちには聞こえない。


 金色に輝く、その名の通りの長さ二十センチほどの杭を両手で受け取り、更に深く一礼したラピスが舞台袖へはけ、王もまた、軍属達よりの割れんばかりの拍手の雨と共に退場する。

 しかし、ジェイルにはそれに同調する気が起こらず、口を噤み、俯いて何かを思案している。


「──ジェイル、わかるぜその気持ち。彼女とは言え、複雑だよなー?」

 隣で式典を観覧していたフレイドルが、馴れ馴れしくジェイルの肩に手を掛けながら言う。

「いや……」

「なんだよ、カッコつけんなー?功績じゃあお前もいいとこ行ってんのに下賜されたことないじゃん?贔屓は嫌だなー?」

 やたらと機嫌が良い、フレイドル。

「フレイドル、国王の眼。なにか変じゃなかったか?」

「──バッカ!お前、誰かに聞かれたらどうするつもりだよ……なんともねえよ。いつもの王様だよ」

 小声で焦るフレイドルの言葉を聞いても腑に落ちない。

 確かに国王の眼が、なんとも言えない変な…そう、言ってしまえば嫌な感じのする眼つきをしていた。

 しかしながら……それは彼の直感に過ぎず、仮にそれに同意する者がいたとして、一介の兵卒である彼に一体何が出来ただろう?

 結果、彼にはどうすることも出来なかった。

 この瞬間の彼には、何をどうすることも出来なかったのだ。


 その夜、小洒落た酒場にて、祝杯を上げる二人の姿があった。

「──という話をフレイドルとしていたんだが」

「私を心配してくれるのはありがたいけど、その発言はマズいだろう……流石の君も拘束されるぞ……」

 ジェイルの発言に小声で返し、更にラピスは続ける。

「心配性だな君は。王の側室にも亜人種は一人もいないし、君の心配は杞憂だよ」

「いやいや、そういう類いの話ではなくてだな……」

「──何か危ないことになったら二人で東に逃げようって、言ってたじゃないか」

 ラピスの言葉に、ジェイルはハッとしたように彼女の方を見やる。

「覚えてるのか……そうか、そうだな」

 ジェイルはリンゴの強い蒸留酒をストレートであおりながら、納得の行ったように頷く。

 テーブルの上に並ぶのは、名産品のチーズと天然の猪肉のソテーや、若マスのカルパッチョなど、非常に食欲をそそるものばかりだ。

「自分でなんとなくそういったが、東といえばやはりアトラスか。現国王も、若いながらも名君らしいな」

「そういえば、私の叔父がアトラス領内にいるって聞いたな。故郷に帰るか、叔父さんを頼るのもアリだなあ……」

 ラピスはここから北方の小国のユーステルム出身で、デパスに来る以前は独りで旅をしながら、卓越した魔術でオルディウム討伐などの方法で路銀を調達していた。

 腰を落ち着け、デパスの軍属となったのは今から三年前のことだ。

「──まあ、いずれにせよ」

「そうだ、もしもの話だよ」

 特殊工作員という部隊は当然ながら、危険が多い。

 昨年の殉職者は同部隊内だけで六人を数えた。全員が二人の顔なじみだ。

 表立っての戦闘は行われていないとは言え、軍事、産業スパイの工作合戦により、デパスの近隣諸国との関係性は悪化の一途を辿りつつある。

 王の演説でもあったように、軍事国家に本格的に舵を切れば、表立ってのいざこざも起こり始めるだろう。

 元々デパスへの帰属意識の低いこの二人にとっては当然の判断であった。

 二人とも軍属である以上、任務中はそれをおくびにも出すことはなかったが。


「で、貰ったのはどんな感じだったんだ?」

「聖杭か。正直、そんなに凄いモノとは思えないんだよな……魔力込めてもなんの反応もないし。まあオリジナルのロストアームズにしか反応しないってことだからな」

「また辺境の遺跡探索の任務が増える訳か。まあ他国内での工作任務と比べれば」

「うん。オルディウムも最近は活動控えめだしな。私も楽をさせてもらえるといいなあ」

 そうして、仲睦まじい二人の夜は更けていく。

 秋は足早に去りつつあり、この国にも厳しい冬の気配が近づいていた。


 数日後、ジェイルは任務に備え、装備品を整えていた。

 先日の予想通り、今回は三、四日で帰還出来るであろう、国内の遺跡調査の任務。

 しかもラピスとの二人一組の任務だ。

 オルディウム討伐の任務と違い、基本的に厄介な敵はラピスの隠匿術式でやり過ごせばいいので、少人数の部隊編成の方が適している。

 一人で黙々と集中して荷造りをしているように見えるジェイルだが、初めての二人きりの任務に内心嬉しさを隠し切れない。

 当然、旅行という気分ではいられないのも確かであるが、普段の任務と比べれば、かなり容易な案件なのも間違いない。

 普段の任務では携帯しないような余分なレーションもバックパックに詰め込む。

 無論、彼女の好物を選りすぐった物を。

 そして──その懐中に潜ませているのは、小振りな革製の箱。

 ジェイルは慎重に中身を取り出す。

 それは大粒の金剛石をあしらった白金の指輪だった。

 一ヶ月前、城下町の腕利きの彫金師に、実に五ヶ月分の禄をはたいて仕立ててもらった一品が、つい先日、納品されたのだった。

 これほど高額な買い物をした経験はジェイルにはなかった。

 その輝きを確かめるようにじっと見つめた後、慎重に元通りにしまう。

 その表情は実に彼らしくなく、口角が上がったニヤけ面だ。

 しばらくして、ハッと我に帰った彼は、冷静さを取り戻し準備作業に戻る。

 ──ダメだ、こういう気の緩みが致命的な失敗になるんだ。同僚が何人も僅かなミス一つで殉職しているのに、それを忘れてはいけない…彼はそう深く自戒するのだった。


 デパス王国都心部から数十キロ西、海岸線沿いの巨大な建造物は、いつの頃からか『果ての神殿』と呼ばれているが、それが何を祀るものなのか、学者でもわからないらしい。

 神殿と言うものの、そもそも建物内部には調度品などの人口物は一切残されておらず、かつてはこれ以上の調査価値なしとされたが、何故か近年行われた再調査で、地下室の更に下部分に謎の空間が広がっていることが判明した。

 しかし、その入り口は一切見当たらず、ならばと地下室部分の床材を除去したところで、正体不明の金属の層にぶち当たってそれ以上進めなかった。

 王国上層部の判断で多額の予算をかけて再調査を試みた結果、この異常に高強度の金属の保護層はそれ自体が一種のロストアームズであり、その内部には無傷のロストアームズか、それに準ずる古代の遺物が大量に保管されている可能性が極めて高いとのことだった。

 しかし、現状は一切打つ手がない。

 基本的にロストアームズを分解、破壊することは困難を極めるからだ。


 今回の二人の任務は、『聖杭』が本当にオリジナルのロストアームズに干渉することが可能なのかその検証を『果ての神殿』の地下で行うことだ。

 もしも上層部の思惑通りの効果を『聖杭』が有していると認められた場合は、即刻帰投し、待機している百八十名で編成されるデパス王国軍中隊で再度赴き、『果ての神殿』に現存するロストアームズの採掘作業を行う。

 国を挙げての一大プロジェクトだというなら、初めから中隊でも大隊でも動員すればいいものを……と思うが、変な所でケチ臭いのはいつもの事だな、とジェイルは自らを納得させる。

 それより、そのおかげで先述の計画を実行に移せる事になったことの方が、よほど大切だった。

 現在時刻は十一時。

 昼過ぎにここを発てば、馬車と徒歩の併用で夜の九時ごろには『果ての神殿』近くまで辿り着けるだろう。

 ジェイルの胸は、例えば旅行を明日に控えた子供のごとく、純粋に高鳴っていた。



「──ジェイルもこんな表情、出来たんだな……」

 時は現在。

 ルチルが感慨深げに呟く。

 相変わらずアリアの術式により、過去の夢を彷徨うジェイルの表情は本当に穏やかで、まるで別人のように見えた。

「……ゼルにとっては」

「?」

 アリアが重苦しく続ける。

「ゼルにとっては今、夢見ている瞬間が、人生の絶頂というやつだったんだろう」

「──このままジェイルに良い夢をずっと見させてあげるというのは、きっと……駄目なことなんだろうな……?」

「生命は、いとも容易く壊れる。それだけが、唯一の絶対と言っていい。わたしにゼルの気持ちはわからない。でも、多分、ゼルはこの瞬間に死ぬのが一番幸福だったんだろうとは思う」

「……」

 アリアの言葉に、ルチルは杖両手で杖を強く握り、沈痛な表情を浮かべる。

「しかし、進まなくては。残された者は、決着をつけなければいけないんだ。その結果が幸か不幸かは、本質的な問題ではないんだ」

「──それは、アリアがずっとジェイルを見ててそう思ったってことか……」

 ルチルの呟きにアリアは何も答えず、ただ穏やかな、しかしどこか寂しげな表情で肯定した。




「ジェイル、さっき言ってた話ってなんだ?大切な話って言ってたな」

 篝火の前に並ぶ二つの影。

 ラピスはジェイルの用意したお気に入りの兵糧をじっくりと味わいながらそう切り出す。

 すると、ジェイルはあからさまに挙動不審になり、三秒ほど思案した後、ハッと気づいた様子で懐中の革箱を取り出す。

 そして数度、静かに深呼吸した後、焚き火を見つめたまま、感慨深げに語りかけ始める。

「さて、一体どこから話したものか……」

 いつも以上に真剣なジェイルの様子に、ラピスも話を聞く姿勢を整える。

「かまわない。ゆっくり話してくれ」

「──そうだな、じゃあ君にも話していない自分の話からしようか」

「自慢じゃないが、君のことならほとんど知ってると思うよ」

「……自分はそもそも、家族から棄てられた忌み子なんだ」

「……」

 唐突な自白にラピスは明らかに動揺しながらも、ジェイルを気遣い、目線だけで続きを促す。

「それはまあ、よくある話かも知れない。デパスの傭兵だった父親は、自分が八歳の時に戦死した──今の自分も似たようなものだ。軍属なら、それは仕方ない。だが、唯一残された母親は、父親だけを見ていた。それを理解させられたのは、父親の葬式の三日後だった」

「……まさか、そんな」

 話の終着点を悟ってしまったラピスは、思わず口走る。


「──自分は、おかしいと気付くべきだった。その日、母親は異常に機嫌が良かった。 自分はただ、母親がやっと元気になってくれて嬉しいとしか思えなかった。そんな母親に買い物を頼まれて外出した三十分。その間に母親は、父親のところへ行った」

「……」

 ジェイルの告白に、ラピスは沈痛な面持ちで歯噛みする。

「母親は……かあさんは、お気に入りのドレスと、結婚式で使ったらしい純白のベールを身に付けて、床には倒れた椅子……陽の光の中で、かあさんの身体が、ただ揺れてた。そこからのしばらくの記憶はない。気付いたら自分は恐らく十三歳頃で、川沿いを転々としながら手製のテントで暮らしてた」

 パキと音を立てて薪が小さく爆ぜる。

「川魚や、山の野生動物で食い繋ぐ生活だ。ある時、いつも通り川で素潜り漁をしていると、対岸で騒いでいる複数の人間が見えた。何をしているのかと思ったが何のことはない、ただの追い剥ぎだった。自分は狩りで使う山刀だけを持って、対岸まで潜水した」

 一呼吸置き、ジェイルは続ける。

「寄って見てみると、金持ち夫婦が乗った馬車が襲われて、夫と御者は既に殺されていた。四人のクズは、残った夫人を辱める直前だった。いくらなんでも四人は多過ぎる。黙ってやりすごせば、多少はこの生活に役立つものが手に入るかもしれない…今では考えられないようなことを考えながら息を潜めてた」

 ジェイルはやはりラピスの方を見ず、火を見つめながら続ける。

「でも、ダメだった。その夫人が、かあさんに少し似てたから。──いざ水面から飛び出してみると、なんて事はない。四人揃ってもそこらの猪の方がよっぽど厄介だった。その夫人はデパスの将校の娘で、それが縁で軍属になった。それが七年前……と言っても、自分の精神が安定しなかったから、そこから数年は国外へ派兵されて、汚れ仕事ばかりさせられたよ。結局、その将校もすぐに引退したしな」

「……君のことを知れたって気持ちと、なんで私が側にいられなかったのかっていう後悔が半々ぐらいだよ」

 ラピスの沈痛な表情が、篝火の光に照らされる。

「仕方のないことだ。あの頃の自分は、半矢の獣のような……自棄で臆病で、かあさんの後を追う勇気もなかった。君と会っても君を傷付けただけだと思う」

「そんなこと……」

「まあ、でもいいんだ。最近ようやく、人生が上向きになってきた気がする。ようやく、生きてて楽しいと思えるようになった気がする。それは全部、全部。ラピス、本当に君のおかげなんだ」

「……」

「壊して殺すしか能のなかった自分に、ただ一つの生きる理由を君がくれた。君と会う前の自分は、空っぽで何も。何にもなかったんだ。自分は、これからは……意味のあることのためだけに、君のためだけに生きていきたいと、心よりそう思っている……」

 ジェイルが心から紡ぐ言葉の一つ一つに、ラピスの両目から、少しずつ涙が溢れ、頬を伝って流れていく。

「──ラピス。自分を、君の家族にして欲しい。家族に棄てられた自分に、帰る場所を与えて欲しい。この身体が朽ちようとも、この命が尽きても、きっと君を守る。約束するから」

 そう言いながら、ジェイルは革の小箱を開け、指輪を彼女に見せる。

「……ありがとう。本当に、ありがとう。もちろん、もちろんだよ。断る理由なんてない……。私も、君と会ってすぐに…この人と家族になりたいって、ずっと一緒にいたいって、そう思ってたよ……」

 涙をぼろぼろ零しながら、それでも笑顔でジェイルの思いに応えるラピス。

 しばらく経ち、ラピスの涙が止まったころ、ジェイルはたどたどしい手つきで、ラピスの左手薬指に指輪をはめる。

 就寝中に起こさぬようにこっそりと測定したサイズもぴったりだ。

「えへへ……に、似合うかな?」

 そう言いつつ、ラピスはその手の甲をジェイルの方に見せる。

 涙の跡が残る、照れた笑顔。

 篝火の灯りがダイヤに反射し、キラキラと輝く。

 不意に、その光がぼやけて滲む。

「──?」

 込み上げて来る感情が何か理解できないまま、ジェイルの目からも、涙が止め処なく流れ始める。

「……情け……ない。男なのに……」

「……そんなこと、ないよ」

 ラピスは優しく囁きながら、ジェイルに抱きつき、また泣き始める。

「喜びでも……涙が出るとは、知らなかったな……」

「うん。今日から君はわたしの家族。戻ったら、ささやかでもいいから式を挙げよう」

「勿論だ。指輪で頑張り過ぎて蓄えはあんまりないが……」

「何言ってるんだ。今度は私が全部出すよ」

 篝火の灯りの中、二つの影は寄り添い一つになり、そのまま離れなかった。

 いつまでも、いつまでも。


 ──翌朝、揃って泣き腫らした顔をした二人は出発する。

 相変わらず、その距離は近い。

「君、ひどい顔してるぞ」

 ラピスがジェイルの顔を覗き込んで言う。

「そもそもあまり泣いたことがないからかも知れない。顔がふやけたような感覚だ……。君は変わらず綺麗だが」

「…もう。それで?神殿までは後どれぐらいなんだ?」

「ここからほんの一時間ほど。特に強力なオルディウムが出るらしいから隠匿術式を入念に頼む」

「大丈夫。とびきり良いことがあったから精神的に充実感がすごい。今なら杖なしでも事足りるぐらいだよ」



 ──その建物は事前情報通り、相当に朽ちているように見えるが、倒壊の恐れはなさそうだ。

 やはり古代の失われた技術と言ったところか。

 ジェイルは腰袋から照明の魔術が込められた魔具を取り出し、展開する。

 ラピスの照明術式を使えば不要に思えるが、どれほど手練れの術師でも、術式を複数展開する時には僅かながらタイムラグが生じるからだ。

 ジェイルが右手に抜き身の高炭素鋼マチェット、左手に照明魔具を携え、建物内へ先行すると、ラピスも杖を構えつつ、彼に追従する。

 僅か数分で、二人は地下一階へ辿り着く。

 区切られた部屋はなく、一つの広大な空間が広がっている。

 二人は緊張を絶やさないまま、以前の調査地点を探す。

 ほどなくして、ジェイルの照明魔具に照らし出されたのは、荒れた石畳が除去され、鈍い輝きを放つ金属が剥き出しになった箇所だった。


「──何もいなかったな」

 ジェイルが納刀動作をしつつも、緊張を切らさず小声で言う。

「小動物の気配も一切ない……やっぱりこの建造物は何か違うみたい。早く終わらせて、帰ろう」

 そう言いつつ、ラピスは懐中から『聖杭』を取り出す。

「!」

「──確かに、何かに反応しているな……」

 ラピスの手の中の『聖杭』は、不気味に赤く輝いている。

「ラピス。……嫌な感じがする」

 ジェイルが額に汗を滲ませながら言う。

「私も同感だ。あらかじめ攻性防壁術式を三重に展開してから作業に入る」

 ラピスほどの優れた術師が、十分な時間の余裕を持って構築する防壁術式は、大型の破城槌であっても数発は凌ぎ切るほどの防御力を持つ。

 それが三重ともなれば、破れるものは皆無と言っていい。


「──展開完了。では、いくぞ」

「ラピス、くれぐれも、慎重にな」

 ジェイルはラピスのすぐ後ろに抜刀して控え、不測の事態に備える。

 そしてラピスは真剣な面持ちで、右手で杖を突きながらゆっくりとしゃがむと、空いた手で『聖杭』を未知の金属塊に押し当てる──

 


「永かった、本当に永く待ち侘びた…」

 時同じくして、デパス王宮。

 突如うわ言のように虚空に向かって話し出す国王に、控えていた宰相が訝しげに言う。

「一体どうなされたのです?我が王よ」

「もう終わり。朕の役目はもう終わりだ!全ては主上の意のままに。あの杖と杭の作成に払った犠牲は大きかったが……祖父の代で仰せつかった主上の大願、朕が為果たしたこと……嗚呼!無上の喜びである!」

 王の只ならぬ事態に宰相は冷や汗を拭う。

「近衛兵!近衛兵!王は大変お疲れの様子。急ぎ人払いをせよ!大至急だ!」

 焦る宰相を尻目に、否。

 一瞥すらくれず、国王は虚空に語りかけ続ける。

「──遠くない未来、主上の統べる世が再来する。この世の人民鳥獣、草木に至るまで、総ての生物が頭を伏せ、生命を差し出すのだ。我が主上、『レックス』の御名に於いて、かくあるべし!」



「──ラピス!」

「だ、大丈夫……でも杖が……」

 聖杭を押し当てたその瞬間、決して破られる筈のない防壁はすべて砕け散り、ラピスの杖と聖杭は突然の閃光と共にその場からかき消えてしまった。

 そして、辺りには元の静寂と暗闇が戻る……


「──駄目だ!何か……下から何か来る!ラピス、手を!」

 ジェイルは悲鳴に近い声を出しながら、想い人の手を握り、力を込めて引こうとする。

 しかし、彼女は微動だにしない。

 一体、何故──

「ジェイル……」

 ラピスの足元を見ると、光る鎖のような物が石畳から生え、彼女の両足首に絡みついている。

 なんだこれは?

 さらに目を凝らすと、同じような鎖はラピスの両手首にまで絡みついていた。

 そしてゆっくりと鎖が縮み、ラピスの上半身が地面に向かって引かれ始める。

 それはまるで、断頭台の罪人を連想させる──

「ッ!」

 ジェイルは背を走る怖気に焦燥を隠せず、光の鎖に向け、渾身の斬撃を何度も放つ。

 その度に高炭素鋼で出来たマチェットが少しずつ刃こぼれを起こし、オレンジ色の火花が辺りに舞い散る──

 しかし、光の鎖には、傷一つ付いていない。

「ジェイル、だめだ……。この鎖、魔力も吸われる……早く、早く逃げるんだ」

「何を馬鹿な!君を絶対!連れて帰る!連れて帰るんだ!」


 ガガッ!ガギッ!ギィン!

 金属が激しくぶつかる音が絶え間なく鳴り続ける。


 ──そして、不意に訪れる、辺りの雰囲気が根本から切り替わった感覚。


 ジェイルは、限界を超えて光る鎖に斬りつけた負荷で、息を切らせて地に片膝を突き、ラピスは俯き、頭を垂れている。

 そんな二人の絶望に呼応するように、何処からともなく現れた柔らかい光が、辺りを照らし始める。

 周囲に浮かび上がるのは、無数の影法師。

 それらの主は、おそらくは十代前半の、少女達だ。

 そして、その影の中の一つが、こちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。

 その佇まいは、この異様な雰囲気の中で、ある種の高貴さすら感じさせるものだった。


 やがて少女は、二人を見下ろし立ち止まる。

「大儀である。我は光の祟り神、セラ。我らが王に造られし始まりの神──」

 固まる二人に名乗る白髪の少女は、艶やかな生地で、金の糸で独特な意匠が施されたデザインの衣をまとっている。

 自らを神と名乗った少女は、凍てつくような、確かにおよそ人間らしくない目で、二人を見降ろす。

「デパス王は見事に仕遂げたようだな。重畳だ」

 ニィと邪悪に嗤うその表情は、容姿の幼さとは、余りにもかけ離れている。

 ジェイルは、今まで積み重ねた戦士としての直感で悟る。

 ああ。

 これは、人ならざるもの。

 人を食らう鬼と呼ぶべきもの──やられる前に、やらねば。


「ジェイル、やめろ……!」

 変わらず拘束されたままのラピスの制止を一切無視したジェイルが、一挙動で腰袋から魔具の閃光弾を取り出し、少女との中間地点の地面に向かって放つと、突如として一帯が眩い光と爆音に包まれる。

 そしてその光が、収まる瞬間。

 ジェイルは間合いを既に詰め終え、少女の頭頂部に渾身の『兜割り』を放つところだった。

 タイミング、体捌き共に完璧な一太刀。


 がぎっ!


 しかしその刃は、少女の直上に突如現れた、光輝く壁に阻まれ静止する。

「馬鹿な……!」

 ジェイルも動揺を隠せない。

「はぁ、しち面倒臭いな。あの道化師のせいで、こんな原始的な武器相手にも油断ならんとは……」

 少女は、ジェイルの凶刃に一瞥もくれず、心底気怠そうに呟く。

「どれ。こんな鈍、こうだ」

 瞬間、光の盾に接触しているジェイルのマチェットが赤白く光り出す。

 接触点から伝わった凄まじい熱が、刀身の温度を急上昇させ、その表面を瞬時に融解させ始めたからだ。

「!?」

 ジェイルがその熱に、堪らずマチェットを放り出しつつも、瞬時に思考を切り替え、少女の頚椎を捻り折るべく両手を伸ばす。

 攻撃の起こりと、その意図が掴みにくいことが特徴の徒手格闘技で、無刀である事に油断した敵を、幾人も正面から屠ってきたジェイルの必殺の一撃。

 しかし、ジェイルの両腕の中のか細い首は、微動だにしない。

 それはまるで、金属の彫像に技を掛けているかのような──

「非力。流石にこの程度なら、生身で耐えられるわ」

「ジェイル!だめだ!」

 ラピスの必死の悲鳴は届かず、ジェイルの拘束を易々と抜け、流れるような動きで腰を落としたセラは、そのままジェイルの右脇腹に、信じ難いほど重く、鋭い掌底を放つ。

「がぁっ……!」

 回避行動すら取れず、まともに打撃を受けたジェイルは、血反吐を吐きながら数メートルほど宙を舞い、受け身も取れないまま地面に激突すると、そのままの勢いで石畳を転がっていく。

「これはしたり。殺してしまっては我らの腹が満ちぬではないか」


「あああ!ジェイル!やめろ!よくもジェイルを!わたしの、大切な人を!」

 ラピスは恐怖と怒りでごちゃ混ぜになった顔でセラに向かって叫ぶ。

 すると、周囲で事の成り行きを見ていた少女達が一人、また一人とラピスのもとに集まってくる。


「すごい神力だな、この娘」

 少女の一人がラピスを見つめて言う。

「神力じゃない、魔力と呼ぶんだろ。所詮は道化師の人形遊びよ。趣味の悪い……」

「それより感じるか?この娘とあの男の深い深い縁……」

「無論だ。手に取るように解る。今の時点でもう十分に味わい深いが……これは想像しただけで、涎が滴るわ」

 少女らはラピスを取り囲み、好き勝手に彼女を評する。

「我ら全員の腹を満たすには些か足りんが、忌々しいこの場から離れるだけの力は得られよう」

「永かった……永かったぞ!あの道化師に、私達を滅ぼさなかったこと、後悔させてやろうぞ」

「セラ、一刻も早く始めようではないか」

「そうだ!疾く贄を!贄を!」

「「「贄を!」」」


 思い思いに騒ぐ少女達の言葉に応えるように、セラはまたしても、ニヤリと嗤いながら倒れているジェイルに向かってゆっくりと歩き始める。

「ぐ…が…」

 未だ立ち上がれないジェイルの板鎧の右胴は大きくひしゃげ、ジェイルの肝臓を始めとする複数の臓器は多大なダメージを受けていた。

 濃い血の味が、自身が受けた傷創の深さを自覚させる。

 他にも、露出している体の部位は余すところなく、石畳の上を転がった際に刻まれた大小様々の裂傷だらけだ。

 セラはそんなジェイルの髪を乱雑に掴むと、そのまま無理矢理、引き起こす。

「がっ……ぐっ!」

「まだ死ぬなよ人間。特等席に案内してやる。これより起こる出来事、しかと見届けるがいい」


 やはり悪意に満ちた表情で、セラは死に体のジェイルをそのまま力任せに引き摺った後、ラピスの姿が見えるよう乱暴に打ち捨てる。

 ジェイルの視線の先には、囚われの恋人が見える……


「さて」

 まるで一仕事でも終えるところだというような雰囲気を纏いながら、セラはゆっくりとラピスに近づく。それに合わせてラピスの周りに群がっていた少女達は、期待に満ちた目でセラに道を譲る。


「出でよ、神劔フェルム」

 セラが右手を虚空に伸ばすと、何もない空間から、眩く輝く光の剣がセラの手中に現れる。

 セラが垣間見せた戦闘能力に鑑みて、それが絶望的な破壊力を持つことは、容易に想像出来た。


 ──この状況で、ジェイルはただ、自分に何が出来るのかを考え続けている。

 腹部の痛みは相変わらず深刻で、本格的な治療が必要な事実は変わらないが、幾分は回復し、全く動けないほどではないと、ジェイルは判断する。

 それも実際は、過剰に分泌された脳内物質で、ただ痛覚が麻痺しているだけに過ぎなかったが。


 まだ終わってはいない。終わらせてたまるか。

 ジェイルは懐中に忍ばせておいた短刀に、そっと手を伸ばす。

 そもそもこれは任務中に囚われた場合等に自決するためのものであったが、こうなってしまっては、全てをこれに賭けるしかない。

 奴は、こちらに背を向けている。

 まだ自分が攻撃可能だということを理解していない。

 他の少女たちも、こちらを見ていない。

 一切の音を立てぬよう、数秒でブーツを脱ぎ捨て、最後のチャンスを窺う。


 奴は言っていた。

 原始的な武器にも油断ならぬと。

 どれほど人間離れした、正体不明の怪物であろうとも、背後から頚動脈を断てば、間違いなく絶命するはずだ。

 意を決し、無音で駆け出すジェイル。

 体内で、折れた浮遊肋骨が不規則に暴れ回り、尋常ではない痛みがジェイルの全身を襲う。

 しかし、今の彼には関係ない。

 奥歯よ砕けろと言わんばかりに歯を食いしばり、ただ、目の前の標的の命を断つだけだ。

 セラの後ろ姿が目前に迫る。

 右手に逆手で握った短刀は、次の瞬間には少女の右首筋に到達するだろう。

 その後は、残る少女らを一人ずつ皆殺しにすればいい。

 そうだ、全員残らず殺してやる──

 そうして、ジェイルが最後の力を込めた刃は、盛大に、空を切った。


「お前は非常に良い。それでこそだ」

 何故かセラの声が、背後から聞こえる。

 振り向き様に追撃を放とうとするジェイルだったが、その右手の肘から先は、既に消えて無くなっていた。

「ぐああ……!」

 遅れて、灼けるような痛みが、右腕から全身を襲う。 


「ジェイル!頼む!頼むから、ジェイルに酷いことしないでくれ!もう、やめてくれ!」

 その有様を見て、ラピスは半狂乱で叫び続けている。

 セラが左手で無造作に掴んでいるのは、今しがた切り離されたジェイルの右前腕だ。


「もしお前が一人で逃げ出すようなら、我々の計画も多少は狂ってしまうところだったが……上出来だ。しかしな、小突かれて、手の一本失くしただけでもう虫の息とは、相変わらず……人は実に脆いものだ。これでもう、お前が出来ることは何一つなくなったというわけだ」

 そう言って、セラはジェイルの右手をぽいとジェイルの足元に投げ捨てる。


 ジェイルは、成す術なく、その場に崩れ落ちる。

 そもそも、まともに動けるような怪我ではないのだ。

 切断された右腕の断面からは血が大量に溢れ、石畳に垂れている。

 喉の奥からは絶えず血の味が上がって来る。

 しかし、何故だか彼はもう、鮮烈な痛みを感じてはいなかった。

 ただ虚ろな目で、目の前の光景を見つめている。

 ラピスが何か叫んでいるが、まるで水中に潜った時のように、はっきりと聞き取れない。


 やがて、打ちひしがれるジェイルを遠巻きに取り囲んだ少女らは、歓喜の声を上げ始める。

「おお……なんと……これは美味な」

「これら好一対の絶望……よもやこれ程とはな!」

「もし一人で味わっていれば、と思わずにおられぬ程よ」

 見ると、少女達の心臓の辺りが色とりどりに輝いているのが、彼女らの着ている艶やかな服の上からでも確認出来る。

 それはただ端から見る分には幻想的で、美しさすら感じさせるものであったが、ジェイルとラピスにとっては、この上ない地獄そのものだ。

 そうして、セラはついにラピスのすぐ隣まで辿り着き、止まる。


 この土壇場でラピスは意を決したように、深く呼吸すると、彼女の顔からは、フッと恐怖心が消える。

 そして、ただ冷静に、気高く、本来の彼女らしさを保ったまま、ジェイルに語りかけ始めた。

「ジェイル。わたしの、ただ一人愛した人。君と一緒に生きて、わたしは本当に幸せだったよ。願わくばどうか、君だけは、なんとか生き延びて欲しいと、心から祈っている──」

 ラピスの紡ぐ言葉に、ジェイルは残った気力を振り絞り、声にならない声で、彼女の名をただ叫ぶ。

 セラは無言で、光の刀を高く振りかぶる。


「君と家族になるって約束、守れなくて、ごめ……

 ──光の軌跡、風切り音。

 ごとりと、重いものが地に落ちる音。


「しかしまあ、退屈な女だったな。もっと泣き叫べば面白かったものを」

 周りで一部始終を見ていた少女らが、わっと歓声を上げる。

「嗚呼、なんたる甘露よ!」

「これよ!これが欲しかったのだ!」

「力が漲る……!」



「──おっ……おお、おお……」

 赤子のように身を丸め、ガクガクと全身を震わせるジェイルの表情は、読み取れない。

 今や感情が消し飛んだ彼の表情は、喜怒哀楽どれにも属さない。

 その虚ろな両目から、ただ、涙が溢れ続けるだけだ。

「ら、ラピス……ラピス……

 きっ、貴様ら…一人残らず、こ、殺して……やるぞ……死んでも、死んでもころす」

 しかし彼の全身の裂傷、切り落とされた右腕、そして傷ついた内臓からの出血量は、最早取り返しの付かない段階にあった。

 どれだけ力を込めても、彼の身体は、もう満足に動くことはない。


「その貌、そしてこの絶望の味、心底堪らぬわ。どれ、お前が果てる前に、駄目押しだ」

 セラが心底嬉しそうな表情で剣をもう一度屹立させると、刀身から籠目状の光が無数に枝分かれして拡がる。

「これはな、どんな物でも粉微塵にする、我の必殺の剣ぞ──どうせ、墓にも入れられぬのだ。土に還り易くしてやるのが親切というもの」

 そして、邪に嗤うセラの台詞が意味するところを、理解したジェイルの最後の慟哭が、果ての神殿内に響き渡った。



「気を失いよったか」

「まだ生きておるのか?つくづく楽しませてくれる」

「それよりセラ、早くせねばヤツに勘付かれるぞ」

 水を向けられたセラが返答する。

「分かっている──良いか!我らはこれより世界各地に散る。そして力を蓄え、機を待つのだ。すべては我らが王の御為と心得よ」

「──こいつ、とどめは刺さんのか?」

 灰色のボブカットに空色の瞳の少女がセラに問う。

「捨て置け。どうせここも倒壊させる。墓標にしてはちいと派手過ぎるがな。それに……」

 セラはまたしても、凶悪な笑みを浮かべながら言う。

「僅かでも可能性を残しておいた方が、我々も後々愉しめるというものだ」

 柔らかな西陽が窓から差し込む、小綺麗な一軒家。

 ジェイルは大きなソファに腰掛け、僅かに微睡んでいる。

 なんとも心地よいひと時だ。

 台所からは誰かの鼻歌とともに、煮込んだ羊肉の美味そうな匂いが漂って来る。

 ジェイルは目をこすった後、微笑みながら立ち上がり、歌が聞こえる方へ向かう。

 すると、ジェイルが立っている場所は、見渡す限りの原野に変わっている。

 足元には、色とりどりの花が咲いている。


 ジェイルの見つめる先には、最愛の人がいる。

 彼の視線に気付いた彼女は言う。

 指輪が見つからないと。

 大切な大切な指輪が見つからないと、彼女は俯き、肩を震わせながらジェイルに許しを乞う。

 そんなことは気にしなくていいと、彼は答える。

 すぐには無理でも、もっともっといい指輪をきっと君に贈る。

 何故なら自分はこれから先、ずっと君と離れず一緒にいるのだからと。

 だから、もうなにも心配はいらないと。

 それを聞いた彼女はゆっくりと顔を上げ、笑っているような、泣いているような……どちらとも取れる表情で、何かを言おうとする──



「……!」

 ジェイルは酷い頭痛と共に目を開ける。

 太陽の光の中、蘇生したジェイルは、側に寄り添う一人の銀髪赤眼の少女を見て一瞬殺気立つが、損傷した内臓や、離断された筈の腕が元通りになっているのを見て、ひどく混乱する。

 そして、やおら勢いよく立ち上がると、必死で周囲を見渡し始めた。

「……自分は何故生きて、いや、夢、夢か。君、すまん、ラピスは、いや、亜人種の女性がいたと思うんだが、彼女は何処に……いや、夢か……」

「目を覚ませ。ここはあの神殿からそんなに離れていないぞ」

「え……」


「わたしの名はアリア・リリウムワイズ……お前の仇と同じく『祟り神』として造られた者」

「……」

 仇。

 少女の名乗りに、呆けたように天を仰ぎ、何も反応しないジェイル。


「お前は、わたしのせいで死に損なったという事になる」

「…………そうか……やはり…やはり…ラピスは、し、死んで…死……ああ…あああ……」

 ジェイルはその場にへたり込みながらそう呻いた後、激しく咳き込むと、胃に僅かに残った内容物を全て嘔吐する。

「ジェイル、お前の悲しみの程はわからんが、まずはここから離れなければ」

 アリアのあくまでも冷静な口調に、死んだ目をしたジェイルも弱々しく答える。

「……すまない、自分の剣はあるか?」

 ジェイルがそう問い掛けるとアリアは無言で、マチェットと、短刀を手渡す。

 するとジェイルは、その場で姿勢を整え正座しながら、言う。

「アリアと言ったな。この命助けてくれたこと、心より礼を言う。本当に、ありがとう」

 そうして受け取った短刀を、胸の前で両手で握る。

「でも、自分はもう、何処にも行けない……!」

 言い終わるや否や、ジェイルの短刀の切っ先は一切の躊躇なく、真っ直ぐに自身の頸動脈を目指す。


「な……!」

 しかし、それよりも速く動いたアリアの右手が、抜身の短刀を握って静止させていた。

 鋭利な刃が少女の華奢な掌を深く切り裂き、ジェイルの両手を、青く冷たい血が濡らす。

「まだ死んで貰っては困る」

 一切の感情を込めずにアリアが言う。


「──死なせて……自分も死なせてくれ、たのむ……もう、駄目なんだよ自分は」

 弱々しく懇願するジェイルが力を緩めると、アリアは自らの血で濡れた短刀を取り上げる。

「あの娘がいないと、駄目なんだ、生きていても」

「聞けジェイル。この国は間もなく崩壊するだろう。奴等はなんらかの方法で封印の外部に干渉し、二代前のデパス王を籠絡した。つまりここに至る全てが、あいつらの謀だったと言うわけだ」

 アリアの言葉に、へたり込んだままジェイルはアリアを見上げる。

「……初めから奴等の……」

「負け犬のまま無様に散るのもいいだろう。それで自分を許せるならな。死ぬなら、借りを返してから存分に死ねばいい」

 アリアがそう言うと、ジェイルの目に再び昏い憎悪の炎が灯る。

 仇討ち──今やそれだけが、死に体のジェイルの命を繋ぐ唯一の原動力だった。




 数時間後、東へと進路を取る二人だが、ジェイルの足取りは重く、彼が通った後には、引き摺ったような足跡が続いている。

「──当然、セラ達が籠絡したのは王だけではないだろう。王都には近づかず、この国を出るぞ」

 ジェイルが自身のシャツを割き、急拵えで作った包帯を手に巻いたアリアは、追行してくるジェイルを振り返らずに言う。

「……その手、すまなかったな……何故、自分の命を助けた…?」

「わたしもかつてセラ達に謀られ、長い間あの結界の中で半死の目に合わされていた。しかし、お前のあの深い絶望を食ったお陰で神力も回復出来たというわけだ」

「……」

 アリアの返答に、ジェイルは何も言わない。

 するとアリアは立ち止まり、振り返る。

 紅玉のような真紅の瞳が、真っ直ぐにジェイルを見据える。

「単刀直入に言う。わたし達、祟り神はこの世には不要な存在だ。すべての祟り神をこの世から消すために、わたしの神子となれ」

「……そうすれば、奴等に借りを。奴等を皆殺しに出来るのか?」

「お前の執念次第だろう。セラは強い。弱体化されたとは言え、かつて幾つもの国を単独で滅ぼした力は、お前が味わった通りだ」


 それを聞いたジェイルは目を閉じて数度、呼吸を整え、やがて大きくため息をつく。

「──自分は一度死んだ身。お前が悪魔だろうと邪神だろうと、命を救われた事実に変わりはない。しかも仇討ちに手を貸してくれるだと。断る理由がない。万が一、これが嘘だとしても、即座に諦めが付くというもの」

 ジェイルはそう言い、自棄の表情で片側の口角を僅かに釣り上げる。

「ならばいい。お前を治す為に既に縁は結んだが……正式な儀式には丸一日はかかる。まずは国境付近の宿場町まで急ぐとしよう」

 アリアはジェイルの表情から目を逸らしながら、そう言った。


 二日後、デパスとケルゼアの国境付近──


「まだ表立っては国が荒れていないようだが、奴等が籠絡した人間を使い、大規模な内戦を引き起こすのは想像に難くない。周辺国も巻き込む気だろう。今のお前はひ弱過ぎる。もしも奴らと鉢合わせた場合、次は数秒で挽肉にされるのが関の山だ。余り時間の余裕はないが……ここで儀式をする」

 ありふれた宿の個室で、小声で話す二人がいた。

「ひ弱……ひ弱か。本当に……全く……」

 一切否定することなく、ジェイルはまたもや、酷く項垂れる。


 チェックインの際、宿の主人が熱心に読んでいた新聞には、異常気象により首都が全面封鎖されたとする見出しが大きく躍っていた。

 フレイドルの安否が気に掛かったが、戦闘能力はさて置き、こと潜入任務においては彼の右に出るものはいなかったことをすぐに思い出す。

 やつなら、きっと大丈夫だという確信に至り、ほんの少しだけ、ジェイルの表情が明るくなる。

 幸か不幸か、他人と親交を深めることを極端に避けていたジェイルには、彼以外に身を案じるような相手は、もう、いなかったのだ。

 またもジェイルの表情が暗くなるのを押し留めるかのようなタイミングで、アリアが切り出す。

「本題に入ろう。まず、わたし達、祟り神は直接の同族殺しが出来ない。わたし達の創造主たる王が、そう定めたからだ。封印の中で、セラ達がわたしにトドメを刺せなかったのも、それが原因だ」

「……」

「しかし諍いは起こる。どうしてもそれを解決出来ない時の手段として、わたし達は『神子』を使う。神子というのは人間でも動物でも、人間がオルディウムと呼んでいる『供儀』でも、わたし達が気に入った生物なら何でもいい。わたし達は神子に力を分け与える。神子はわたし達に、神子自身、あるいは他者の絶望を捧げる──その縁を結んだ者同士を一騎討ちで戦わせ、負けた神は勝った神に従う」

「……そこで自分が、そいつらを殺しても大丈夫なのか」

「禁忌なのはあくまでも、神が同族を殺すことだけだ。そもそも王が健在の時は、精々小競り合いだけで、大きな諍いが起こること自体なかった。わたしたちが造られてすぐに、道化師との戦いが始まったしな」

 どこか吐き捨てるように、アリアは言う。

「……道化師?」

「それも、今はどうでもいいことだ。前置きはこれぐらいにして、儀式を始めよう──まずはジェイル。お前の名を、わたしに捧げろ。すべてはそこからだ」

「……自分は、ジェイル・グリム…いいや、違う……違うな──」

「…?」


 訝しむアリアに、ジェイルは一度奥歯を強く噛み合せ、言う。

「自分の名は……ジェイル・クロックフォード……」

「……ジェイル。名というのは、存在を縛る一種の呪いだ。お前の選択は、そういうことだぞ」

「──これからの自分の生は、ラピスの仇討ちの為だけのもの……それ以外に、一切の意味は持たせない。祟り神、自分はこの名を捧げるぞ……」

 そう力強く宣言したジェイルは、更に奥歯をぎりりと強く噛み締める。

 その言葉の意味を、自分自身に深く刻みつけるように。

「そこまでの強い覚悟があるなら、何も言うまい。では、いくぞ──」


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