追跡者
静けさが漂う山の中、彼女は辺りをゆっくりと進んでいた。
山は危険な生き物や土砂崩れなどの自然災害で牙を剝いてくる時もあれば、美しい風景で外客をもてなすこともある。
しかし、彼女は牙を剥かれたのも同然の目にあっていた。
「あー、進みが遅いし、足が濡れる!」
先日の雨のせいで地面が所々、ぬかるんでいて大変進みにくくなっていたのだ。
ネチョネチョとした土の感覚が彼女の足裏に纏わり付き、定期的に不快感を与え続ける。
「毒があるとかそういう物じゃないんだろうけど、慣れないね」
ため息をつきながら、進み続けていると、あることに気がついた。徐々に視界に霧が立ち込めてきたのだ。
彼女は霧がかかった鬱蒼とした森の中にいた。森の木々や草木から生気を感じない。
森そのものが死んでいるような雰囲気に包まれている。
「なにこれ」
霧を見るのが初めてだったため、先の見えないという事態に少し恐怖を覚えた。
夜などの視界が暗くなると分かっている時間帯とは違い、今は昼間である。
「ひょっとして足を踏み入れたのって間違いだったかな?」
彼女の中で若干の後悔が顔を出した時、霧の中から血の臭いが嗅ぎ取った。
臭いが濃密なため、かなり近くにいることが理解出来た。
ゆっくりと近づいていくと、臭いの正体に目を丸くした。
鼠の死体であった。腹部には食いちぎられた跡のようなものがあり、血肉が腐食しておらず、死亡してからあまり時間が経っていない事が分かった。
「まさか!」
彼女の小さな心臓が激しく鼓動を刻み始めた。鼠の遺体は完全に腐食していない。
つまりは最近出来たものであり、鼠を手にかけた存在が近くにいる可能性があるのだ。
すると前方から獣の臭いが鼻をついた。僅かに血の臭いも混じっており、彼女の警戒心が心拍数とともに一気に急上昇する。前方から目に見える霧に影ができて形がはっきりしていく。
「ひっ!」
彼女の全身に怖気が走った。そこにいたのはかつて彼女を恐怖のどん底に叩き落としたあの狐だった。
血走った目つきで赤く染まった口元からだらだらと涎を垂らしている。
狐も彼女に気づいたのか。以前と同じ、気味の悪い狂気的な笑みを浮かべた。
瞬時に危険を察知した彼女は近くに生えていた巨木の根っこの間に滑り込んだ。
「まずいまずい。絶対にまずいって!」
時間を待たずして凶暴な捕食者はのような速さで、突っ込んできた。幸い根と根の間隔はとても狭くなっており、口先が入るだけでも精一杯の様子だった。
真正面から何度も彼女を喰らおうとするその姿はかつての恐怖を想起させた。口内から漂う血肉が腐ったような悪臭と歯垢で黄ばんだ牙。
時折、見える殺意に満ちた眼光。心臓を鷲掴みされたような緊迫感に襲われる。
すると狐は勢いよく木々を削り、距離を詰めて来た。
恐怖で震える四肢に鞭を打って、背を向けて駆け出した。
後方から水が弾けるような音が迫ってくる。狐が確実に追って来ているのだ。
必死の思いで森を抜けると前方に川が流れていた。しかし、先日に豪雨の影響で川の水位が上がり、氾濫が起こっていた。
水流の勢いに思わず、生唾を飲んだ。激流の中で向こう岸まで羅列した石が水に打たれながらも、微動せず定位置で佇んでいる。
あの石を上手く渡っていけば、向こう岸にたどり着ける。
狐にも荒れ狂う川の様子が目に映ったのか、前回の狐と瓜二つの狡猾な笑みを浮かべて、忍び足で迫ってくる。
このまま怖気付いていれば、間違いなく狐の餌になってしまう。
気が狂いそうなほど、逡巡を繰り返した結果、意を決して川に並んだ石に飛び移った。
横から無数の矢のように飛んできた水飛沫を浴びながらも、辛うじて着地する事が出来た。
川の真ん中にいると水の勢いの強さに驚かされる。狐の方に目を向けると苦虫を噛み潰したように口元を歪めながら、彼女を睨んでいた。
臆病者に哀れむような一瞥をくれてやると、狡猾な捕食者はするかのような動作をとったが水流の音に怖気付いて、そのまま石像のように固まってしまったのだ。
彼女の心には僅かながら自負心のようなものが生まれた。
すぐさま石を一つ、二つと乗り越えて、残り一つになった時、自身の石と眼前の石との間に流木が引っかかっていた。
しかし、水の勢いが強いせいか、今にも押し流されそうになっていた。もはや躊躇している暇などなかった。
すかさず流木の上を走る。流木はかなり水を吸っていて脆くなっていて、追い打ちをかけるように強烈な水流が何度も流木を揺らした。
次の石に乗り移る事が出来れば、岸にすぐたどり着ける。
水流で激しく揺れる木を警戒しつつ、着実な足踏みで石に向かって行く。
「よしっ! いけるぞ! このまま逃げ切れーー」
一瞬の出来事だった。流木が二つに割れて、彼女は押し寄せる濁流に身を掻っ攫われてしまった。
岸に向かうため、川の流れに逆らおうと試みるがそんな彼女を嘲笑うかの様に濁水が勢いを緩める間も無く、押し流していく。
狐の方に目を向けると冷酷な捕食者は未だに眼前の激流に怖気付いた。
「まずい。意識がっ」
心身共に飲み込まれて、五感が途絶えた。
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