第28話 君のことを常に考えていたい!
卯月上旬。
新年度の合同研修にて訪れたのは有楽町。
久しぶりのかっちりとしたスーツ、研修会場の座り心地の悪い固い椅子で疲れた身体に、軽くストレッチ。
研修が終わったことを女性上司に電話で報告する。
「お疲れ様です。研修が無事に終わりました。今から仕事場に戻ります」
「お疲れ様、あぴ子さん。今日は疲れていると思うから、帰っていいですよ」
「ありがとうございます、本当に大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。その代わりと言っては何ですが……もしあぴ子さんがお時間があれば、せっかく有楽町に来ているので、お買い物を頼んでも良いですか?」
「はい、大丈夫ですよ。何ですか?」
「銀座の『ヒーリングリラックス』というお店の、薔薇の香りのハンドクリームを3つ買って来てもらえます?来週の新規取引先への挨拶周りのために買いに行こうと思っていたのですが、今週は残業も多くて。しかも土日も仕事が入りそうなので、なかなか銀座まで買いに行けなくて……」
「『ヒーリングリラックス』ですね。以前、ポップアップストアのお店を見かけたことがあって、気になっていました。買いますね」
「あぴ子さん、本当に助かります。領収書を貰ってくるのを忘れないように。『ヒーリングリラックス』の商品は私も使っているのですが、香りの種類も多くて、しかも香りの継続する時間が長くてお勧めなんですよ。よかったらあぴ子さんも試してみてください。では、お疲れ様でした」
電話を切り、「ヒーリングリラックス」の店舗を目指して歩き出す。
銀座はセレブの街。
ショーウインドゥに展示されている洋服は、値段を確認するまでもないような高級品。
全てにおいて一流品が揃う、この街を歩いているだけで、お金持ちのお嬢様になったような気分になれるから不思議だ。
ヒーリングリラックスの店舗に入店する。
「いらっしゃいませ」
黒いスーツに、首に花柄スカーフを巻いた女性店員に、にこやかに挨拶をされる。
小さな買い物かごを手に持った後、店内を見渡し、薔薇の香りコーナーを見つけ、ハンドクリームを手に取る。
「薔薇の香り、素敵ですよね。お試ししてますか?」
「はい、お願いします」
ハンドクリームを右手の甲に乗せられ、引き伸ばすと華やかな薔薇の香りが広がる。
かごに薔薇の香りのハンドクリームを3つ入れる。
「ありがとうございます。薔薇もいいのですが、新作はフランキンセンスと柑橘のブレンドです」
「フランキン…セ…」
「フランキンセンスです。なんか、呪文みたいですよね。よろしければこちらもどうぞ。甘すぎない爽やかな香りで、男性女性両方の利用率が高いです」
今度は左手にハンドクリームを乗せられる。
香りを嗅いだ瞬間、私の脳に衝撃が走る。
爽やかだけれども、どこか物腰柔らかな香り。
上品さと、洗練さを持ち合わし、エキゾチックな大人の色気も感じる。
これは……タマキさんのイメージにぴったりの香りだ!
「この香り、すごく大好きです!」
「それは良かったです。目的に合わせて商品もお出ししますよ」
目的……。
タマキさんの香りを、至るところで感じていたい♡
かなり抑えめに要望を伝える。
「……いろんなところで、使えるのがいいですね。気軽に香りを感じられるような」
「それなら、ボディミストなんかはいかがでしょう?全身振りかけられるので軽めの香水代わりになります。職場での気分転換にいいですね。身体用ですけど、ベッドシーツや衣類に香り付けも出来ますし、空間に何吹きかすれば、お部屋が香りでいっぱいになりますよ」
店員は私のニーズを的確に把握し、購買意欲を加速させた。
「ボディミストも一本ください。薔薇のハンドクリームはラッピング希望です。別会計でお願いします」
「ありがとうございます!」
レジで会計をすると、店員は野球ボールくらいの、ころんと丸い水色のものを紙袋に入れる。
「フランキンセンスの商品ご購入の方に、今だけ固形タイプの入浴剤をプレゼントキャンペーンです。今日のお風呂で楽しんでくださいね」
予想外の良いショッピングができ、上機嫌で家に帰る。
帰宅し、さっそくボディミストを使用する。リビングからベッドから明日着る洋服にまで至る所に吹きかける。
部屋中に爽やかな香りが漂う。
タマキさんの抱き枕にも、もちろん吹きかける。
視覚(映像)や聴覚(声優様)だけではなく、嗅覚でもタマキさんの存在を感じられるなんて……!
本当に、タマキさんが現実にいるみたい♡
入浴剤も使ってみようとバスタブに湯を入れる準備をする。
え、待って、これって、バスタイムもタマキさんと一緒♡
煩悩に塗れて救いようのない妄想が、一瞬にして脳内を駆け巡る。
「やだっ、タマキさん……」
目の前にボタボタと垂れる不吉な赤い染み。
「やだっ、鼻血が……」
急いで浴槽からリビングに向かい、ティッシュを掴む。
うぱまろが袋から入浴剤を取り出し、じっと見つめていると思ったら、口を大きく開けた。
「きょだい・ラムネぇ☆」
「ラムネじゃない!食べちゃだめ!」
うぱまろは入浴剤を飲み込むと、口から泡を吹きだした。
「らぼぼぼ……ぶくぼこっ」
「うぱまろー!」
どうしていいのか分からない私は上着も着ずに、通勤経路で見かける動物病院にうぱまろを抱えて走る。
時刻は午後10時。
当然のごとく、動物病院は閉まっていた。
「そ、そんな……」
うぱまろは泡をどんどん吹いており、泡はうぱまろを包んでいく。
2階の窓から明かりが灯されていることから、この動物病院は、1階が診療所、2階には人が住んでいる様子だった。
一か八か……。
私はインターホンを鳴らす。
「……はい」
「こんな時間にすみません。大変なんです、無理は承知でのお願いです。助けてください」
「今、行きます」
ドアが開く。
現れたのは、水色ストライプのパジャマ姿で、開封済みのホールコーン缶とスプーンを持った、毎度おなじみの獣医だった。
「本当にすみません、大変なんです」
獣医は私とほぼ泡に塗れたうぱまろを見比べる。
「……患者、どっちですか?」
あ、鼻血を垂らしたまま来ていたから顔も服も血だらけになってる。
「こっちです」
「入って」
扉の中に入ると、彼は白衣を羽織り、うぱまろが入浴剤を状況を確認しながら手早く診察のできる体制に入る。
「普通のウーパールーパーと違うけど……最善を尽くします。飼い主さんは待合室のソファで待っていてください」
うぱまろのことが心配だが、ここはベテランの獣医に任せよう。
獣医を信じて、私はうぱまろの回復を祈りながら、待つことにした。
一通りの治療が終わると、獣医はうぱまろの近くの椅子に腰かける。
獣医は、すやすやと気持ちよさそうに眠るうぱまろの、ぴろぴろをちょこんと人差し指でつつく。
「うぱあ、久しぶり」
獣医はしばらくうぱまろを見つめた後、うぱまろの頭をぽん、と触る。
「もう、入っていいですよ」
獣医の声がするので、診察室に入る。
「うぱまろは、大丈夫ですか……」
「はい、一般的な動物の誤飲対応をした後、いろいろと検査をしましたが、異常はありませんでした。泡を吹いていたのも一時的で、今は寝ているだけです。目を覚ました後に異常があれば、また教えてください」
いつものように「おにくぅ、ぱらだいすぅ、さいこうぅ」と寝言を言ううぱまろの姿。
「よ、よかった!本当に、ありがとうございます!いつも、助けられてばかりです」
「獣医が動物のために治療しただけです」
「本当に、ありがとうございます。あ……財布……」
うぱまろだけ抱えて来たので、鞄も財布も持っていない。
「この子、ちょっと不思議な子。恐らく自分の力だけで回復したので、僕は何もしていない同様です。お代は結構です。……診療時間外ですし」
「でも、そういう訳には……」
「僕、食事の途中でしたので。では」
獣医は、ホールコーン缶にスプーンを突っ込み、もりもり食べ始めた。
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