第6話 オン、オフ、大事♪
7時50分、満員電車。
今は真夏だと忘れてしまうほど肌寒く、冷房が効いている。
電車内に乗ってくる人間の熱気を感じる。
一駅、一駅と電車が都心へと進むのに比例し、圧迫感が強くなる。
香水、体臭、制汗剤の混じる嫌な臭い。
軽く眩暈がする。
「新宿、新宿」
アナウンスがなると、一斉にドアから人々が流れ出し、我先にと改札へ向かっていく。
やっと駅から脱出すると、今度は外と電車内の温度差で、汗腺がおかしくなりそうだ。
通勤するだけでストレスフルな身体を労りながら、私はオフィスへと向かう。
聳え立つ摩天楼、悪の巣窟。
エレベーターで38階へ。
永遠の不夜城。
チャイムの音は、死刑執行。
同時に、目の前にある電話が鳴り響く。
対応が終わり、受話器を置くと、次の電話音。
対応の合間を見て、終わらせるべきは山積みになった書類作業。
大量の領収書の計算のため、電卓をたたく。
「ちっっ!失敗したー!」
右隣から、独り言の少しだけ多い若い男性社員の声。
私まで計算を失敗してしまった。
気を取り直して、再計算。
後一つ足せば、確認が終わる。
「よぉーし、終わったから次の仕事、やるぞー!」
ガッツポーズを1人でとるのは、もちろん右隣の男性社員。
「次は、外回りしようかなー?」
「あれ?書類作業が進んでいないっぽい人はっけーん!」
「手伝った方がいいのかなぁー?」
男性社員に対して私は無視を続けるが、うっかりしたことか、視線を合わせてしまった。
「あぴ子さん、僕は外回りとあぴ子さんのヘルプ、どっちがいいと思う?」
満面の笑みで聞かれる。
「……私は大丈夫ですので、気にせず外回りに行かれてくださいね」
引きつった笑顔で答える。
「あぴ子さんなら出来るって信じてるよ!では、僕は新規顧客ゲットだぜ!」
大げさに手を振りながら扉の向こうに消えていく。
彼が去ると、私は手帳の左ポケットをこっそり開く。
スーツ姿の、穏やかな笑みを浮かべるタマキさんの書き下ろしブロマイド。
仕事終わり、タマキさんとデートしたい……!
「あぴ子、仕事が終わったら、駅で待ち合わせしよう。夜景の綺麗なレストランを予約したから、きちんと仕事終わらせて来るんだよ?」
脳内でタマキさんの美声が再生される。
「うんっ!楽しみ♡早く会いたーい♡」
癒やしのタマキさん効果で、ダメージは全回復された!
よし、頑張ろう、私。
タマキさんのためなら、茨の道すら進んで歩こう。
勿論、心のなかで呟く。
「あぴ子さんっ!」
金切り声に背筋が凍る。
左隣の、ベテラン上司の女性。
「今日私は忙しいんだから、私の仕事もよろしく!」
ファイルに大量に入った書類をパソコンの上に放り投げられる。
「今日までに終わらせて!このパソコンの電源も早く落としておいて!そのまま消していいから!」
「分かりました、電源落としますね」
シャットダウンボタンを押す。
「あー!データ保存するの、忘れてた!あぴ子さん、何消しちゃってるのよ!本当にあなたって人は仕事ばかり増やさせて!」
金切り声をさらに高くさせて、怒りに任せて感情をぶつけられる。
「も、申し訳ありません……」
そのまま消していいって言いましたよね、なんて言えない。
「私は外回り終わったら直帰するから、後はよろしく!あなたのミスは後日私が責任とって片付けるから!」
女性上司も、扉の外へ飛び出していく。
誰もいないオフィスのフロアで、手帳の左ポケットを堂々と開く。
教会を背に、白いタキシードを着たタマキさんが手を差し伸べる、書き下ろしブロマイド。
タマキさんとの結婚式を妄想する。
美しい教会で、鐘が鳴る。
「あぴ子、君は隣で笑っていてくれさえいれば、それで良いんだよ。俺が君を、幸せにする」
シンプルな結婚指輪を薬指にはめてくれ、胸に抱き寄せられる。
「タマキさん……私も、タマキさんと幸せな家庭を築いていきたい」
フラワーシャワーのなか、見つめ合う2人。
ああああああっ、幸せすぎる♡
タマキさんと結婚したら、寿退社しよう!
大好きなタマキさんに、毎朝最高に愛を込めてお味噌汁を作ってあげたいっ♡
鰹節から削って出汁をとって……いや、生の鰹を鰹節にするところから……だめだめっ、鰹漁に出て自ら鰹を選別するところからじゃないとね☆
残された仕事を終わらせ、時計を見ると時間は23時を過ぎていた。
フロアを後に、光の無い通路をエレベーターに向かって歩く。
ガラス張りの窓の外は、煌めく夜景。
この不夜城が、リア充がディナーデートをしながら楽しむ夜景を構成する瞬きの一つだと思うと、この窓に体当たりして飛び降りたい。
月明かりすらない夜道を、重い足取りで歩く。
「うぱまろぉぉぉ!」
家のドアを開けると、うぱまろは天井の照明から災害用ロープで吊されていた。
「だめ!どんなに嫌なことがあっても、首なんて吊っちゃだめ!」
うぱまろの丸い体の、どの部分が首なのかは私には分からないが、テーブルの上に急いでよじ登り、うぱまろからロープを外す。
「あぴ子ちゃん、遅いよぉ」
うぱまろは何事も無かったように頬を膨らまして話す。
「何でこんなことしてたの?」
「こりぇだよ」
うぱまろの目線の先には、広告のチラシ。
「理想的なボディへ!ぶら下がり健康器!」と書かれている。
「うぱも、かっこよくなりゅんだ!」
ぴょんぴょんと嬉しそうに飛ぶうぱまろ。
「驚かせないでよ」
笑いながら、私は冷蔵庫から冷やしておいた缶チューハイと、作り置きしておいた野菜のトマト煮込みやチーズ、生ハムを取り出す。
缶チューハイを少しずつ飲みながら、おつまみを食べる。
チューハイを飲み終えたら、梅酒ソーダの缶を開ける。
「はむぅ!」
うぱまろは生ハムを気に入ったようだ。
酔いが回り、気分が明るくなった私はうぱまろに言う。
「うぱまろはいいよねぇ、悩みとかなさそう」
「え!うぱだってぇ、悩み、ありゅよ」
「あぴ子に話してみなさい!どーんと大船に乗ったつもりで!」
「じゃ、言うねぇ!うぱぁ、借金、さんおく、ありゅんだぁ」
「めっちゃワロタ。ウーパールーパーが借金できる訳ないじゃん!」
うぱまろのふにふにとした体を指でつつき、本気になど、しなかった。
そのまま、私はテーブルにうつ伏せになって寝落ちしてしまったのであった。
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