2章 そのあとの話
第34話 アジュール王国王宮にて1
アジュール王国の王宮で、与えられた王族が暮らす居住区の一室でアネッサは姉のメリルの部屋に残っていたスケッチブックに描かれた絵をぼんやりと眺めていた。両親が死に、メリルが行方を消してからもう数か月が過ぎようとしている。
一瞬色を失った実物かと思うような黒だけの細かい描き込みで、花瓶に生けられた花、そして四角い窓枠の中の同じ角度の庭の風景の絵がページをめくってもめくっても描かれている。
花瓶の花も、窓枠ごしの庭の風景もめくっていくうちに花の種類が変わっていく。庭の木は葉が茂って、落ちて、新芽が生えていく。
ぱらぱらとページをめくるうち、アネッサは手を止めた。そのページには庭の花を眺める男と女、そして少女の後ろ姿が描かれていた。後ろ姿だけでもアネッサは一目でそれが自分の父親、母親、そして自分自身だとわかった。男の着ている背広のデザインは父が好んで着ていたものだったし、女の被っている羽付きの帽子は母のものだ。そして、少女の髪を飾る滑らかなサテンの質感が伝わってくるように描かれたそのリボンは、自分が今つけているものと同じだったから。
「……メリルお姉さま」
思わず姉の名前を呟く。
――お姉さまはどういう気持ちで、これを描いていたのかしら。
物心ついたころから、姉はアネッサの近くにいなかった。すごく小さい頃には、一緒に遊んでいたような記憶があるものの、思い出せる限りでは会話を交わしたことさえほとんどなかった。
『お姉さまは病気なのよ』と母親は言っていた。『感染る病気だから近くに行ってはダメ』とも。姉の部屋は屋敷の隅にあり、彼女はそこから出ることがなかった。
使用人たちも姉の部屋に近づくことを怖がっているようで、姉の様子を聞くと、いつも『わかりません』と顔を背けてしまった。
私はお姉さまのことを何も知らない。――それは、知ろうとしなかったからだわ。
窓辺に移動すると、カーテン越しに窓枠から見える、宮殿の中庭を眺めた。
中庭では貴族の女性たちがお茶会を催しているようで、華やいだ笑い声が窓越しに聞こえた。
今は自分が部屋から出ることができずに、四角い木枠の向こうをずっと眺めている。
部屋から出るのが怖いのだ。
グリーデン侯爵夫妻が屋敷の中で奇怪な死を遂げた後――侯爵家の爵位は叔父が継いだ。アネッサは、両親の血の染みが天井に、床に残る屋敷に留まることができずに、婚約者の第一王子ヒューゴに王宮の中の一室を与えてもらい、そこで暮らしていた。
グリーデン侯爵夫妻の凄惨な死と、社交界へも一切姿を見せずに、誰の意識にも上がらなかった長女の失踪は、すぐさま王宮へ伝えられた。国王、グリーデン家は詳細を広めないよう緘口令を関係者に言い渡したが、そのセンセーショナルな事件は格好の噂話の種としてあっという間に広まってしまった。
部屋を出ればアネッサの耳には宮中の人々が奇異の目で自分を見て、指をさし、噂話をするのが耳に入って来た。
――まあ、あれが呪われたグリーデン侯爵家のお嬢様ね。可哀そうに。お姉さまがご両親を殺して逃げたんですって?――
――部屋中が天井から床まで真っ赤に染まったという話じゃないか――
――そんなことを娘ができるのだろうか? それに、逃げた姉はまだ見つかっていないとか。そんなことがあるか? 悪魔の仕業としか――
――一度も社交界に出たことがないお嬢さんよね。病気だと聞いていたけれど――
――それが、昔――教会に悪魔祓いに預けたことがあるそうよ、そして、その教会は――
――まあ、怖い。それ本当なの? ――あのアネッサという子にも何かあるんじゃないかしら――
人の目、目、目。それが自分に貼りついて一挙一動を見張っているような気がした。
お姉さまもこんな気持ちで、お部屋の窓から庭にいる私たちを見ていたの?
――これは、当然の報いね。私はお姉さまのことを見て見ぬふりをしていたのだもの。
アネッサは自嘲気味に笑った。
姉が病気などではなく、家族から異端視され、穢れたものを遠ざけるように避けられていたことは、自分は本当は気づいていた。
まるで姉なんかいないかのように、自分だけがグリーデン家の娘として周囲から大切にされ、愛情を注がれていたことも。
『――私、がやったわ』
ドレスを血だらけにして蒼白の表情で呟いた姉の姿を思い出す。
――本当にお姉さまがやったの?
――あんなことが人にできるの?
それに、両親がそろって姉のところにいたのはどうしてだろうかとアネッサは疑問だった。 父親と母親がメリルに自分から、しかも揃って会いに行くなんてことは――思い出す限りなかったはずだったのに。
――私がしたことが、原因?
婚約が決まった王太子のヒューゴに、アネッサは相談した。
――病気だからとずっと部屋から出られない姉がいる、と。
父親と母親は諦めているのか、医者を捜すようなことをしていない。だから、誰か良いお医者様にお心当たりはないですか、と。ヒューゴは快く首を縦に振った。――もちろんだ、すぐに紹介しよう、と。
王家からの紹介の医者であれば、両親は診せないわけにはいかず――姉を外に出すと思ったのだ。そして、家族でそろって話す機会ができると。婚約が成立して、そんなに遠くない先、自分は屋敷を出て行くから――、その前に家族でそろって話す機会が欲しかった。
そのとき、コンコンっとノックの音がした。アネッサはびくりっと肩を震わせた。
「――アネッサ、僕だ」
「ヒューゴ様」
婚約者の名前を呼んで、安堵の息を吐いたアネッサはドアを開けた。
家族が誰もいなくなった今、この婚約者はアネッサにとって唯一、安心感を感じられる人物だった。アネッサに配慮してか、ヒューゴはお付きもつけずに一人だった。
「部屋に閉じこもってばかりだと、気が滅入ると思って花を持って来たよ」
ヒューゴは白い花束をアネッサに渡した。アネッサはそれを受け取ってうつむいた。
グリーデン家に起きた事件で自分の周りに良くない噂が出回っているというのに、ヒューゴは婚約関係を継続している。他にも縁談の話は山ほどあるだろうにだ。
自分などがこの花束を受け取る価値があるのだろうかとアネッサは自問自答して、小さな声で呟いた。
「こんなお気遣いを頂いて――、ありがとうございます――」
「――今度の、正式な婚約発表のパーティーの衣装合わせだけど――、仕立て屋を呼びたい。無理にとは言わないが――、出てくれるかな」
「――はい――」
「――それから、君の姉上のことだけど――」
「お姉さまのことが、何かわかったのですか?」
アネッサは声を大きくした。
「――――いや、はっきりと何かがわかったわけじゃないけれど――、君が協力してくれれば、もしかしたら、姉上にたどりつけるかもしれない」
「それは、どうやって!?――――でも、お姉さまを見つけたら――、捕まえるおつもりでしょう――」
だんだんとうつむきながら、声が小さくなっていく。
状況をアネッサと共に目撃した執事は、メリルが「自分がやった」と言ったと証言した。
確認を求められたアネッサは「そう言っていたと――思います」と答えることしかできなかった。
その結果、メリルには両親を殺害した罪状がかかっている。親殺しは死罪だ。
姉にもう一度会って話をしたい、とアネッサは思っていた。
会って直接聞きたいと思った。
どうしてあんなことになったの? 本当にお姉さまがやったの? それから――私のことを憎んでる?
――それを聞いて何になるのか、自分でもわからないけれど。
けれど、姉が捕まって死罪になるのなら、ずっと逃げていて欲しいとも、思う。
「――いや」
ヒューゴは首を振った。
「――本来であれば――君の姉上を罪に問わないということは、できないけれど――今回は事情がある。アネッサ、君はこの国を護る『壁』のことは、知っているよね?」
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