ヒトの世界 二
ヤモリに言われるがまま進んでいくと、周囲の空気が淀んでいく事に気がついた。
「なにここ。すごい空気汚いね」
「あー、すまない。山育ちのお嬢ちゃんにはなれない環境だったな。だけどもう少しの辛抱だ」
呼吸器官に埃が溜まりそうなほど空気が汚いのだ。肺が篭もったように息が苦しくなる。
すると突然、空気が揺れるような感覚が鱗越しに伝わってきた。しかし風は吹いていない。
「風じゃない。これは音の振動だ」
謎の振動は近づけば近づくほど、振動が激しくなっていく。
「一体何があるんだろう」
素朴な疑問と同時に正体不明の振動に対する緊張感が増幅し始める。
「ここだ」
ヤモリの視線の先にあったのは薄暗い空間だった。しかし、僅かな隙間からでも理解できるほど室内で流れている音は常軌を逸する程の音量で流れている。
「フォー!」
「イエーイ!」
その中から耳をくような無数のヒトの叫び声が聞こえる。本能に任せた野獣の咆哮にも似た叫び声だ。
「ここは何?」
「クラブっていう所らしい。まあ贅沢の境地というべき場所だな。ヒトの成体が繁殖相手を見つけたりするための場所としても使われる」
「こんな薄汚れた空気の中、交尾の相手を見つけるの?」
「そうだ」
彼らが手足を千切れんばかりに振っているのはおそらく相手を呼び寄せる為。
暴力的に明滅する多色な光がヒトの理性と本能を狂わせる。やがて活火山のマグマのように噴き上がった大音量が窮屈な一室に飛散する。
マグマはやがて観客を飲み込み、理性や倫理観を跡形もなく溶かして、獣に変えるのだ。
目の前で起こっている非日常的な光景を彼女はただ、呆然と見ていた。
日を跨いだ時刻。彼女はネオンに照らされた町並みを俯瞰していた。街の景色を一望していると自分がこの世界の支配者になれた気がした。
傲慢な心持ちになるほど、ヒトが生み出した生活居住区は謎の力を持っているのだ。
生活を豊かにするために作った煤けた色の理想郷。しかし、これほどまで巨大な世界を築いたのにも関わらず、道ゆくヒトの目には渇望が混じっているようにも見えた。
いや、満たされすぎて、自分では何も生み出せない事に対しての、夢への渇望かもしれない。
「なんか、ヒトって可哀想だね。自分達を苦しめてまで、この世界にい続けたいのかな?」
「ヒトは果てしなく、欲があるからね。本当にどうしようない連中さ。未知の世界で一瞬の幸福に触れた瞬間、幸せを感じるのさ。奴らはその一瞬のために生きている」
目に映る人間達がかつての自分と重なった。何かを成し遂げて、老いて朽ちていくのか。
平凡とした日々を過ごして、今のようないっときの刺激のみを求めて生きていくのか。
もしくは虚無を悟り、何もせず死んでいくのか。しかし、いずれ死ぬときまでのその間に自身の生きる意味を見出せば、素晴らしい一生になると彼女は信じているのだ。
早朝。カラスの鳴き声で目が覚めた。昨晩の光景とは打って変わり、死んだように寂れた人の世界が広がっていた。隣ではヤモリが寝息を立てている。
眼下には無数の人間達が働き蟻のようにぞろぞろとあらわれて、今日を生きるために働きに出る。
彼、彼女らが解放される日はいつになるのだろうか? 緑と調和する日は来るのだろうか? そんな疑問を抱きつつも、ヤモリに一礼をして煤けたヒトの世界に別れを告げた。
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