第2話 Ex=ReD 帰宅シングルス、タイムアタック編 1
まだ誰も登校していない早朝。
野球部やラグビー部、手裏剣部などの運動系の朝練もまだ始まっていないような時間。
根亀は気配を殺して昇降口に立つ。
丸メガネをくいと押し上げ、1年生のシューズボックスの中から目当ての名を探す。
「九条端、九条端……と。お、ここでござるな」
目を閉じて数秒、辺りの気配を探った後、誰もいないことを確信してから白地の封筒をそっと忍ばせた。もちろんそれはラブレターなどではなく、放課後の呼び出しおよび競技帰宅部への勧誘を目的とした書面で、色気の欠片もないものだった。
「ふむん。お嬢様は本気で効果があると思っておいでなのか、いやさ、思っているのでしょうなあ」
阿呆だからなあ、あの人は、と大きく溜息をついて首を横に振る。それに合わせて柔らかそうなほっぺたが揺れる。
男子高校生がラブレターに釣られない訳がない。したがって、呼び出しは必ず成功し、偽ラブレターに釣られたことを隠すため、競技帰宅部への勧誘を受け入れざるを得ない。これが、万里の考えた合理的、かつ確実性の高いプランだった。
成功可能性はいかほどかと根亀は考えを巡らせようとしたが、数秒でその思考を捨て去った。
「九条端殿は何もなかったことにして帰宅する、にナッツバー100本」
根亀は誰にともなくそう言い放って、くあ、と伸びと共にあくびをしてメガネのズレを直した後、自らの教室へと向かった。
○ ○ ○
放課後、茜射す教室。
誰も来ない、と万里が頬を膨らませている。
「どうしてですの!! 美少女からのラブレターですのよ! 九条端くんは何故来ないのです!」
「帰宅したからでは? 終礼のチャイムと共に下校する様を見ましたゆえ」
「んもう! 飽くなき帰宅魂!」
そもそも、彼がどうしてそこまで急いで帰るのか、万里には分かっていなかった。
だが、あの帰宅力を野放しにする手はない。是が非でも、自らの競技帰宅部に引き入れたいとの思いが強まる。
「仕方ありませんわね。こちらから自宅へ出向きますわ」
「えっ」
「なんですの?」
それならば、ラブレターもどきなど使わずに最初からそうしていれば良かったのではないか。早起きしてシューズボックスに手紙を投げ入れた苦労は無いも同然ではないのかと問おうとしたが、しっかりと報酬にナッツバーを受け取ったので声には出さなかった。報酬を受けた以上、蒸し返すのは信義に反する。
「なんでもござらん」
「参考までに、わたくしの記録を取っておきましょう」
そう言って万里が取り出したのは、競技帰宅用のウェアラブルデバイスだった。
競技帰宅、EX=ReDにおいて、その記録は様々な情報を基に点数化される。帰宅者の体重、心拍数、速度変化などなど様々な要素があり、公式大会においてはドローン監視の元、帰宅芸術点なども評価の基準になる。
スポーツの中では、その方向性は新体操やフィギアスケートに近いものがある。
「拙者は帰ってもよいので?」
「何を馬鹿なことを言っているの。あなたがいないと誰が彼の家まで案内するのです」
「……分かっており申した」
「ちゃんと報酬は出しますのでご安心なさい」
「行きと帰りで2本でござるからな」
万里は方向音痴なのだから、一人で鉄雄の家までたどりつけるはずがない。それは根亀にもよく分かっていたが、形だけでも自らの意思は主張しておきたかったのである。
校舎から出た所で、運動部の練習と鉢合わせる。
数人でランニングをしていたうちの一人の男が万里に気づき、「ストーップ!」と野太い声を上げれば統制の取れた一群はぴたりとその動きを止めた。
男は筋肉質な体をのしりと揺らして万里に一歩近づき、にやけ面を隠す気もなく挨拶をした。
「おうおう、足屋のお嬢様じゃねえか」
「……ごきげんよう、手塚くん」
「もう少し愛想よくしてくれてもいいんだぜ、許嫁なんだからよ」
「分かりやすく下卑た声を出すのをやめていただける? わたくしは認めておりません」
「いやあ、分かってる、分かってる。残念でしょうがねえな」
男――手塚は喉の奥を鳴らし、堪えるように笑う。
手塚家と足屋家は共に相当な資産家であり、両家の繋がりを強める意味合いで万里と彼は結婚を予定されていた。
「今の競技帰宅の在り方は間違っておりますの。それを正すのが、わたくしの役目ですわ」
「そうかい、そうかい。理想が高いってぇのは結構。それじゃあうちの帰宅部に入るんだな」
「いいえ」
この高校には、既に帰宅部が存在する。全国でも指折りの帰宅強豪校として名を馳せているのだ。
手塚は、主将として帰宅部を率いている。
「わたくしは、わたくしの理想とする真の帰宅部をつくりますの。いずれ、勝負いたしましょう」
「へえ。今んとこ部員は?」
「わたくしと根亀の二人ですわ」
「え、拙者いつのまに引き込まれたでござる?」
豪快に手塚は笑う。
「はーはっはっはぁ!! 方向音痴とデブの二人で何ができる! 楽しみにしてるぜお嬢様よぉ!」
相手にするまでもないと判断した手塚は再び部員たちに声を掛けてランニングを再開した。運動部の中でも帰宅部の運動量は群を抜いている。
競技帰宅において、もっとも重要視されるのはフィジカルである。記録更新のため、トレーニングを欠かすことはできない。
遠くなった背中に向けて、万里はふん、と一つ鼻を鳴らす。
「吠え面かかせて泣きっ面に千本針刺してやりますわ」
「相変わらず仲がお悪いことで。しかしデブとはお言葉が過ぎる。ぽっちゃり蠱惑わがままぼでーと言っていただきたく」
「さ、九条端くんを勧誘に行きましょう」
「せめて呆れて欲しいでござるな! スルーは最も唾棄すべき悪ですぞ!!」
賑やかに、二人は慣れぬ道を通って鉄雄の家へと向かった。
○ ○ ○
インターホンを押すが、鉄雄は出てこない。
昨日の帰宅を考えれば、もうとっくに家に帰っていておかしくない。寄り道など、考えられないだろう。
「むぅ……このわたくしが訪問しているというのに」
「手土産がないから居留守を決め込まれているのでは?」
「わたくしが来た事実だけで喜びのあまりレッドカーペットを敷いて感動と共に出迎えてもよいのですよ」
「自己過大評価がすぎるのは、お嬢様の悪癖の一つでござるなぁ」
「正当、かつ、妥当な評価ですの」
会話をしながらも、インターホンは絶え間なく連打されている。
数分ほど無駄な会話劇が繰り広げられた後、ドアが開いて鉄雄が顔を出す。
「うるさいな……って、君か」
「ごきげんよう。お話がしたいのですけれど、上げていただけますかしら」
「追い返しても窓から入ってきそうだからな。用事は済んだし、別に構わんぞ」
思っていたよりもすんなりと招き入れてもらえたことに安堵しつつ、万里と根亀は通されたリビングのテーブルにつく。
グラスに注がれた麦茶を一口飲んで、万里は礼を述べた。
「お気遣い、ありがとう」
「へえ。てっきり貧相なものを出したと怒り出すんじゃないかと思った」
「品質や値段の問題ではありませんわ。九条端くんのもてなしの心に対して――」
「鉄雄でいい。同級生だろう。それに、名字で呼ばれるのはあまり好きじゃない」
「……そうですの。では鉄雄くん。わたくしの事は万里、と」
「呼ぶ分には気恥ずかしいんだが……」
「物事は対等であるべきです」
「そ、そうか。ええと、それじゃあそっちの君は……」
「拙者のことは、根亀とお呼び下さいますれば。お嬢様にお仕えするメイドなれば、名など不要にて」
根亀が口を挟んでそう言ってのける。
「彼女なりの冗談ですの。根亀は名を呼ばれるのを嫌いますのよ」
「ま、まあ、個人の意見は大切だからな。よろしく、根亀さん」
「ブラックホールの重力よりも強く念押しいたしまする。くれぐれも、名で呼ばぬよう」
「知らないんだから呼びようがない。そして嫌がることをしようとは思わんぞ」
「お嬢様! この御方、紳士でござる! 山の1つや2つ進呈なされては?」
「考えておきましょう」
「考えるまでもなくやめてくれ。ところで、今日は何の話を?」
テーブルの対面に座り、並んで座っている女子生徒二人を見る。
いや、用件は分かっているのだ。自分を帰宅部に入れるために来たのだろう。
けれど、鉄雄は帰宅部に入るつもりはなかった。帰宅部に入ったが最後、放課後の練習で帰宅が遅くなってしまうことは目に見えているからだ。帰宅部に入ると帰宅が遅くなる。これはいけない。
「言っておくが、俺は帰宅部に入るつもりはないからな。うちの高校の帰宅部は全国でもトップクラスの強豪だって言うじゃないか。俺には合わない」
「ご心配にはおよびませんの。時に鉄雄くん。今の競技帰宅界は間違っていると思わなくて?」
「さあ。あまり……競技帰宅に興味がなくてな」
万里はふるふると首を横に振る。
「先日のあなたの帰宅。大変見事でしたの。一切止まらず、速度は一定。減点要素のまったくない美しい帰宅でした」
「ありがとう。だが本当に急いで帰りたいだけなんだ」
「いいえ、いいえ。それは鉄雄くんの本心ではありませんわ」
テーブルに両手をつき、ばん、と立ち上がって真っ直ぐに鉄雄の瞳を見る。
「あなたは競技帰宅に興味がないと言った。それは、嘘ですの」
鉄雄は、何も答えなかった。
しっかりと万里の視線を受け止め、彼女の次の台詞を待った。
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