第17話 不調

 店の営業が終わって皆が解散した後、安藤だけが店舗に残っていた。ちょっとレシピを整理したいので、という理由だったが、実際には開店前に話していた一品料理のレパートリーを考えている。

「あんまり無理せんといてくださいよ」

 念のために声をかけたが、記録等一日の片付けが終わってもまだ残っている。このところ、そういう日が増えていた。

「すみません、遅くまでぐずぐずしていて。もう、帰りますんで。いえ、決して無理してるわけやないんですよ。なんせ、20年ぶりの仕事なもんで、嬉しくて。つい力も入ってしまうんですけど、この通り、元気ですから」

 そう言って確かに元気そうに笑った。その様子を見て、

「安藤さんってこんなに元気な感じの人やったんか」

 とそれまでに見ていた姿と比べての違和感があるような気もしたが、まあ、元気そうなのだから、大丈夫だろう、と仁志は思った。


「このにんじん事件を反省して、俺禁煙しようと思うんです」

 その日の帰り際に、篤は大真面目にそう言った。にんじんを「かつらむき」にしてしまった篤を叱るのではなく、安藤は別のにんじんを取り出して1本きれいに皮をむいて見せ、

「こんな感じでええんやで。ちゃんとそこまで見せてから渡したらよかったな。悪かった」

 と言ってもう一度ピーラーと新しいにんじんを手渡した。その親切さが、余計にこたえたらしい。喫煙していることとにんじんの皮むきをどこまでするのかを知らなかったということとは何の関係もない。しかし禁煙そのものも悪いことではないし、止める理由もないので誰もそれには触れず、

「頑張ってな」

 とだけ返していた。しかし翌朝、

「禁煙、止めました。やっぱ、無理ですわ」

 とあっけらかんと言ってのけた篤を見て、二上明美が紀子と顔を見合わせて苦笑し た。

「ダメだ、こりゃ」

「でもまあ、その立ち直りの早さが山鹿さんのいいところですよね」

「意志薄弱っていうことでもあるけど」

「ものは言いようってことですよね」

「どない言うても、中身は一緒やけどな」

 さんざんである。

「二上さん、厳しいなあ。でも二上さんかて、たばこ吸うてるやないですか」

 頭をかきながら篤が返すと、

「ウチは、禁煙しようとは思てへんからな。そやけど、パチンコの方はここへ来てから止めてんで。それまでは毎日のように行ってたけどな」

「ええっ、パチンコ、止めてはるんですか」

 紀子が今度は二上明美の方に向き直った。開始前に集まった時から、パチンコが大好きでほとんど毎日欠かさずに行くと言っていたはずだ。止めるというのも聞いたことがない。

「ウチ、パチンコ行ったらお金なくなるまで、止められへんからな。お金の無駄やねん」

 なぜか威張っている。

「相当つぎ込んでそうですね。そろそろ預けた分、引き出さんとあかんのちゃいますん」

 篤が、頑張って言い返した。

「ウチ、給料貯めて、やりたいことあるねん。言われへんけどな。そやから、パチンコはもう卒業やねん。お金なくならへんから、こないだ、お前まさかなんか悪いことしとるんちゃうやろうなってお父さんに言われたわ。どんだけ信用ないねん、てな」

 篤に言われても、びくともしないという感じで、答える。歯が立たないと思ったからか、篤はそれで切り上げて、厨房の方に向かって行った。


「彼女はいつもパチンコで、あるだけ遣い込んでしまうから、お父さんが障害年金を管理しているのよね」

 その日の記録を書きながら、二上明美の禁パチンコが話題になったので、みどりがつけ加えた。週に1万円ずつ、昼食代も込みでお小遣いという形で渡してもらっている。それも週の初めには大抵遣い果たしてしまっていて、どうしても必要なことがある時以外には、ほとんどお小遣いなしの状態で過ごすことになる。

「ここが始まってからかれこれ2ヶ月でしょ。本当にパチンコを止めてるんだとしたら、すごいことだよね。お父さんも心配して疑うくらいやもんね」

「山鹿くんもちょっとは見習わんとあかんな。にんじんとたばことどう関係があるんかしらんけど、禁煙の宣言が1日ももたへんちゅうのもな。競馬が趣味や言うてたから、たばこがあかんかったら競馬止めるか」

 仁志自身も禁煙を試みて挫折したという経験は幾度となくあるが、さすがに翌日に降参、というのはなかった。ただ、だからといって競馬を止めるというのも全くもって見当外れのことを言っているという自覚はある。

「山鹿さんの競馬は浪費じゃなくて、立派な趣味ですよ。お金も100円ずつしかかけてないって」

 紀子がかばうと、それを聞いていた拓也が、思い出したように言った。

「そういえば、山鹿さんは母の日に買ってあげた馬券が当たったって言ってたな。お母さんに予想してもらって、それを山鹿さんが買ってくるんやって。山鹿家ではそれが毎年恒例の母の日のプレゼントやって」

「馬券かあ。山鹿さん、確かに競馬とかめっちゃ詳しいもんね。あの人、いつ、どのレースでどの馬が勝ったか、とか全部覚えてるみたいよ」

 そうなのか。そこまで把握していなかった仁志はまた、驚かされた。確かに、競馬の話になると急にはきはきと話し出したのを見たことがあり、それだけが印象に残っていたのだ。仁志も嫌いな方ではなかったので、その時もそれなりに会話が続いた。店長をしていた時にもアルバイト含めて若い従業員がたくさんいたが、音楽の話やテレビ番組の話など、基本的にほとんど知らない話題がほとんどだったので、話すことがあまりなかった。自分が関心を持っている分野の話題だと、もう少し会話もできるのだが、とよく思ったものだ。

「馬券が当たって、どれくらいなのかしら」

 みどりは、全くそういう世界のことを知らない。

「よう分からんけど、がちがちの大本命で、2,000円が2,100円くらいになっただけやって言うてた」

「だいほんめいってよく聞くけど、どういうことなの」

 4人の中で唯一競馬のことを知っていそうな仁志に、みどりが尋ねた。仁志は、ここは自分の出番だとばかり、できるだけやさしく説明をしてやろうとした。なにせ、妻がそんな風に自分にものを尋ねるというのはめったにあることではない。

「まあ、簡単に言うとな、まず間違いなく勝つやろうって思われてる馬に投票するっちゅうこっちゃ。それが馬券を買うっちゅうことやねんけどな。皆同じように買うから、勝っても大した配当にはならへん。反対に、これは無理やろうって思われている馬に投票するのを大穴って言うんや。あんまり買われへんから、当たったら配当がでかい」

「へえ、おおあなっていうのもよく聞くけど、そんなところから来てるのね」

 素直に関心している妻にすっかり気をよくした仁志は、

「投票には単勝とか複勝とか言うのが色々あってやな」

 と得意になって解説を続けようとしたが、みどりの方は関心がそれ以上は続かず、

「でも母の日のプレゼントとしては変わってていいわね。きっと山鹿さんのお母さんは、当たった金額以上に嬉しいんでしょうね」

「どっちが言い出したんでしょうね。息子の得意なことを活かしてもらおうとしたお母さんの配慮なのか、自分の得意なことでお母さんを喜ばせようとした息子のひらめきなのか。どっちにせよ、なんかこう、ええ感じですねえ。あったかい感じになるなあ」

 紀子がそんな感想をもらすと、拓也とみどりもうなずく。仁志も何となく共感できたが、自分の解説はあまりありがたがられず、すっかり山鹿母子の話題に持っていかれてしまったので、面白くない。あと馬単とか馬連とかやな、と頭の中に馬券の買い方を空しく呼び出して、持て余してしまった。


 5月末になって、安藤は仕事を休んだ。

「ちょっと眠れなかったもので。申し訳ないです」

 電話の向こうで恐縮している声は、かすれて弱々しい。やはり疲れがたまってしまったのだろうか。安藤の能力の高さや落ち着いた様子などから、つい頼り過ぎてしまった。一応は無理をしないで、と声かけくらいはしたが、もう少しペース配分に気を付けるべきだ、と仁志は反省した。

 ところが、その反省を実際に生かす機会はなかなか訪れなかった。1日か2日、ゆっくり休んでもらったら疲れもとれるだろうと思っていたのだが、なかなか調子を取り戻せないまま1週間が過ぎ、しばらく入院することになった、という連絡が入ったのだった。それも安藤本人からではなく、電話をすることもできないほどに弱ってしまっているのでと、本人の依頼を受けた病院のケースワーカーからの連絡だった。

「20年くらい、入退院を繰り返してたって言ってたものね。疲れた様子も見えなかったし、眠れないとも言ってなかったから、気付かなかったわ。ちょっとペース配分に気をつけてあげるべきだったわね。手を緩めるっていうことも、なかなかできないんでしょうね」

「疲れたとか、しんどいって、顔に出したらあかんって思ってはるところもありそうですね。それに、そういうことを言葉にして言うのもへたくそなんやと思います。」

 手を緩められないし、疲れを言葉にするのもへたくそ。障害とか病気とかいうことについてはよく分からないが、少なくとも安藤のよくできる部分だけを見ていると間違えてしまうこともあるのだ。みどりと紀子のやりとりを聞いて、仁志は思った。


「ほう、こんなに入ってくるものなんか」

 6月に入り、障害福祉サービスの報酬として支払いが決定した、という通知が届いて、中身を見た仁志は喜ぶよりもむしろ驚いた。5月はじめに請求して、6月なかばの支払いというのんびりとした金の動きだったが、2ヶ月遅れとはいえ、現金である。出宮と作った予算の通りではあったが、実際に100万を超える金が入ってくると、にわかに事業を行っているという実感が出てきた。開店してからはひょうたん食堂の運営に手一杯で、そもそもの就労継続支援事業の方まで意識が行っていなかった。それでなくとも障害がどうだとか支援だどうだとかいう分野はさっぱり理解ができず、そちらの方はみどり達に任せっきりにしていた。しかし、失業保険も切れ、管財人から振り込まれた少しばかりの退職金等含めて蓄えも底をつきかけていただけに、声がうわずるのを抑えきれない。今更ながら、事業を経営しているということを実感した。

 こうなると、利用者として通ってきているメンバーを増やしたい。そうでなければ経営は成り立たない。それに、安藤も入院したまま、出てきていない。立ち上げ時に募集した人員がある程度集まり、一旦取り下げていた求人を再開することにした。

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