第16話 母の日
五月の初めのこと、ミーティングルームで、出勤してきた富田恵が困り果てたという顔で座り込んでいた。
「おはよう、どうかしたんかな、富田さん」
事務室に入る前に、その様子を見かけた仁志は、気になって話しかけた。富田だけでなく、二上明美と千代も座っている。
「これなの」
富田恵が手にしていた小さな白い筒状のものをテーブルの上に置いた。検便の容器である。食堂なので、月に一度は検便をしなければならない。ところが、テーブルに置かれた恵のそれは、明らかに未使用の、真っ白な状態だった。
「あのね、今日は頑張ったの。それで、容器を取ろうとして立ち上がったら、自動水洗なので、せっかくの便が、流されちゃったの。三日ぶりだったのに」
それはなかなか深刻だ。かわいそうだとは思うが、どうしようもない。それに、水洗で流れてしまわないように、そもそも便座の下に新聞紙を挟んでおけば、とも思うが、どちらにせよ手遅れだ。
「まあ、次に出たら、でええよ」
一応は慰めてみたが、食べ物を扱う以上、今回はいらない、とは言えない。念のために、一緒にいた二上と千代にも、
「他の皆さんは大丈夫そうかな」
と確認してみた。
「私は大丈夫。りんごを食べてるから、快便なの」
「私はりんごを食べなくても快便かな」
元気よく答える二人の様子を見て、恵はさらにしょんぼりして、
「快便って、言ってみたいな」
と続けた。その、妙につながっている様子がおかしくて、仁志はくすくすと笑いながら、そっと事務室に退散した。
「お父さん、今度の日曜は、一緒に教会に行ってみない」
五月に入り、初めての報酬請求を終えるとみどりが仁志を誘った。障害福祉サービスは、翌月の十日までに報酬を国民保険団体連合会という組織に電子請求するという仕組みになっている。そのためのシステムの導入については出宮が手伝ってくれたし、使い方に関してもある程度の講習は受けたが、さすがに慣れない作業には、疲れてしまった。なんと言っても、月一度の請求による支払いのみである。請求がうまくいかなければ、翌月まで収入は入ってこない。請求データの中身は開いてみても正しいのかどうかよく分からない。見直すこともできないまましばらく画面の前でうなった末、送信をクリックした。長々とした数字と、「送信いたしました」と書かれた通知文をプリントアウトし、二人してほっとしたところのことだった。
「教会ってお前、急に何を言い出すんや。そういうのは間に追うてるぞ」
仁志は倒産してからというものずっと日曜は家にいる。それまでは気付かなかったが、そういえばみどりは、ほとんど毎週、かかさずに出かけている。
「ここを始める前に行ったでしょ。あれから、このひょうたん食堂のために、皆さんお祈りしてくださっているのよ。はじめての請求も終わったんだから、ごあいさつに行ってもいいんじゃない。それに、今度の日曜は母の日よ」
「母の日って、それがどうしてん」
「あら、知らないの。母の日は、教会から始まったのよ」
「ふうん、そら知らんかったな。そやけど、それやったら拓也を誘ったらええんとちゃうんか」
何気なしに言っただけだが、
「何よ、私と一緒に出掛けるのがそんなに嫌なのね」
と言うみどりの声が、半音高くなったのを聞いてまたもや失策を悟らざるを得なかった。
「あ、いや、そう言うことやないねんけどな、母の日って言うからさ。まあ、無事に請求も終わったことやし、お前の言うように、あいさつに行っとくのが筋やな」
必死で言いつくろいながら、そういえば、ひょうたん食堂の理念をまとめる時にもヒントをもらいに行ったのだったということを、今更思い出した仁志であった。
「香山さん、おはようございます」
「ひょうたん食堂の方は順調なようですね」
半年前に初めて来たときには、会う他人ごとに紹介されてあいさつだけはするものの、その後の会話はほとんどがみどり一人になるために、疎外感があった。しかし、今回は仁志に話しかけてくる人が結構あり、むしろ少しめまぐるしさを覚えるほどだった。仁志の方は誰一人として覚えてはいないのに、何故ここまで覚えられているのかが、不思議だった。
「おはようございます、社長」
千代が、いつも以上に満面に笑顔を浮かべて近寄ってきた。彼女だけは、旧知の相手だし、そもそも今はひょうたん食堂のメンバーでもある。
「やあ、千代ちゃん、おはよう」
仁志としても、より親しみのある対象が増えたということもあって、前回の訪問に比べればずっと親近感を覚えた。
「アンナ・ジャービスという女性が、教会学校で熱心に子ども達を教えていた、亡き母を偲んで教会で開いた記念会の際、お母さんが大好きだったカーネーションを配ったそうです。それが全米に広がって、五月第二日曜を母の日にするということが法律にもなったのです。私達も、教会に与えられたお母さんに感謝を表しましょう」
例の田淵牧師が講壇の上でそう説明した後、母達に、その場で立ち上がるようにと勧めた。すると、みどりも迷わず立ち上がって、嬉しそうにほほ笑んでいる。牧師が、そうして立ち上がった婦人たちのために祈り、皆で拍手を贈る。イベントらしきものは、それだけだった。まあ、そんなに大層にされても、とは思うが、これだけのために自分は呼ばれてきたのかと少々拍子抜けした気もする。
礼拝が終わると、例によって、昼食をどうぞと勧められた。前回は遠慮して帰ったのだが、代わる代わるひっきりなしに声をかけられ、いちいち応答をしている間に帰りそびれてしまう。気が付くとみどりの後について食事の列に並んだ。列の先頭近くに来ると、受付らしきテーブルに若者が座っていて、小銭をやりとりしていた。食事代金をここで支払うようだ。仁志はそれを見て財布を取り出し、みどりだけに聞こえるほどの声で
「なんぼやねん」
とこっそり尋ねたが、受付の若者が先に気付き、
「ああ、香山さんは大丈夫ですよ。朝来られた時にお渡しした封筒はありますか」
と言って声をかけてきた。そう言えば何か受け取ったような、と仁志がポケットを探ると、果たして先ほどの礼拝で開いていた、週報と書かれた式次第のような紙の他に、青いネーム入りの封筒が出てきた。
「それです、それです。その中にですね、食事券が入っていますので」
そう言われて封筒の中をのぞいてみると、確かに名刺大の紙が入っていて、引っ張り出してみると「御食事券」と印刷されていた。ようこそお越しくださいました、という文も添えてある。なるほど、ただ食べて行ってくれと言われても遠慮するし、かと言って食事代を請求するのも気がひけるのだろう。パソコンで作ってプリントアウトしただけの、簡単なものだったが、それがまた変に気を遣わせない心やすさを演出してもいる。この発想は何かに使えそうだな、と思ってから、我ながら熱心なことだ、と仁志はひそかに苦笑いした。
厨房のオープンカウンターが受取口になっていて、カレーライスが並べられている。ここから一つを持って行くということらしい。のぞくと、それなりに広くて、きちんと厨房用の調理機器なども備えてある。ひょうたん食堂ほどではないにせよ、ここならカレーライスの百人分くらいは余裕で作れそうだな、と思った。
カレーライスを受け取ると、今度はホールの中ほどにやはり会議テーブルがあり、その上にスプーンやら漬物やらが置かれていた。
「社長、こっちですう」
奥のテーブルで千代が手を振っている。席を確保してくれていたようだった。みどりと二人で向かうと、茶の入った湯飲みも二つ置かれていた。先に座っていた婦人に会釈をしてから席に着くと、千代もすぐ隣に座った。
「千代ちゃん、良かったねえ、社長さんが来てくれて」
婦人が千代に声をかけている。年齢は六十を過ぎているだろうか。千代とは親子ほどに見えるその婦人は、目を細めて笑いながら千代に話しかけていて、千代もまた、嬉しそうにうなずき返している。
「瀬川さんの、親戚の方ですか」
仁志は思わず聞いていた。それほど、親しそうに見えたからである。
「いいえ、親戚というわけではないです。ただ、千代ちゃんは教会学校に来ていた小さな頃から知っていますんでね」
温和にそう答える。教会学校、か。そういえば、先ほどの説教の中でも出てきていた。どんなものかは知らないが、小さな頃から知っている関係があるというのは、今時珍しい地域だと言えるだろう。そう言えば、この教会の中のお互いに親し気な雰囲気というのは、このあたりで生まれ育った割に地域に長くいなかった仁志にとって少しだけ、うらやましいような懐かしいような感じを受けた。
昼食を帰り際に、好きなものをどうぞ、と花の苗が配られていた。それを見て、そう言えば時々、庭に一輪だけ花が植えてあったりすることがあるが、こういう風にプレゼントされた苗だったのか、割とどうでも良いことに思い当たり、妙に納得をした仁志だった。
「山鹿くん、にんじんの皮をむいたことはあるか」
安藤が言った。厨房の動きがある程度固まってきたら、調理の仕事を覚えていきたいと言った篤の希望に応えて、少しずつでもやらせてあげて欲しい、とみどりがリクエストしていたからである。
「いえ、にんじんはあんまり好きじゃないので」
「食べるんやない、皮をむくんや。これ使ったらええからな」
と安藤がピーラーを手渡しながら説明する。こうやって刃を当ててな、そんなに力入れんでええから、すっと引いてみ」
軽く手を添えながら、一列、皮をむいて見せた。どうやらピーラーを見るのは初めて、という様子の篤が、それに続いてゆっくりとピーラーをすべらせた。二枚の刃の間からきれいにむけたにんじんが一筋、出てくる。
「ああ、すごいですね。こんなん、初めて見ました。包丁とかでやると思ってました。すうっと切れて、気持ちいい感じですね」
嬉しそうに安藤の方を見てもう一筋、すべらせる。少しだけその様子を見てから、後は任せたよ、という風に背を向けて、安藤も別の作業にとりかかった。調理の腕前もさることながら、やはり教えるのがうまい。仁志は、ここまで何も経験がないという相手に教えたこともなかったのだが、きっとこんな風にはやれないだろうとも思った。そんな仁志の考えを察したかのように、隣で様子を見ていた紀子が、
「安藤さんは教えるのが本当に上手ですよね。そういえば確か、ピアサポーターもしてはったんですよね」
と言った。
「いやまあ、そっちの方はやってたと言えるほどのこともないんですけどね。病院のケースワーカーさんの紹介でちょっとだけ」
「それってごちそう会のことやろ」
向かい側でたまねぎを刻んでいた二上明美が、手を止めて言った。
「ごちそう会って言うんですね、保健センターでやってるグループワークでしょう」
「そうそう、私とか千代ちゃんも行ってたから。これも、あそこで教えてもろて上手になったもんね、私も」
手元のたまねぎを指さしている。二上明美や千代は初めから安藤と知り合いのようだったが、そんなところでつながっていたのか、と今更ながら仁志は気付いた。
「そら知らんかったな。その、ぴゅあなんとかっていうのは料理教室みたいなもんなんかいな」
「ピアサポーターですよ。ピアって言うのは対等な仲間っていう意味でね。障害のある人同士が助け合うってことなんですけど。保健センターで障害者の皆さんの集まりを定期的に持ってはるんです。そのプログラムがごちそう会っていう料理教室みたいな形で。安藤さんはそこで料理の指導をしてはったんですよね」
紀子が仁志に解説した。対等な仲間。障害者の皆さんの集まり。一緒にこうして作業をしていると仁志は忘れているが、安藤もその一人なのだ。障害者というのは何らかの世話を必要としている人という印象を持っていたが、安藤は違う。一般のレストランの店長と調理チーフが話しているような内容の会話しか、していない。それに他のメンバーにしてみたところで、ひょうたん食堂で仕事をしている分には、特別なところを今のところ意識したことはない。
「ああ、にんじんがっ」
ふいに二上明美が半オクターブほど高い声で叫んだ。皆の視線が一斉に篤の手元に集まる。仁志と安藤もあわてて近寄ったが、篤の手にあったのはピーラーと、ほとんど鉛筆くらいの太さにまで削られた、にんじんが握られていた。
「いやあ、にんじんってどこまでが皮なんか分からなくて」
言葉を失う一同の前で篤は少々照れながらもピーラーを動かし続けている。
「そ、そうか。それ説明しとかなあかんかったんやな。にんじんの皮はな、表面一周だけで、ええねんで」
安藤はそう言いながら篤の手を止め、調理台に盛り上げられた、赤い短冊上のにんじんを集めた。下の方に埋もれている、本来の皮にあたる表面の部分だけを丁寧に選り分け、
「一種のかつらむきやな。これはこれで千切りにして使おうか」
と苦笑いをした。一同は、食材が無駄になったと雷が落ちることを警戒していたが、安藤のその対応を見て安心したのか、一斉に大笑いをした。仁志も一緒に笑いながら、これまでの職場では経験したことのない、その場の空気の柔らかさに戸惑っていた。人参一本とはいえ、材料を無駄にしたのだから笑い話では済まない。二度と同様のミスが起きては困るので、厳しく叱られるのが当たり前だと思う。きっと安藤自身も、それまでの職場ではもっとピリピリしたことを経験しているだろう。就労継続支援事業という特殊な形態だからなのだろうか。しかし、篤の方は、にんじんの皮のむき方については覚えただろう。それは怒鳴りつけられたのと同じだけの効果があったと思われる。
「一体、どっちが正解なんやろう」
という問いを頭の中に巡らせることになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます