I、愛


「やばいやばい!」

 彼女は爆走していた。小鳥が囀り、そよ風が草木を優しく揺らす争いや不和とは無縁そうな平和な森を四足全てが引きちぎれそうな勢いで駆けていた。


 何故なら蝮が後ろから凄まじい速度で追ってきているからである。


「シャアー!」

 この捕食者とは先ほど川で喉の渇きを癒している時に見つかったのだ。蝮もよほど、腹を空かしているのか、口の端からは唾液が垂れている。


 目の前に見えた木を猿のように華麗な速度で登って行く。視線を下に向けると飢えた捕食者も細長い体を駆使して、追ってきている。


「しつこいなあ!」

 追跡をやめない捕食者に彼女は文句を垂れた。しかし、体力といい、逃げ場所も限界に近づいている。


 ついに枝の先端まで追い詰められてしまったのだ。下を見ると気が遠くなりそうなほど、地上から離れていた。


 時折、足元から吹き上がる風が木々を揺らして、彼女の不安感と恐怖を煽ってくる。


「シャアー」

 蝮が彼女の危機的状況に拍車をかけるように近づいてくる。視界にチラチラと映る猛毒を含んだ二本の白い牙。


 あれで噛まれれば体の小さい彼女はすぐに全身に毒が回り、確実に死亡する。


 するとパキっという何かが折れた音と共に足元から感覚が無くなった。先ほどまで彼女の乗っていた枝に蝮が乗ってきたことで、重さに耐えきれなくなり折れたのだ。


「うわあー!」

 彼女は空中に投げ出されて、真っ逆さまに落ちていく。無論、蝮も落下している。しかし、その目はしっかりと彼女を捉えていた。

「あいつに食われるのは嫌だ。毒で苦しみながら死ぬくらいなら、地面に激突して即死がいい!」

 すると視界の端から黒い物体が彼女に接近していた。鴉である。黒い翼をはためかせて、彼女を捉えていた。


「うそ」

 彼女は静かに目を閉じた。死を受け入れたからだ。真上からは蝮。下には硬い地面。そして、横からは鴉。


 胴体を硬い何かで挟まれる感覚があった。うっすらと目を開けると鴉の黒い嘴がしっかりと彼女を挟んでいた。


「ああ、終わった」

 彼女は息の抜けたように呟いた。このまま丸呑みにされるか、啄ばまれて、細切れになった状態で胃袋の中でドロドロに溶かされていくのだ。


 頭の中で自身の死を連想していると、鴉がゆっくりと着陸した。そして、彼女の体を解放したのだ。


「いやー。えらい目おうたな。嬢ちゃん」

 鴉がケラケラと笑い声を上げた。捕食されるかと思っていた彼女は予想していなかった状況に目を丸くした。


「えっ、あっ、た、助けてくれたんですか?」


「おうよ!」

 鴉が元気よく答えて笑みを浮かべた。すると近くの茂みが音を立てて、何かが出てきた。蝮だ。おそらく草木が落下の衝撃を和らげて、一命をとりとめたのだ。


「またか」

 蝮が彼女と目が合うなり、卑しい笑みを浮かべた。彼女の体に悪寒が血流とともに駆け巡った。


「嬢ちゃん! 背中乗り!」

 鴉に言われるがまま、彼女は黒い背中に乗り込んだ。蝮が逃すまいと鎌首をもたげて、飛びかかってきた。


「うおおおおお!」

 勢いよく羽ばたいた鴉の背中に必死にしがみついた。ふと視線を地上に向けると蝮が悔しそうに何度も首を伸ばしていた。


「なんとか噛まれずに済んだな」


「本当にありがとうございます」


「かまへん。かまへん」

 彼女は鴉の暖かな羽毛にこの上ない安心感を覚えた。あまりに心地よすぎて眠気が湧いてきてしまうほどだ。


「でも、なんで助けてくれたんですか?」

 率直な疑問だった。抵抗も出来ない獲物を見つければあのままパクリと食べてしまうのが普通だ。


「昔、トカゲに娘を助けてもろた事があるんや。せやからかな?」

 鴉が懐かしそうに呟いた。彼女はその恩人に感謝した。その同胞が鴉の娘を助けて恩義を感じているから自身もその温情に預かり、生きているのだ。


「娘さんをですか、それは良かったですね。何せ奥さんとの絆の一つですからね」


「せやな。うちの奥さんとの大事な絆やし、愛おしい存在や」

 鴉がとても嬉しそうにに翼をはためかせた。


「嬢ちゃんは旦那とか彼氏さんはおらんのかいな?」


「うーん。まだそういうのはないですね」

 彼女は鴉の唐突に驚いたが、率直に答えた。もちろん、彼女自身、興味がないわけではない。いつかは互いに思い合える相手は巡り合いと思っている。


「あー、そうかそうか! いや、嬢ちゃんくらいの年頃やと恋の一つや二つあるんやないかと思ってな」


「まあ、そう言う出会いもあればいいなとは思っています。奥様とはどうやって出会ったんですか?」


「ワイが一目惚れして、そっから猛烈にアタックした。そんでめでたくゴールインや」

 快活な性格である彼らしい答えであった。この鴉の積極性に根負けしてしまうのは無理もない。


「まあ、せやけどその甲斐あって今は幸せやわ。やっぱり大事なのは愛やな」

 鴉がにこやかな笑みを浮かべた。彼女は頭の中でとあるビジョンを浮かべようとした。自身が最愛の存在と結ばれる事である。


 しかし、一向にビジョンは浮かばず、断念した。私にはまだ早いか。そんな事を考えながら、夕日に目を向けた。

 

 数分後、彼女は地上に降りて欲しいと頼んだ。鴉は快く了承してくれた。


「今日は本当にありがとうございます!」

 彼女は胸いっぱいの感謝を口から吐き出した。


「ええよ。ほな。元気でな嬢ちゃん。またどこかでな!」

 鴉が大きく両翼を広げて、飛び立った。夕日の中に消えていく鴉の後ろ姿はとても美しく、神々しさすら感じた。


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