第3話 角の生えた獣

 どのくらいの時間が掛かったかはわからないけども、何とかロープの切断には成功した。引っ張りながら腕を上下させていたせいで手首は真っ赤に腫れて若干、血がにじんでいた。

 痛い。

 ひりひりする。

 でも、この痛みは生きている証拠だ。

 私は縛られた状態で化け物に向き合い生き残ったのだ。これって結構すごいことだと思う。

 生贄の祭壇から化け狒々の消えた方に村があるはずなのでその逆に向かって走り出したけども、街道とは呼べないほどの獣道でまるで整備がされていない。

 部屋で荷ほどきをしていた私は当然ながら裸足だ。

 島育ちだから森歩きには慣れているけど、裸足だと結構きつい。道は草木が伐採されているので、辛うじて道だとわかる程度でこれを辿ればどこかにつながっているのが何となくわかる。

 まずはそこを目指す。

 異世界だけど、言葉は通じる。

 人さえ見つけれたらどうにかなるはずだ。

 召喚術はこの世界だと一般的なものだと思う。そうでもなければ、こんな森の奥にあるような場所で、魔王でも魔神でもなく、森の主へ捧げる生贄を異世界から召喚するだろうか。

 それに老人は言っていた。

 送還術と。

 生贄の私を元の世界に帰す気なんてなかっただろうけど、召喚術の対となる術が存在はしているのだ。そうでもなければ、そんなものの話をすることはないと思う。まあ、私を聖女様といったように、とりあえず安心させるためのお為ごかしであることは否定できないけれども。


「痛っ」


 小石を思い切り踏み抜いてしまった。

 ものすごくいたい。でも、我慢できないほどじゃない。

 一刻も早く森から抜けなきゃ。

 その思いだけで必死に走り続けていると、ふと水の流れる音が聞こえてきた。音の聞こえる方へと道から外れて藪を突っ切ると、予想通り川が流れていた。


「助かった」


 かれこれ20分くらいは走りっぱなしで喉が渇いていた。

 でも、なにより顔を洗いたかった。

 全身をきれいにしたかった。

 化け狒々に舐められたときの唾液が臭くて臭くて堪らなかった。それに下半身もだ。水は冷たくて手首の擦過傷にひどく染みたけど、それを無視して顔も髪の毛もごしごし洗った。小川だけど結構な深さがありそうだったから、構わずに飛び込んだ。

 季節は日本にいたころと同じか、春先という感じで夜の森は寒く水は冷たい。

 でも、森を走っていた体はほてっていたし、ひんやり気持ちいくらいだ。


「こんなもんか」


 石鹸がないからまだ若干匂う気がするけど、それでも大分ましになったと思う。濡れた服が体に張り付いて気持ち悪いけど、化け狒々の悪臭なんかよりだいぶいい。

 水分もしっかり補給して、道っぽいところに戻ると再び走り出した。

 島の森なら最悪野宿もできるけど、異世界の森は何があるかわからない。だから、足の動く限り森を走り続ける。

 睡眠薬でどのくらい眠っていたのかわからないけども、夜はまだまだ明けそうにはないし眠気なんか全然ない。

 小川から離れて数分、右手の方から物音が聞こえてきた。


「うそでしょ」


 狼だ。

 月明りの薄暗い森の奥から、ハッハッハッハッと短い呼吸を繰り返しながら五匹の狼が藪を突っ切って向かってきている。大きさは中型犬くらいだけど、狼は狼だ。相手は肉食獣でこっちを食べる気満々だ。


「冗談じゃないわよ」


 せっかく化け狒々から逃げたっていうのに、なんでまたこんな目に遭わなきゃいけないのよ。私は加速して必死に走った。さっきまでだって走っていたけど、もちろん全力じゃなかった。今度は本気の本気。でも、人間が野生の獣より速く走れるわけもなく、その差はどんどん縮まってきている。

 

 ダメだ。

 普通に逃げても逃げ切れない。

 考えろ、私。

 周りは木々の生い茂る森。

 近くに川が流れている。

 狼は5匹。

 裸足。

 いや、とかぶりを振るう。考えるまでもないじゃにい。狼は木には登れない。ここが異世界だろうと、それは同じはず。思いついた私はすぐさま手近な木に登る。

 そして足元を狼の牙が通り過ぎた。


「助かったのかな」


 息を切らせながら太めの枝に立ち、地面をうろつく狼を見下ろした。狼だけど、狼じゃない。そいつらには角が生えていた。異世界の動物なのだから、私の知っている動物と違っても不思議じゃないけども、頭から生えた角がひどく不気味に思えた。

 さっきの化け狒々とは違ってしゃべることができないようで低い唸り声をあげている。


「どっかに行きなさいよ」


 さっさと諦めてくれればいいのに、狼の群れは一向に立ち去る気はないようだ。枝をへし折って投げつけてみたけど、狼にはなんの影響も与えない。

 狼がうろうろと私のいる木の幹の周りを動き回っていると、黒い大きな影が飛び出してきた。影が太い腕を振るうと、それだけで二匹の狼が切り裂かれる。


「私が何をしたっていうのよ!!」


 狼が殺されたけど、助けられたわけじゃない。だって現れたのは熊だ。この世界の動物には角が生えているのがデフォルトなのか熊にも立派な二本角が生えている。

 狼の何倍もの大きさ、ツキノワグマほどの角の生えた熊が「がぁあああああああああ」っと吼えた。鼓膜をびりびりと震わせるほどの咆哮に私は思わず木から落ちそうになる。

 でも、木から落ちなくても絶望的な状況は変わらない。

 むしろ悪化しているかもしれない。

 狼は木に登れない。

 でも、熊は違う。

 考え事をしている間に、もう一匹の狼が殺されて残った二匹は逃げ出していった。熊と目が合った。


 やばい。

 殺される。

 

 熊がのっそりのっそりと近づくと私のいる木の幹を抱きしめた。それだけでミシミシミシッと聞いたことのない音を立てて木の幹がへし折れた。


「きゃああああああああ」


 木を登るどころかへし折るなんて聞いてないわよ。

 思わず悲鳴を上げながら落下した私は腰と背中を強かに打ち付け、呼吸が一瞬止まった。尻餅をついた姿勢のまま見上げると木をへし折った熊がゆっくりと近づいてくる。

 化け狒々とは違う野獣の目。会話で乗り切るなんて絶対に無理だと、その目が物語っていた。私は一緒に落ちてきた枝をつかんで熊へと向けながら後ずさる。

 たかが木の枝じゃあ何の役にも立たないことくらいわかっている。

 でも、最後の一瞬まであきらめることなんてできない。


「いいわよ。来なさいよ。私を食べたきゃ食べればいいじゃない。だけど、ただで死んであげたりしないんだから」


 怖い。

 それこそ死ぬほど怖い。


「私の命は安くはないわよ」


 熊がもう鼻先まで迫っていた。

 頑張って頑張って死に物狂いで東京に出てきたのに、出てきたその日に異世界に召喚された。

 それも生贄としてだ。

 化け狒々から必死の思いで抜け出したのに、これで終わりなの。

 脳裏に右目のおかしなフードの男の顔が浮かぶ。

 白髪の老人もそうだが、あの男こそがすべての元凶だ。

 あいつが私を召喚したのだ。

 絶対に許さない。

 死んでも許さない。

 無我夢中で枝を振り回す。だけど、その枝は太い腕に簡単に薙ぎ払われてしまう。私のしたことなんて、寿命を1秒伸ばした程度に過ぎないのだろう。




 だけど、その一秒が命を救った。

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