第2話 聖女じゃなくて生贄
は?
いや、なにこれ?
背中の後ろでガッチガチに固められた戒めは緩む様子はまるでない。
ゴブレットに注がれたワインを飲んだ私はすぐに気を失った。豪華な料理の片鱗すら目にすることなくだ。未成年だけどアルコールを摂取するのが初めてというわけではない。田舎では褒められたことじゃないけども、正月とか親戚が集まる席ではお酒を口にする機会はある。だから、確実に言える。
「睡眠薬」
ちょ、うそでしょ!!
これが聖女に対する仕打ちなの。
いや、違う。聖女なんてただのまやかしだ。聖女なんて言葉に意味はない。私に睡眠薬を飲ませることが目的だったってこと。いや、考えてみれば私もバカだ。異世界から人を召喚するような身勝手な連中が差し出す飲み物を何の疑いもなく口にするなんて。
でも、そんなことってある……?
異世界から超絶美人の私を召喚しておいて、何もせずに縛って転がす? レイプするために召喚するというのも考えにくいけど、じゃあ何が目的なの。
手を縛っているだけじゃない。
私は森の中の石舞台の上のような場所にいるけども、背中越しだけど鉄の棒に括りつけられているのが感覚でわかる。つまり、逃げ出せないようにしているのだ。
舞台の四隅にはかがり火のようなものが焚かれていて、何かの儀式を行う場所だというのが想像できる。
ドスッドスッ
空には月が出ているけども、森は真っ暗でどこまで続いているのかわからないほど闇が深い。島には街灯なんてほとんどなかったし、私の住んでいた家の裏手の森だってこんな感じだった。だから、そんなに怖いとは思わない。でも、明らかに違うのは空に浮かぶ二つの月。それがどこか不気味だった。
ドスッドスッ
いまはそんな二つの月を眺めている場合じゃない。ここから逃げ出さなきゃ、と思うけど、手首を縛るロープはぎっちぎちで全然びくともしない。背中に当たる鉄柱はそこまで太くはないけれど、触った感触としては角柱ではなく円柱である。つまり、こすりつけてロープを斬るなんて方法は取れないのかもしれない。
ドスッドスッ
どこかに何かないかなと思って鉄柱を触っていると、少しだけがさがさとする場所があった。召喚された部屋と隣の部屋しか見てないけど、文明レベルはかなり低そうだった。鋳造技術は発展してないのかもしれない。ロープをそのガサガサに当てて一生懸命に摩擦を起こす。
テレビドラマだとあっという間に切れたりするけど、現実はそんなにうまくはいかない。そもそも、後ろ手なのでどのくらい削れているのかも分からない。進み具合が見えないのはしんどい。効果があるのかすらわからないのは心が折れそうになるけども、それしか縋るものがないので、私はただひたすらに腕を動かす。
それにさっきから聞こえてくる音も気になる。
だんだん大きくなってくる音は、明らかに何かが近づいてきている。
ドスッドスッ
階段を上がるような音がすぐそこまで迫り、石舞台の境界から顔が現れた。赤ら顔のサルあるいは狒々か。しっぽが二本あることも気になるけども、問題はその大きさだ。
石舞台の上に上がってきたソレは見上げるほどに大きい。三メートルはありそうだ。
「ぐふぇふぇふぇ、美味しそうなおなごよ」
狒々がしゃべった!!
いや、それよりも問題は、私を見て”おいしそう”といったことだ。私を食料として見ている。
やばい、怖い。
何なのよコレ。食べられるの?
東京は怖いっていうけど、こんなの予想できるわけないじゃない。いやだ、死にたくない。
「いやぁ」
「ぐふぇふぇ、ああ、甘美な恐怖の感情よ。もっともっとワシにくれぇえ」
狒々の口元からはだらしなく涎が零れ落ち、長い舌が私の顔をべろりとなめとった。
くさい、こわい、気持ち悪い。
ざらざらとした舌の感触、肉の腐ったような吐息、ゾクゾクゾクっと体中に怖気が走り、下半身から温かいものが流れたのがわかった。それが何かは乙女の秘密だ。
死ぬ。
ここで死ぬの?
いやだ。
ふざけないでよ。
やっと東京に出てきたのよ。反対する両親を説得するために、看護学科の学費だって自力で稼いだ。私がどれほどの思いで東京に出たと思っているのよ。おいしいものを食べて、おしゃれして、かっこいい人に会うために出たのに。まだ何も、何もしてないっていうのに!!!
冗談じゃない、死んでたまるもんですか!!
「待って」
「ぐふぇふぇ、どうした手からがいいか、それとも足からがいいのか。ああいいとも、希望には答えてやろう。ぐふぇふぇふぇ」
恐怖に震える体に必死に力を込めて縫い留める。化け狒々の舌が濡れた下半身に伸びてくる。身を捩りたくなる思いを、意志の力でねじ伏せて化け狒々をにらみつけた。
「あなたは何?」
「ぐふぇふぇふぇ、この森の主。有難く思うがいい。最強の我の糧となるのだ」
「ああ、つまりこういうことかしら。村を襲わない代わりに、森の主であるあなたに私を差し出したということ」
「ぐふぇふぇ、そうだ。そうだ。お前は贄だ」
「ぷっ」
私はさもおかしなことを聞いたとばかりに噴出した。そして、そのまま静かな森に響き渡るほどの大声で「あははははは」と笑い声をあげる。一世一代の演技だ。それを悟られるわけにはいかない。手を縛られている私に、化け狒々をどうこうすることはできない。でも、この化け物は言葉が通じるのだ。だったらそこに賭けるしかない。
私に嗤われた狒々のこめかみに血管が浮かぶ。
「なぜ嗤う」
「だってそうでしょ」
一際冷たい目をして私は言葉を続ける。ともすればガチガチと鳴りそうになる奥歯を意志の力でねじ伏せる。怒りに身を任せて殺されなかった時点で賭けに勝ったのだと密かに思った。助かったとは言えない。ぎりぎりだけど、まだ殺されてはいないのだ。
「あなたが森の主で、本当に最強だというのなら生贄を捧げてもらうんじゃなくて好きな時に好きなだけ食べればいいじゃない」
「……」
「でも、それをしないあなたは――。いいえ、それが”できない”あなたは、生贄を捧げさせている森の主ではなく、村人にいいように使われているペットに過ぎないわ」
嘲りの言葉に化け狒々の血管がぴくぴくと動く。化け狒々の奥歯がぎりりと鳴り響いた。剛毛に覆われた上腕がはち切れんばかりに筋肉を収縮させている。きっと、怒りのままに殴られれば私なんて一瞬だ。
でも、化け狒々は見た目とは裏腹に知性が高いようで怒りをコントロールしている。それゆえに会話が成立しているのだけど、一瞬たりとも気は抜けない。
「違うというのなら、いますぐ村人を食べてみなさいよ。お腹が満たされるまで喰って喰って喰いつくしてみなさい」
「我は何も恐れない。いいだろう。村人を一人残らず喰らってやる。だが、まずは生意気な貴様を喰らってからだ」
口が大きく開き、鋭き牙に涎が伝ってしたたり落ちる。私の頭くらい人の身にできそうなほどに大きい口だ。
死ぬほど怖い。
でも、怯えたら負けだ。
間近に迫った死に心を震わせながらも、より強く化け狒々をにらみつける。
「生意気な私に森の主の偉大さを証明しなくていいのかしら。それともできないの? どうせ縛られている私は逃げることもできないのよ。慌てる必要はないでしょう」
「ぐふぇふぇふぇ、ああ、そうだ。お前は我のものだ。いいだろう。お前は最後に味わうとしよう」
狒々が三度、顔を舐めてくる。
身の毛のよだつ悍ましい感触に全身に鳥肌が立つ。
「ぐふぇふぇふぇふぇ」
石舞台から笑い声をあげ化け狒々が飛び上がっていった。
森の奥へと消えた化け物の後ろ姿を見送ると、その場で嘔吐した。抑え込んでいた震えが一気に襲い掛かる。
「急がなきゃ」
今すぐの死は逃れたけども、絶望的な状況は変わらない。化け狒々が戻るまでにロープを切って森を抜ける。
生きてやる。
誰が死ぬもんですか。
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