思想禁止法と完全犯罪爺さん

 1920年、合衆国憲法修正法第18条において、思想禁止法が施工された。

 思想禁止法は5秒以上の思索・哲学談議・思想の敷衍等、「現実の活動を阻害し弁論の愉悦に浸らせる行為」を禁止した法律で、最終的に様々な物議を醸し1933年に廃止されるまで合衆国の生活と文化を多大に規定した。物議というのは外国人マフィアによって運営された違法なバーと貨幣の大量流出のことである。合衆国は当初西洋哲学とその近縁のみを思想と認めていたために、東洋思想やインド思想について行われる談義に手出しすることが出来なかった。これらの思想を西洋思想と並列させることに一定の反対があったのである。そもそも思想を禁止するほど忌避しているのなら、いまさら文化的なプライドなどあるはずもないと私には思えるのだが、当時の人々はそうではなかったようだ。これら海外の思想を、西洋思想と併置しうるかどうかはともかくとして、「現実の活動を阻害し弁論の愉悦に浸らせる行為」と同定する解釈が認められるまでの数年間、マフィアは堂々と哲学談議を許容するバーを運営していた。もちろんそこで流通した貨幣は国外へ流れていくことになる。そうでなくとも国内の治安維持に悪影響を与える活動の資金源になることは間違いなかった。

 このような治安への悪影響にも関わらず、なぜ思想が禁止される法律が制定されたのだろうか。むしろ思想は西洋文化の発展発達を支えた女神そのものではなかったか。

 こうした疑問が当然視される歴史的視点は、知性主義・学歴主義を肯定し再生産する学術ヒエラルキーのフィルターを経たものである。思想を信奉するものだけが学術的世界の社会階層化システムの上位に君臨し、そのシステムを更に強化する。彼らの組み上げた階層化システムで利用されるテストは、ヒエラルキーの上位に君臨する人たちの思想、価値観、理論負荷性を逃れられない教科書をもとにして作成される。つまり思想を信奉するものが、思想を信奉するものだけが通過できるテストによって社会階層構造を再生産するのだ。この学術ヒエラルキーの副産物こそ学術書であり、我々の歴史的視点の源泉でもある。要するに先の疑問を当然視する視点は、そもそも思想を信奉する前提にあるのだ。これでは問いただされる当のものが問の解決の最初の前提になってしまう。論点先取りの誤謬である。

 思想は、一般に読者が想像する以上に社会的に抑圧されていた。まず信仰と理性は一般に相容れないとされていた。理神論と呼ばれる自然宗教が認められた時代も少なからずあるが、これは例外である。家庭でも教会でも理性によって伝承を解釈したり合理化することはたしなめられ、普通躾と称して身体的な罰が与えられた。また社交の場においても思想を開陳すると白い目で見られるかその場で追い出されるのが一般的であった。少なくとも彼は次回から誘いを受けなくなるだろう。当時から衒学的pedanticと言うフレーズは否定的な意味で使われた。厄介なのはその言葉がそもそも日常言語からかけ離れており、「衒学的」と口にすることがそもそも衒学的になってしまうことである。このことによって思想をひけらかすことを非難するのに最適な言葉を使うことが思想をひけらかすことと同義であることによって、社交の場において思想の信奉を直接非難されることはまずなかった。こういう場合彼らは静かにコミュニティから排除されていくのである。

 しかしどうしてこのようなことがまかり通ったのだろうか。科学を信奉するこんにちの一般的読者諸兄は首を捻るだろう。もちろんその首が捻り切れるまで読者を置いてけぼりにする権利を私は実質的に持っているのだが、倫理的親切心から最低限の説明をしておこうと思う。

 我々も承知の通り、学術的な地位の高さは容易にその人物の発言の信頼性や正確性の高さとすり替えられ、学術ヒエラルキーにおける上昇はすぐさま権力の上昇すなわち政治的ヒエラルキーにおける上昇を意味する。このあたりの構造についてのより詳しい考察は例えば社会学者のM・セルトーを参照するのが良い。ともかく学術的な力の強さは政治的な力の強さへと置換されるという一般的ダイナミズムが今日では認められている。こうしたダイナミズムが1920年当時に存在しなかったわけではない。むしろ存在したからこそそれと対極をなす勢力が存在したのだと考えるべきである。つまり思想を信奉することによって政治的権力を得る道と対を成す道が存在したのだ。この道が当時は勢力的であり、結果として思想禁止法が施工されるまでに至った。事象としてはそれだけのことである。

 ではこの対をなす道とは何であったか。威圧である。威圧感の強さは政治的ヒエラルキーにおける上昇に直結する。家長や教区長はより高圧的・威圧的であることが良しとされ、自警団と称して私兵を持つのが一般的であった。マリウス以後のローマの再来と考えてもらえば差し支えない。こうして社交界のスターはギリシャ彫刻のような肉体を持つ自警団の長か、地母神のような肉体と強力な自警団を持つ金持ちのどちらかとなった。

 この現代からすると異様な時代には様々な逸話があるが、今回はその中でも特にお気に入りの小話を紹介しよう。完全犯罪爺さんのお話である。

 1927年。場所は中国思想の哲学談議バー。諸外国の思想を思想禁止法の適応範囲に認めて2年ほどが立つがマフィアは懲りずにバーを経営していた。どうせ見つかればみんな一緒に牢屋行き。腹をくくって店に訪れる客はそこらの社交界のメンバーよりよっぽど豪胆であったに違いない。彼らは中国思想と言わずインド神話にイスラムの瞑想や宗教的舞踊、果ては日本の禅にまで言及し、辛抱ならなくなった客たちは新プラトン主義にまで議論の歩を進めた。そこで運悪く警官たちのお出まし。一斉検挙が始まった。マフィアたちは逃げるなりごねるなりしただろうが、客たちは肝が座っている。警官たちに口をふさがれるまで、延々と談議を続けた。曰く新プラトン主義によれば一者the oneの精神的世界こそ我々が目指すべき到達点であり、我々のいる肉体の世界は脱出すべき経過点に過ぎない。我々の肉体をこうして束縛する警官たちもそうした肉世界の一部にすぎず、そうした肉の差異と摩擦が消失する精神の世界にこそ真の実在は存在するのだと。布で口をふさがれた彼らはついに目を瞑り黙々と瞑想を始めたのだった。しかしこうした一連の出来事の最初から最後まで唯一人沈黙を貫き通す爺さんがいた。彼は別に目をつむったり瞑想にふけったりしている様子はなかった。彼は議論を聞くとも聞かぬともわからぬ風体でただただ酒を飲み、ナッツを噛み、警官に連行された。

 思想禁止法に違反したと思われる人は必ず尋問を受ける。大抵の人間はここで嬉しそうに一体どんな議論が展開され何が話題となったかすべてを話す。警官は黙々と記録を取り、摘発があった地域周辺で蔓延している思想のデータをとり、思想流行の中心地と目されるバーを張り込む。このような一連のシステムで警察は成果と言う名の摘発数をみるみる増やしていた。中国思想バーで飲んでいた客たちもその例外ではない。ただ一人沈黙していた爺さんを除いては。

 爺さんは最初の一日ただただ沈黙を貫き通した。尋問室にあってただ一人、警官の声が聞こえるか聞こえぬかもわからぬピントのボケた顔で、何も含んでいないはずの口をモゴモゴさせていた。次の日に専門家が呼ばれた。専門家とは名ばかりの、こじつけ役である。適当なことを見つけて思想禁止法の適応範囲に無理やり当てはめる仕事だ。専門家は言った「このもぐもぐしている口は内語inner languageの証拠である。要するに彼はいま頭の中で何事か喋り続けているのだ。きっと頭の中で哲学の議論を続けているに違いない。こいつは明らかな思想禁止法違反である」と。そこで爺さんは初めて口を開けた。「どうしてワシが哲学の議論をしているとわかるのじゃ」

 専門家と警官たちは首を捻った。確かに、モゴモゴする口が合わない入れ歯のせいなどではなく内語のせいであったとして、一体どうしてその内語の内容がわかるのだろうか。警官の一人が専門家に耳打ちした。読唇術が使える警官を呼んできましょう。そうすれば彼が頭の中で何を喋っているかわかるはずです。なるほど名案だとばかりに専門家は警官一人を引き連れて尋問室を飛び出した。

 しばらくして警官は二人に増えてやってきた。もちろん先程の専門家のおまけつきである。都合のいいことに沈黙爺さんは口をモゴモゴさせていた。警官がそれを読む。

「てつがくしているのはおまえたちだ」

 哲学しているのはお前たちだ。どういうことだろうか。警官たちは顔を合わせた。お互いの目に間抜け顔が写る。爺さんが口を開いた。

「お前たちは個人の主観に属する事柄をいかにして知りうるか、という伝統的な哲学的問題に直面しまさに今議論し、その解決を試み模索までしたのだ。思想禁止法違反はどっちかなあ」

 恐ろしいジジイである。また厄介なことにこの男は政治的に権力のある人物複数人とパイプがあり、面会に訪れた彼らに告げ口されれば、ここで尋問した警官たちが摘発されるのは容易に想像できた。

 かくして爺さんはめでたく釈放された。以後この爺さんは完全犯罪爺さんと呼ばれ酒場で肴と消費される逸話となったのだ。


 参考

「アメリカ合衆国における禁酒法」『Wikipedia』(2021/05/09最終閲覧)<URL>=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A6%81%E9%85%92%E6%B3%95

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