標的
二人がキャンプ地点に到着した時、ジェイルにとっては少々、頭の痛い事態へと発展していた。
「面白え、おチビちゃん!確かに、剣を振るう時にほんの少し、右に振りにくいと思っていたそういうことか、重心が乱れてるってか!」
ラーズが心底納得のいったような表情で、アリアを称賛していた。
「そうだな。ラーズは
アリアは腕組みし、得意げにラーズに『アドバイス』する。
「次はおれだ、お嬢ちゃん。この槍……とあるルートで譲り受けた業物なんだが、実は時々、紙一重で相性が合わないんじゃないかと感じる時がある。確かに、素晴らしい槍なんだが、現状より上を目指すなら、替えた方がいいんだろうか……」
真剣そのものといった様子のヒューズが、アリアの助言を乞う。
何故この短い時間でそこまで深い話までさらけ出しているのかと、ジェイルは思う。
「ヒューズは武芸全般が
またも得意げに宣うアリアに、残ったサーシャまでもが間髪入れず言う。
「アリアちゃん本当、先生みたいだね……あたしはね、本当はもっと強い弓を引きたいんだけど、師匠にはこの弓が骨格と筋力の限界って言われちゃってて、それがすごく悩みで……あ、帰ってきた」
ラーズは少し離れたところで早速、大剣を抜刀して虚空に向かって斬りつけているし、ヒューズはおもむろにその場で座禅を組み、神妙な面持ちで何やらぶつぶつ独り言を漏らしながら、槍を見つめている。
「アリア」
「サーシャ、それならばいい方法がある。ここアトラスから遥か西のデパス王国は知っているな?その東隣の小国ケルゼアの軍技術部が、ロストアームズの中では相当クラシックな部類に入るが、遺跡から発掘された弓の複製に成功してな」
ジェイルが呼びかけるも、アリアにはそれが聞こえていないようだ。
「……アリア」
「関所を抜ける際に、隣国の情報共有と、軍部の不手際をサッと解決してやったおかげで司令部に招かれて設計図を見せてもらった。
「……」
「敢えて
「……ルチル。川で返り血を流してくる」
ジェイルが、埒が明かないとザックを素早く地面に降ろし、再び一行に背を向けたその時。
「あっ、ゼル。待ちわびたぞ。私も行くからな」
何事もなかったような顔でアリアが宣った。
辺りはもうすっかり夕暮れだ。一行が馬車から降り立ったのが午後一時過ぎだったから、おおよそ四時間は経っていることになる。
二人が移動した先は、キャンプ地点から徒歩五分程度の河原だ。
ジェイルはすぐ近くの手頃な大きさの岩に双剣を立て掛け、外套を取り外し、山岳地帯特有の
「ゼル、悪かったと言ってるだろう」
「自分もそこまで悪いこととは思っていないが、この任務限りで会わない者達だ。何よりも今回は間違いないんだろう。あまり、距離を詰めない方がいい」
「そんな、ケチくさいことを言うな。少しの話ぐらい良いだろう。皆、ゼルの師がわたしだと聞いて
「なんでそんなことまで……」
鼻高々で話しながら、アリアは沐浴が完了したジェイルに、厚手で起毛された手拭いを差し出す。ジェイルが不服そうにそれを受け取り清流ですすぐと、アリアはおもむろに着ている服を脱ぎ始める。
少女特有の華奢な骨格に、全体的に薄くしなやかな筋肉が付いている。脂肪は殆ど付いておらず、肌は透けるように白い。
しかし、そんな少女特有の中性的な美しさも、彼女の胸部中央から顔を覗かせる、巨大なルビーのような深紅の宝玉が放つ違和感が、すべて台無しにしてしまっている。
それは恐らくは外科手術等で後から埋め込まれたものには違いなかったが、それは現代の医療では到底不可能な水準の技術であり、その目的がピアスや刺青等のファッションの為ではないことだけは、誰の目にも明らかたった。
「……」
ジェイルは自身の身体を拭くよりも手拭いを固く絞り、ジェイルはアリアの身体を拭き始める。
「冷たいな」
「そう言われても困るというか、いつもいつも同じことを言うが……自分は、お前の言う事には逆らわないんだから……たまにはこっちの言い分も聞いて欲しいと思っている。というか本当に、頼むから自分でやれ……」
語尾が消えるほど溜息を吐きながらジェイルがアリアに懇願する。
「
「」
ジェイルはげんなりしながらも、手拭いを何度か絞り直し、その度にアリアの全身を丹念に拭き上げていく。
やがて沐浴が済んだ二人はキャンプ地へと連れ立って向かう。ジェイルはキャンプ地が近付くにつれ、真剣な面持ちへと戻っていく。
ジェイルには、ラーズ達にまだ話していない事実があった。
傭兵部隊とは言え、何故わざわざ民間仕様に偽装した馬車を使う必要があったのか──
それは、この作戦の全容が、単なるオルディウム
やがて日が落ちた頃、各々が焚き火を囲み、ザックの中から携帯食料を取り出し食事をしていると、数分前に何処かへ出掛けたサーシャが戻ってきた。その手に下げているのは、前脚の付け根辺りを真横から
「どれだけ短時間で、しかも何で夜に
サーシャが獲物をヒューズに手渡すタイミングで、ラーズが驚嘆の声を上げる。
「ウサギを獲るなら夜の直前が一番って決まってるからね」
サーシャがさも当然という様子で答えながらヒューズにウサギを手渡すと、ヒューズは懐から小振りのナイフを取り出し、手慣れた様子で
「それに──アリアちゃんに期待しすぎるのも良くないけどさ、近々こいつともお別れかもって思うと、出来るだけ使ってやりたくなってさ」
サーシャは背負った黒い強弓を慣れた様子で左手に持ち替え、しげしげと眺めると、感慨深げに言う。
「いつも通りいい腕だ。狂いなく心臓を撃ち抜いてる。明日も同じように頼みたいね」
手際良く兎達の皮を
飛行する大型オルディウム、しかもそれを複数討伐しなければならない場合、不可欠なのは遠距離攻撃を連続で行える能力ということに尽きる。
単純な威力だけなら、複数の高位魔術師による電磁投射術式に敵うものはないが、
しかし、彼女ほど卓越した腕があれば、標的が複数であっても、気づかれる前に風下から一方的に撃破することも可能となるだろう。
通常、飛行型オルディウムは異常に発達した翼と胸骨を持っている為、なまじ心臓や肺を狙ってもいずれかで
しかし今回、サーシャの存在と、ジェイルの卓越した戦闘能力、そして王国から貸与されたある装備により、かなり有利な条件で戦えるとラーズは踏んでいた。
それはアトラスの国立科学技術部がアトラス領土の
それは先史ではコノトキシンと呼ばれていた物質で、アンボイナという名のイモガイの一種から取り出された非常に強力な神経毒だ。
現地の島民の間では知らぬ者がないほど恐れられているこの貝だが、意外な事に近年まで王都の研究者達には知られていなかった。
正式に知られたのはおよそ十年前、現地に派遣されたある軍人が、海洋生物の基礎知識を有していたお陰で上層部に報告が行き、後日王都の調査隊が向かったところ、現地入りした当日に複数発見されたという。
もっとも、現在の科学水準では精製もままならないので、サーシャが使う矢は、複数のイモガイから取り出した大量の毒液をそのまま対象に撃ち込めるよう設計された代物となっている。無論、矢の重量バランスにも細心の注意が払われており、通常の矢と変わらぬ命中精度と飛距離が保たれている。
コノトキシンは末梢神経に働く毒であり、例えサーシャの狙いが
そこで毒が代謝される前に、息の根を止めるのが他のメンバーの仕事となる。
被害に
ヒューズは六本の細身の投げナイフに兎の肉を刺し、焚き火で炙る。そして表面が良い色に焼き上がったところで、別の山岳地帯で採取しておいた岩塩を削ったものを適量振りかけ、ラーズ達に配る。
それを頬張りながら、『ヒューズが料理した肉は格別に美味い!焼き加減が最高だ』『いやそれもだがサーシャの腕があってこそ。でもこの岩塩を選ぶセンスは素晴らしいだろ?』などと騒いでいる。
アリアも同じく周りのペースに合わせて食べているが、皆が盛り上がっているのを黙って見守っている。ジェイルも物憂げに何か考えているようだ。
騒がしかった
ルチルの杖の先から柔らかな
その半径は、おおよそ六十~七十メートル程。
通常の魔術師の同系統の術式有効範囲は、半径三十メートル程なので、ルチルはやはり相当に優れた魔術の使い手なのだとジェイルは実感する。
彼がこれほど優れた魔術師と作戦を共にしたことは、今までに一度しかなかった。
「さあ、食うもん食ったし、明日の作戦に備えて休むとするか」
「──少し待って欲しい」
ラーズの提案を
「皆にはまだ言っていないことがある。大事なことだ。場合によっては、撤退も有り得る」
午前五頃、まだ辺りが暗い内に、部隊一行は荷物をまとめ出発した。
予測の地点まではここからおよそ四時間後に到着する。夜行性である標的は、おそらく狩りを終え、巣で休んでいることだろう。
大型オルディウム。その厳格な定義がある訳ではないが、体長や体高が四、五メートルを超えるものをそう呼ぶことが多い。
今回の標的である飛行種の大型オルディウムは、猛禽類が急激に進化した怪物とされている。
その姿を目の当たりにした者によれば、平均的な個体でも、体長実に四メートル。そこから推測される翼の両端の長さは、優に十メートルを超える。
鳥類らしく、体重はその体躯に見合わず六百キロ前後と予測されるが、人類からすればその戦闘能力は圧倒的だ。
予測通りの体重であれば、矢一本に仕込まれた毒液の量で十分に致死量の筈だが、オルディウムは通常の生物と比較して毒への抵抗力も格段に強い為、決して油断は出来ない。
奇襲の際は、光の屈折率を変える魔術をルチルが施すことで、
五、多くとも六体とされる今回の目標であるが、サーシャが一度に狙撃可能な目標数となると、ルチルの魔術支援を加味しても三、四体が限度だろう。近接攻撃要員だけで一体は正面切って仕留め、なおかつサーシャが急所を外した個体の排除も同時に行わねばならない。
夜行性であるということは、必ず日中に
しかし先遣隊の作戦が昼間に行われたにも関わらず、壊滅の
加えて、いくら大型オルディウムとは言え、十分に対策した筈の王国軍の部隊十六名が全滅した事実を
もしもの時には、リーダーであるラーズは速やかに戦略的撤退を選択する必要があった。
作戦展開予測地点までおよそ一キロの地点。地図を
「よし、皆ここで止まれ」
局地的に存在する針葉樹林。ここを抜けた辺りに標的はいる筈だ。
ヒューズは皆の荷物を預かった後、ロープを使い地表から数メートルの高さの木の枝に吊るす。作戦の成否に関わらずこのポイントで落ち合う為の目印となる。
「いよいよだな、各々気を引き締めていけよ」
何故かアリアが隊長のような発言をする。小声で話してはいるが、その表情を見れば微塵の緊張もないことが丸分かりだ。
「──ジェイル。昨晩の話、未だに信じられないんだが…本当にそれでいいんだな?」
ヒューズが小声で、問いかける。
「おそらく間違いない。すまないが皆、言った通りに頼む」
ジェイルの念押しの一言に、アリア以外のメンバーは緊張した面持ちで頷いた。
開戦
その瞬間、感情はただの
もしも外したら、獲物が動いたら、という
今までに気の遠くなるほど繰り返して来たように、ただ、中たるように射る。
それだけで、すべては解決する。
サーシャの一家はアトラス東部に広がる森林の集落で、
サーシャが初めて獲物を狩ったのは、僅か七歳の頃。
その得物は、師でもある彼女の父が手ずから、イチイの木を削り出して
これは成人男性ならば問題なく引ける重さだが、まだ小さな子供には明らかに不釣り合いな代物。
それを彼女に与える父も父だが、なんとサーシャはそれを苦もなく引き切り、たった数日の訓練の後に、見事に綿鴨を射抜いた。
もっとも、彼女の一撃だけでは流石に仕留めきれず、父が直後にとどめを刺したのだが、その見事な結果に、普段は
何代にも渡って猟師として生きてきたサーシャの一族には、生まれながらにして非凡な弓の才能が備わっていた。それは、進化と言っても差し支えのないほどに。
しかしサーシャは、女なんだからもう弓は止めろという、一部の親戚の心ない声に嫌気が差し、女でも男よりも優位に立てると証明する為、数年前から単独で傭兵を
そしてある任務に
サーシャとルチルは、靴を脱いで素足になった上で細心の注意を払い、木の陰に隠れながら、目標地点までおよそ二百メートルまで慎重に近付く。そこまで視力の良くないルチルにも、木々の隙間の向こうに
サーシャにとって、単に命中させるだけならば容易い距離だが、複数の強大な怪物相手となると、強化術式で補強した矢尻で急所を正確に射たとしても、その表皮すら貫けるかどうか怪しい。
そこでギリギリの所まで、慎重の上にも慎重を期して距離を詰めていく訳だが、ある地点で、これ以上は危険だという共通の感覚が、二人の胸中に俄かに迫り上がる。
標的までの距離はおよそ百五十メートル。
ルチルが目で合図を送り、無言で
可視光を屈折させ
そうして二人は、じりじりと標的に近付いていく。
ここまで来れば、ルチルの目にもはっきりと標的が見て取れる。この距離でも相当な迫力だ。
ルチルの首筋を冷や汗が
距離およそ五十メートル。
森林がちょうど開けた空間に彼等はいた。
目標の群は、やはり眠っているらしい。これは
その周囲には哺乳類の毛や衣服や鎧の破片が散乱し、
サーシャ達の位置から確認出来るオルディウムは、四体。そのいずれも頭部か首筋を露出させている。
──この距離ならば、抜ける。
そう確信したサーシャは、先行するルチルの肩にそっと手を置き、木の陰にしゃがませると、数秒の内に呼吸を整える。
外したら、獲物が動いたら、それらは考えても全く意味がないこと。
ならば、ただ外さないよう射る。
それだけで、全てあるべき所に落ち着く。
そして流れるような動きで、矢を
彼女はもう──何も考えてはいない。
黒い強弓から放たれた最初の矢は、ほぼ直線の軌道を
コノトキシンは、生物の筋肉や呼吸器に特に
続いて、最初の矢が着弾するよりも早く放たれていた矢は、サーシャから二番目に遠い位置にいた若いオスのオルディウムの首筋へと吸い込まれる。
またも驚異的な精度で硬い羽毛部分を避け、なおかつ矢尻部分を、動脈まで
いかに奇襲に不慣れなオルディウムとは言えど、本能的に危機を察したメスの個体が警戒の声を上げようと
苦痛の声を上げ、激しくのたうち始める同胞たち。
最後のオルディウムは、もう完全に襲撃者の存在に気が付いている。はっきりと知覚出来た風切音。
──これは、人間の弓兵の
すべてのオルディウムに共通することであるが、異常なほど
最後のオルディウムは全身を瞬時に強張らせ、逆立った羽毛と強靭な筋肉で、全身を守る鎧を形成した後、その驚異の視力で、矢が飛んできた方向を索敵する。
しかし肉眼で二キロ先の兎をも補足する眼は、襲撃者の姿を
彼がその不自然さに気付いたその直後。
言葉を持たない彼の最期の思考を、無理矢理に言葉で表現するならば。
『なんだこの黒い点は?大きく、大きくなる……』
サーシャがオルディウムに向けて放った一撃は、彼の眼球の中心を恐るべき精度で捉えた事で、その距離感を掴みにくくし、彼に回避行動を起こさせなかった。
特製の鏃は、初めの一匹と同じく、彼の眼球の中心を抜けて脳に到達、同時に大量の毒液を溢れさせながら静止した。
「よし!」
木陰から飛び出したラーズが、抜き身のグレートソードを背負いながら全力疾走する。
そのすぐ背後をヒューズとジェイルが続く。
「見事だ!」
ジェイルも珍しく感情を込めて声を上げる。
近接戦闘において鬼神の如き強さを誇る彼ならば、弓もある程度は修めていて当然だったが、弓の練度だけは、王国軍の兵士の平均を大きく下回ってしまう。
引く力加減が分からないというのが主な理由だが、兎も角、ジェイルは自らに不可能な事を成すサーシャを、素直に賞賛する。
奇襲開始の際、近接武器の三名は標的の風上に侵入しない様、細心の注意を払いながら、サーシャ達とは別の、目標から百メートル程の地点まで回り込んで待機していた。
サーシャ達から見て右手側の木々の影だ。
そして最後の
自身の精神の未熟さも相俟って、馬車の中で思わぬ
通常、グレートソードと呼ばれる大剣は乱戦用の武具であり、実戦で使われることはほぼない。その重さの余り、隙が大き過ぎるからだ。
そんな扱い難い武器をラーズが好んだ理由は、彼の
勿論、斬撃に不可欠な握力、手首の頑強さ、上腕の筋力、股関節の柔らかさ、大腿と脹脛の瞬発力、様々な要素でラーズは並の剣士とは一線を画している。
しかしそれだけでは、グレートソードを振る事は可能でも、自分より大きな敵を『斬る』ことは難しい。
彼は常人には考えられない程、強く大きく発達した
「おおおおおおおお!」
動脈に猛毒が注入されていようと矢傷自体は軽傷なので、やはり毒が作用するまでの僅かな時間は、恐ろしい脅威であることに変わりはない。
予期せぬ襲撃者達を上空から迎撃しようと、羽ばたき始めたオルディウムの左翼の真ん中辺りへ、容赦ない一撃が加えられる。
ズドン!
翼ごと断ち切る事は不可能だったが、人間でいうところの前腕部の骨、橈骨を両断した。
これでこの個体が飛び立つ事はない。
「ヒューズ!」
翼へ深く食い込んでしまった大剣を引き抜くと同時に、オルディウムの巨大な嘴によるラーズの頭部を狙った反撃を、膝の『抜き』により紙一重で
「──今終わる」
ラーズのすぐ頭上から答えるのは、十文字槍を両手で
体長四メートルの巨体とはいえ、嘴で人の頭部を狙った攻撃を出せば、当然背を曲げ、まるでお辞儀をして頭部を差し出している様な
そうした体勢で、オルディウムは正に今、空中からこちらへ向けて必殺の一撃を繰り出そうとしているヒューズを見つめる。
しかし、いくら鮮明に捉えられていても、この体勢から何らかの動作を行うことは、もう不可能だ。
その優れた視覚は、槍の穂先が自らに真っ直ぐ迫り、頭蓋内へ侵入して来るその瞬間まで、正確に機能し続けた。
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