一期一会を大切に

「まいった」

 湿気が漂う森の中、彼女は果てしなく広い濁った大空を仰ぎ見て嘆息をついた。


 地を叩きつける豪雨に足止めを食らっていたからだ。降雨の勢いは凄まじく辺りには瞬く間に水溜りが出来ていた。


 しばらくしていると彼女の気を削ぐようにどこからか湿気が漂ってきた。


 息がつまるような蒸し暑さと滂沱する雨。彼女自身、雨は嫌いではない。


 雨が上がった後の片雲一つない青天井の下、水溜りで身を清めるのが好きなのだ。川や湖と違ってどこか特別感を覚えるのだ。


 その楽しみまでこの天界から降り注ぐ自然の弾丸が過ぎ去るのを待つしかない。


 ふと横に何かの気配を感じた。目を向けると蝸牛が両目を左右で別々に動かしながら雨空を眺めていた。


 蝸牛にとっては今のような雨の日はまさに天国なのだろう。


 しかし、彼女には足止めを食らっているのが我慢ならなかった。


「ええい! 雨が何よ! 勢いでどうにかしてやる!」

 一歩踏み出そうとした瞬間、曇天がほんの一瞬、明るくなった。


 数秒後、凄まじい轟音が淀んだ空に鳴り響いた。


「ひえっ!」


 その影響で彼女の中で芽を出そうとした勇気が一気に萎んでしまった。


 まるで見えない壁が彼女の行く手を遮っているような感覚だ。憂鬱な気持ちに侵されていき、気力が削がれそうになる。


「あまり焦らない方がいい」

 隣にいた蝸牛が左右の目をこちらに向けていた。眠気を誘うような口調に一瞬、彼女の心が安らいだ。


「はい。でも私、出来れば立ち止まりたくないんです」


「それはどうしてだい?」


「私、色んなものが見たくて旅をしているんです。だからどうしても気持ちが先走ってしまうんです」


 彼女は己の中に渦巻く躍動感を赤裸々に語った。胸の内から好奇心やときめきが溢れ過ぎて、常に先へと進みたがっている。


 今の彼女にとって一分一秒がとても大事な時間で、旅を始めた以上は一日でも多くの景色を目に焼き付けたいのだ。


「たまにはのんびりと休むのも旅の醍醐味さ。風景は逃げない。それにこの天気を見てごらん。雷がゴロゴロと鳴っている。それにこの酷い雨だ。急ぎたい気持ちはあるだろうけど、体温が下がってしまうよ」


 そういい、蝸牛が淀んだ空に目を向けた。沈鬱な気分に苛まれるはずだが、蝸牛の目にはそんな様子は一切、感じられなかった。


「色んなものを見るだけが旅の楽しみじゃない。こうして初めて出会った存在と意思疎通を交わすのもいいものさ」


「そうか」

 彼女は友と出会った日のことを思い出した。目に傷を負った同種の雄を見るのは初めてだったので鮮明に覚えている。


 穏やかで心に余裕があるような雰囲気を漂わせていた。


 旅と同じく新しい存在と触れるというのも旅と同等に価値があるものなのだ。


「一期一会を大切にね」


「はい」

 彼女の中に存在した迷いが吹っ切れた時、雨音が弱くなっているのに気がついた。


 霞みがかった彼女の心を晴らすように雲の切れ間から光が差し込んで来た。


「どうやら上がったみたいだね」


「ええ、それじゃあ行きます。ありがとうございました!」

 彼女は感謝の言葉を伝えると、湿気が漂っている木陰から抜け出した。上を見上げると果てしなく広い青空。


『一期一会を大切に』その言葉が彼女の脳裏といつまでも回り続けていた。

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