第15話 ひょうたん食堂

「山鹿君だけ、まだ来てないみたいね」

 みどりが手元に残ったエプロンを見ながら言う。そう言えば、姿が見えない。まだ時間に余裕はあるが、他の皆がすっかり出そろっているだけに気になる。

「どうしたんやろうな。こないだは張り切ってたのに」

 言いながら、アルバイトに行っては辞めるということを繰り返してきたという、彼の履歴を思い返した。まさか、初日から来られないというのはないだろうな。息子に近い年齢だけに、気になった。ほどなく、ガチャン、と自転車を止める音が勢いよく響いて、本人がのっそりと入って来た。

「おはようございます。すいません、遅くなりました。……遅刻ですか」

 すでにそろいのエプロンをつけて並んでいた富田恵や二上明美の姿を見て、慌てている。

「大丈夫よ。時間はまだあるから。これ、持って用意をしてきてね」

 そう言って彼の分のエプロンを手渡しながら、みどりが怪訝な顔をした。なんとなく、違和感がある。動きがぎこちない。どうしたのか、と思いながら、更衣室に入っていく後姿を見送る。拓也が、あっと小さく言ってから、篤を呼び止めた。

「あのお、えりのところ、さ」

 拓也の指差した先を見ると、白い麻のジャケットの首元から、ワイヤーが出ている。

「えっ、なんですか」

篤が後ろを見ようとするが、本人が振り返れば当然その首元は反対側を向くので見えない。拓也が近寄ってゆっくりそのワイヤーに触れる。

「これ、ハンガーやんか」

 言われれば確かに、ワイヤーの先がくるっと丸まっていて、よくある針金のハンガーの先だということが分かった。

「ええっ、まじっすか」

 篤が慌ててジャケットを脱ごうとするが、なかなか脱げない。拓也が手伝って脱がしてやると、確かにハンガーが出てきた。どうやら、かけてあったものをハンガーごと羽織って来たようである。

「肩が窮屈で、太ったんかと思ったけど、これのせいやったんや」

 と少し顔を赤らめている。

「よっぽど慌ててたのね。道理で動きがぎこちないなあと思ったわ」

 みどりが噴き出しながら言う。

「二度寝してしもて、やばい、と思って急いで出かけたから。ちょっと恥ずかしいっすね」

 と言いながら、更衣室に入っていった。

「なかなか大胆な」

 紀子も肩を震わせて笑っている。確かに、あまり聞いたことのない失敗である。わざとではないかと思ったが、本人の驚き具合からすると、決してわざとではなく、本当に気付いていなかったようだった。


「じゃあこれでみんな揃ったわね。おと……社長、ひとことどうぞ」

 着替えを終えた全員が集まるとみどりが言った。照れ臭さもあるのか、少しはにかむような微笑みが口元にある。仁志は久しぶりに見るみどりのそんな表情を見て、なんとなく嬉しくなった。

「ひとことって、何回も言うたし、もうええよ。まあとにかく、頑張りましょう。よろしく」

 とだけ答えた。それを合図に、それぞれが動き始める。とは言っても、厨房に入る面々は決まっており、まだ客の一人もいない店舗内では、うろうろと歩き回るばかりで、やることがない。そのはりきり様と、手持無沙汰な様子がおかしかった。


「じゃあ、手の空いている人はお掃除をする組とチラシを配りに行く組に分かれましょうか。あ、千代さんはこの近所のことに詳しいから、チラシ組ね」

 事前に用意してあったチラシを持ち出してきた紀子が、そうしてメンバー達を分け始めた。てきぱき、というより和気あいあい、という感じである。仁志が厨房からのぞいても、皆がウキウキしている様子がよく分かった。


 食堂に客が集まる前に、持ち帰り用と配達用の弁当を用意しておく必要がある。2時間ほどで、第一号の日替わり弁当が出来上がった。きんぴらごぼうと野菜の炊き合わせが入っていて、メインは照り焼きチキンと焼き魚の2種類が選べるようになっている。今のところ、安藤達と一緒に、事前に打ち合わせていた通りだ。

 チラシ配布から戻った千代達が、市役所に売りに行くことになっていた。初回はどれだけ売れるか分からなかったが、宣伝も兼ねて少し多めに作ってある。予約注文も受け付けられるように、チラシとメモ用紙もバインダーにセットしておいた。

「わあ、おいしそう。きっとすぐに売り切れちゃうわ、これだったら。その前に自分で食べちゃおうかなあ」

 千代が本当に今にも食べそうな顔をしながらのぞき込む。まあ、売る側がそれくらいに思っていないと売れないしな、と仁志もまんざらではない。ちゃんと賄いに残してあるから、安心して行っておいで、と送り出した。

 一方で、千代達が市役所に販売に出たすぐ後に、第一号の客が店を訪れた。

「ごめん下さい。ひょうたん食堂ってこちらですか」

 手にはチラシがあるので、早速効果が表れたというところか。

「いらっしゃいませ。ひょうたん食堂へようこそ」

 厨房から篤が張り切って応じる。他のメンバー達と声をそろえていらっしゃいませと続けながら、ひょうたん食堂という名前には妙なインパクトがあるな、と仁志は思った。


「お持ち帰りが30四食に出張販売が42食、店舗で食べてくれたお客さんが19人、か」

 事務所横のミーティングルームで賄いを食べながら仁志が数えた。用意した弁当をほぼさばききり、店舗に客が途切れているのを見計らって、半分が休憩に入っている。

「たくさん売れたね」

 千代がほくほくしながら照り焼きチキンを食べている。用意したものが売り切れたのだから、滑り出しは順調と言えば順調だが、当面の売り上げ目標の半分程度である。千代達の給料分だけ確保できたらいいとは言っても、この額では成り立たない。

「ここからが頑張りどころやで」

 決して暇を持て余していたわけでも遊んでいたわけでもないので、さすがにまだ半分、とは言えなかった。それでも、たくさん売れてよかった、と同意するわけにもいかない。とはいえ、久しぶりに働いたので、仁志自身もすでに足が棒のようになってしまっている。夜遅くまでレストランで働いていたのが、遠い昔のように感じられた。初日の、しかもまだ営業時間が残っている段階でこの様子では、先が思いやられる。

「千代ちゃん、いいかしら。お父さんも、ちょっといい?」

 店舗に残っていたみどりが、ミーティングルームに姿を見せた。店舗で何かあったのか、と仁志は一瞬、緊張した。いずれ色んなトラブルは避けられないとしても、こんなに早くに何か起こったのだろう。千代を呼びに来たというからには、午前中の仕事の中で何かあったのだろうか。千代の方も、呼び出されて驚いたのか、先ほどまでのほくほくした表情は引っ込んでしまっている。顔を見合わせながら、ミーティングルームを出て店舗に向かった。

「わあ、いらっしゃい。来てくれたんや」

 みどりについて一足先に店舗に出た千代が、甲高い声で言った。誰か来たのか。仁志も後ろからのぞき込むと、一番手前のテーブル席に、二人連れの婦人が座っている。一人の方は仁志にも見覚えがあった。確か……

「あ、香山さん。娘がお世話になります」

 仁志を見て立ち上がった婦人は、千代の母だった。あいさつがてら、様子を見に来てくれたらしい。

「ああ、瀬川さん、来てくれはったんですね、いらっしゃいませ」

「ええ、お昼の忙しい時間はご迷惑かと思いまして。どうですか、娘はご迷惑、おかけしてませんか」

「迷惑なんて、とんでもない。営業は今日からですが、開店準備から何かと手伝ってくれて、助かってますよ」

 決してお世辞ではなく、本当にそう思っていた。てきぱきと器用にこなすというわけではないにせよ、千代の人柄の明るさが、一同を和ませてくれているのも確かだった。

「それに、ひょうたん食堂っていうのも、千代ちゃんのアイデアなんですよ」

 みどりが横から重ねる。千代も嬉しくって仕方ない、という様子で母の顔を見ていたが、すぐに気が付いて、

「お母さん、ご飯食べに来たんでしょ。座って。おばちゃんも。いらっしゃいませ」

 と席を勧める。一緒に来たのはご近所さんというところだろうか。腰を下ろしながら、お勧めは何かしら、と千代に尋ねている。昼食時のピークは過ぎたし、用意した弁当の販売も終了したが、まだもう少し、来客は見込めるだろうか、と思いながら、厨房に戻った。


 開店の初日はそんな感じで、様子を見に来た関係者で定刻を過ぎる頃まで人が出入りし、来店客は40名程度になった。関係者だったので気を遣って持ち帰りのおかずやうどんを注文してくれた。ただ、喫茶をしているわけではないので、昼食の時間が過ぎてそんなにたくさんの来客が続くとは考えられない。いずれは朝食や夕食を狙って営業時間を延長していくことも考えなければならない。そのためにも、今は店を動かしていくために、従業員の育成が大切になる。

 当たり前のことだが、業務用の厨房と一般のキッチンでは、扱う料理のボリュームがいちいち異なる。鍋の大きさもまるで異なるので、たとえばみそ汁ひとつにしても、寸動鍋を使ってリットル単位で作ることになる。持ち運ぶのだって、結構な腕力が必要とされる。

 米にしても同様で、業務用の炊飯器で一度に4升や5升という単位の量を炊く。炊きあがったところをかき混ぜるのもひと仕事で、しかも立ち上る湯気が熱くて骨が折れる。

「山鹿くん、ご飯入れていくから、釜ごとこっちまで持ってきてくれるかな」

 調理台の上に弁当のパックを並べて、みどりが指示を出した。山鹿篤は調理経験が全くなかったが、厨房の仕事を覚えたいというので練習のために調理補助に入っている。

「はい、分かりました。これっすね」

 と元気よく5升炊きの炊飯器のところに駆け寄った。張り切って炊飯器の蓋をとり、釜を直接持ち上げようとして、

「あちっ」

 と小さく悲鳴を上げて手を引く。様子を見ていた安藤が笑いながらふきんを持って近寄った。

「そらあ、熱いわな。炊きたてやねんから。こういうのはな、ふきんとかタオルとかでこうやって持つんやで」

 と取手のところにふきんを巻いてやる。今度は篤は、恐る恐るふきん越しに取手を握って、ゆっくりと持ち上げた。

「ほんまや、こうしたら熱ないわ」

 まるで手品でも見たかのようにやや大仰に目を見開いて、感心している。もちろん、経験がない中でひとつ教わったことに本気で感心したという部分もあるだろけれど、張り切って駆け寄っておいて失敗したというバツの悪さも手伝っているのだろう。それが証拠に少し耳が赤くなっている。そうして指定された調理台の上に釜を運んだ篤のところに安藤が来て、しゃもじを手渡した。

「これでご飯をかき混ぜるんや。底の方からな、ちょっと持ち上げるような感じでまんべんなく」

 安藤からしゃもじを受け取った篤は、とりあえずその大きさを見て、またひとしきり驚いている。

「すごいっすね。こんな大きなしゃもじ、初めて見ました。卓球出来そうですね」

 確かに、卓球のラケットほどの幅があって、しかも長さはもっと長いから、これで卓球をすれば結構いい感じかもしれない。そのしゃもじを持って卓球の素振りを2、3回してから、篤は釜にそれを差し入れた。ふたを開けた時と同じくらい湯気が上がる。ふたを開ける時にはある程度の距離があったが、今回はしゃもじを差し入れているので、まともにその熱が手に伝わって、思わず引っ込めた。釜を素手で持とうとして熱かったからか、熱にやや敏感になっている様子である。少しだけその湯気を見つめた後、篤は隣に立っていたみどりにしゃもじを差し出して、

「すいません、ご飯、混ぜてください」

 と申し入れた。

「えっ、それ私に言ってるの?」

 みどりは驚いて篤の顔を覗き込んだが、篤の方は平然としている。決してさぼってやろうというような悪意のある態度ではなく、ふざけているわけでもなく、いたって真剣である。みどりは少しの間呆気にとられていたが、すぐに根負けをして吹き出してしまい、

「仕方ないわね。やり方、よく見ておくのよ」

 と言いながら、大きなしゃもじを受け取った。篤は特に悪びれる様子もなく、よく見ておくのよ、と言われた指示を素直に守って、みどりの手元をじっと見つめている。結局、かき混ぜ終わるまではそのまま動き出さなかった。

 安藤がその様子を見ていて、

「親子やないねんから」

 と苦笑いをしていたが、仁志としては内心、うまいこと甘えたものだと感心していた。もちろん、職場でそれではマズいのかもしれないが、人に動いてもらおうと思ったらそれなりに動機づけがいる。言い方を違えれば叱られそうな場面だが、実際、しょうがないなあ、と言いながら動いてしまっている時点で、みどりの負けである。なかなか、ツワモノじゃないか、と思わざるを得なかった。


 ひょうたん食堂では、厨房とフロアと外回りの3種類に仕事が分かれるが、どれかに専念するか色々兼任するかは選べることにしていた。今のところ時給に差をつけるゆとりがないという事情もあったが、誰がどこに向いているのかもよく分からないので、希望に沿って色々やってみようと考えたためである。職員にしても同じで、やはりすべての仕事をよく知っておくことが必要だということと同時に、それぞれで仕事に取り組むメンバーの様子や力などが、4人それぞれの目で見ることでより立体的に見えているのではないかという狙いもある。

 そうすることでの思わぬ副産物もあった。どの場面も知っていると、後に職員が話しているそれぞれの様子がとらえやすいのだ。特に仁志にとっては、障害者と一緒に働くということ自体が未知の領域であるだけに、専門家である紀子のとらえ方などに感心させられたり、驚かされたりする。彼らの言動について、全く違う方向から見ていると感じることが多いのである。

「恵さんとね、フロアにいたんですよ。お客さんがたまたまいなくてね。仕方ないから何となくぼうっとしちゃってたんですけど、テーブルにね、虫が来て。私がたたこうとしたら、かわいそうだから、逃がしてあげようよって言うんですよ。しかも、その後、追い払うのでもなく、虫が自然に飛び立つのをじっと待ってたんですよ。それを見て、ああ、私はせっかちで、心が狭いなあって思わされました」

 利用者が解散した後、一日の記録を書きながら紀子が言った。虫がどういう種類のものなのかが分からないが、心が狭いとか広いとかというような話ではなく、食堂なのだから衛生上のことを仁志ならまず考える。何を呑気な、と思うし、追い払うとか、駆除するとかという対応をしないで見ているだけでは、困る。それこそ、指導すべきところではないかと思うのだが、紀子の目には、心の広さとして映っているようである。さすがに感心するところが違うのではないか。どう言ったら分かるだろうと仁志が言葉を探していると、拓也の方が早くに反応した。

「恵さんって確かに、独特の感性ありますよね。こないだは、自宅の目覚まし時計が進んだり止まったりしてるのを見て、春やから時計も寝ぼけるんかなって思ったって」

「不思議の国の住民やねえ」

「普通は電池がないんかなとか、時計が壊れてるんかなって思うところですもんね。あんな話聞いたら確かに俺の方が小さくてつまらん人間やなんて思ってしまいますよね」

 指摘するどころか、共感してしまっている。仁志が割って入ろうとして二人の方に目をやったが、楽しそうに笑い合いながら話している様子を見て、何となく野暮なことである気がしてきたので、軽くため息をついて、手元の書類に目を戻した。どちらにしても、大したことではないわな、と頭の中でうそぶき、それよりも息子が楽し気な表情をしているのが心地よく感じられた。


 初日に、ハンガーにかかったままの上着をひっかけて出勤してきた山鹿篤は、大体毎日のようにばたばたと駆け込み出勤をしてくる。どうやら、朝は苦手なタイプのようだ。

「夢の中で、電話がかかってきて。あっ社長から電話や、寝過ごしたって思って、あわてて飛び起きたんですよ、今朝は。目覚まし時計の音やったんですけどね」

 厨房にいた全員をそうして笑わせている。特に遅刻しているメンバーに電話をしたこともなければ、今後もするつもりもない仁志は、

「勝手に登場させんといてほしいなあ。大体、なんでそんな夢を見たんや」

 と苦笑しながら言った。

「いや、夢の中でね、仕事してたんですよ。ところがなかなか仕事が進まなくて。おかしいなあ、手応えないなあ、と思ってたら音が聞えたんで。ああ、夢やったんかと思った次の瞬間、ということは社長からの電話やって思ったんですよ。でもあれっすね、夢の中でも仕事してるって、俺、熱心ですよね」

「自分で言うてたら世話ないな」

「夢で働いていた分も給料出ないですかね」

「アホな事を」

 と返しながら、なるほど発想は破茶滅茶だが面白い、と仁志は思った。我ながら、山鹿篤の言動にはなんとなく甘いという自覚がある。その後、

「夢の中でだけ遣えるお金やったら、いけるんとちゃうか」

 と続けた安藤の言葉に、一同大笑いをした。

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