第35話 アジュール王国王宮にて2

「『壁』――のことですね。もちろん、知っています」


 『壁』というのは、城壁のような物理的な壁ではない。ヒューゴの曽祖父にあたるケイレブが当時――魔王と呼ばれる存在の出現によって、大陸中にはびこった魔物から国を護るために作り上げた魔法の壁のことだ。その『壁』は、空中にうっすらと虹色に輝く透明なベールのようにぐるりと王国を覆っている。


 その『壁』の力で魔物の侵入を防ぎ、戦火を免れたアジュール王国は、魔王が消滅し魔物の侵攻が収まると、周辺の傷ついた国々の人々を受け入れ、大きくなり大陸随一と呼ばれる程栄えた。


 そのため、王国の人々はケイレブを称え、亡くなってからも彼の誕生日には盛大な祭りを行う。


 平和になった今でも、その壁は王族の権威の象徴だった。


「それが、お姉さまと何の関係が?」


「――アネッサ、僕は、君と結婚したいと思っている」


 ヒューゴはアネッサの手を握ると微笑んだ。アネッサは身体を硬直させ、一歩後ろに下がる。両親が死んだあの時の前なら――頬を赤らめて、うっとりとするような、そんな婚約者の言葉を、素直に受け取ることはできなかった。――自分はそんな言葉を受け取る価値のあるような人間ではないと思うから。


 ヒューゴは寂し気に笑うと、言葉を続けた。


「だから――、国王の直系しか知らない真実を話すよ。『壁』を作ったのは、僕のひい祖父じい様ではない――魔術師――魔女イブリンと、その弟子に作らせたものだ」


「魔術師に、作らせた?」


 アネッサは息を呑む。


 魔術師というのは――悪魔と契約し、この世の物ならざる力を使う存在だと考えられている。昔からその存在は異端視されており――先の大陸を混沌に陥れた魔王というのも、元は人間で、魔術師だったと言われていた。


 魔術師は己のために魔術という超自然的な力を使うが、ケイレブは国王でありながら魔術を研究し、王国のためにその力を利用したとされていた。ただし、魔術はその巨大な力から、使い方を誤ると大変な事態になるため、ケイレブはそれを一代限りの秘密とし、誰にも伝えなかったとされている。


「そう――、ひい祖父じい様はイブリンという名の魔女に頼み込んで魔法の壁を作らせたんだ。でも、それを表に出さなかった――、公には全て曽お祖父さまがやったことにした」


「そのことと、お姉さまに何の関係が?」


 もう一度先ほどと同じことを問い直す。ヒューゴの話す『壁』の話と姉の話がつながらなかった。


「――『壁』の一部がここ数か月の間に崩れてきているんだ。光が消えて、靄のように散ってしまった。それは、どんどん広がっている」


 ヒューゴはじっとアネッサを見つめた。


「君の姉上の起こした出来事は普通じゃない。グリーデン家の屋敷から夜に女性が1人徒歩で逃げだして、今まで見つからないなんてことも――おかしい。何か、魔術的な何かが絡んでるのではないかと思う。記録では、魔術師というのは、幼い頃に常人には見えない何かと言葉を交わすことが多いそうだ。君の姉上もそうだったという話じゃないか――」


 彼はゆっくりとアネッサに問いかけた。


「『壁』を作ったのは魔術師だ。魔法のことは魔術師でなければわからない。君の姉上はもしかしたら、その手掛かりを知っているのでは?」


 確かに姉のまわりに起きた一連の出来事は魔術と言われればしっくりくるような気もしたが、アネッサは思わずヒューゴの手を握った。


「お姉さまを見つけて、そのことを聞きたい、とそういうことですか? 罪に問うために捜すのではなく?」


「そうだ。――――君の姉上が、本当に魔術師と関わりがあるか――、彼女自体が魔術師ならば、僕たちは安易に手出しができない」


「……」


「アネッサ――力を貸してくれ。あの『壁』は本来の役割を終えたとはいえ、王国の権威の証。ここで、失うわけにはいかないんだ」


「――わかりました」


 アネッサは頷いた。ヒューゴの言葉は心からのものだと感じられたし、自分も姉に会わななければ、グリーデン家に起こった出来事にがんじがらめになって進むことができないと思ったからだ。


 ***


「ここが――“迷いの森”ですか?」


 アネッサは鬱蒼と茂る木々を見回した。一緒にいるのは、ヒューゴだけだ。護衛の兵も誰も連れていない。忍ぶような簡素な格好でアネッサを宮殿の外へ連れ出したヒューゴは「君の姉上が逃げ込んだのは、もしかしたら」とここへ連れてきたのだ。

 

 そこは不思議な場所だった。最初に足を踏み入れたのは、王都の外れにある林だったはずだ。アネッサを連れたヒューゴは林に入ると、同じ場所を何度もぐるぐると回るように歩いた。――何をしているのかとアネッサが首を傾げていると、気がつかないうちに、周りの風景が変わっていたのだ。


 周囲に生えている青々とした常緑樹は王都で見かける木とは違って幹がずっしりと太い。


「――そう、昔、魔女が住んでいたという森だよ。王都の近くの森は昔からここと繋がっているとされているんだ。だけど――ここから先は、何かを強く望む者しか進むことはできない。そうでないと、迷って出られなくなる。例えば――、森に住む魔女に病気の親の薬を求めた農夫が不思議な森を進んで魔女の家に辿り着けたという話もあって――曽お祖父様はその話を聞いて、藁にもすがる思いで魔女を捜してこの森をさまよって、その家に辿り着いたそうだ」

 

 『迷って出られなくなる』という言葉に、アネッサは顔を青くした。


「そんな――、そんなところへ来てしまって大丈夫なのですか? ――辿り着けなかったらどうなるのですか?」


 そんなところへ、王太子であるヒューゴがひょこひょことやって来て良いとは思えない。

 ところが彼は意味ありげに首を振って、アネッサに微笑んだ。


「大丈夫だよ。君は姉上に会いたいんだろう?」


 ――ええ、私はお姉さまに会って、話がしたいわ。


 アネッサは前に向き直ると草むらを進んで行った。そちらに向かって行けば、望む場所に――姉のところへ辿りつける気がして、何かに誘われるように進んで行った。

 

 しばらく進むうち、木々の間から差し込んでいた光がなくなり、枝の間からは灰色の雲が見えた。ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。ヒューゴがフードのついた外套がいとうを差し出してくれたので、それに袖を通し、フードを被り、湿った土を踏みしめて先へ進んだ。


 やがて、雨が止んでまた光が差し込み始めたところで、視界が開けた。木々の向こうにレンガ造りの一軒の家が見えた。


 広い庭先に白い巻き毛の犬が走り回っている。その様子を薄い青いドレスの女がデッキに腰掛けて目を細めて見守っている。――彼女は、あの時、血だらけの部屋で真っ青な表情をしていた姉のメリルだった。

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