第14話 始動

 真新しい建材の匂いがする事務室のデスクに、指定書、と書かれたA4版の紙が一枚置いてある。事業を始めてみるという決意をしてからここ数か月の、成果物だった。あれだけの書類を用意した結果、得られたものがこの一枚だけというのがなんだか馬鹿々々しい気もしたが、事業を行うために必要なものだということは、仁志にも分かっている。

 保健所の飲食店営業の許可を取ることについては、さすがに仁志自身の経験が活きた。細かなチェックはあったものの、大きく問題になることはなく、営業許可をとることができた。ただ、障害福祉サービスの方は意外と手間取ってしまった。出宮がやってくれるから大丈夫とたかをくくっていたのだが、なにせ建物が古いので、その関係の書類をそろえることに苦労した。幸い祖父が几帳面な人で、工場を建てた当時の書類などは全て保管されていたが、そうはいっても戦後間もない時期の建物で、しかも工場として建てたものだったから、建築確認や防火対象物の使用開始届など、基準そのものが大きく変化してしまっている部分もあって、消防署の立ち入り検査まで受けなければならなかった。

 事務室など不要だとは思ったのだが、指定の設備用件にそれも含まれているというので仕方がない。幸い、祖父が縫製工場の事務室として使っていた一角がほぼ手付かずのままになっていたので、壁紙を張り替える程度の改装で、形を整えた。それでも、何十年もほこりだらけの廃墟だった空間が、見違えるようになっている。父の食堂を継ぐために金沢から戻って十年あまり。形はずいぶん変わったが、いよいよここで食堂の経営をすることになった。それなりに、感傷的な気分にならないでもない。

 指定書の他に、10名分の雇用契約書と利用契約書がある。出宮が用意した書式を使って、みどりが中心になって、全員の分を整えたのだが、紀子だけでなく、拓也も一緒になって契約書を作っていたことが、仁志には少し愉快だった。それにしても、安藤達は仁志にとって、従業員でもあると同時にサービスの利用者でもあるということになる。

「雇うから従業員やけど、お客でもあるっていうことやろ。なんかだましているような気がして、落ち着かんなあ」

 仁志は感傷的な気分を吹き消そうとして、少しだけ大きな声で独り言を言ってみた。特に安藤などは、息子の拓也と並んでいる様子からは、全く立場が逆じゃあないか、と思ってしまう。独り言が、デスクくらいしか置かれていないがらんとした事務室内に、妙に響いた。


「ええっと、いよいよ明日からです。色々と抜けてるところもあるやろうけど、そこはやりながら修正していくしかないかな、と思てます。皆さんよろしくお願いします」

 みどりに促されて、集まったスタッフ一同に改めて言葉をかけた。とはいっても仁志とみどりの他、拓也と垣内紀子の4名ですべてである。みどりと拓也は家族だからいいとしても、紀子については専門学校を卒業して、これから社会人としてやっていこうという大切な第一歩でもある。その職業生活にも責任を負うのだということに、仁志は今さらながら、緊張を覚えた。店長として店舗スタッフを指揮してきたが、結局は雇われて同じように給料をもらっていただけで、給料を支払う側になったのはもちろん初めての経験である。

 ふとかつての光中社長の顔を思い出した。仁志をはじめ、合計で百名近い従業員を抱えていたのだが、深刻な顔を見せたことはなかった。当時は、雇われ店長の自分に投資の相談をされても困ると思ったくらいだったが、そうせざるを得ないほど、相当の負担を抱えていたということだったのではないだろうか。相談をされてもどうしようもなかったことは確かだし、そもそも投資のことなんて分かるはずもない。けれどももう少し親身になって聞くなり、思ったことをしっかり伝えるなり、してあげたらよかった。結果は変わらなかったとしても、気持ちの面で少しは楽にしてあげることくらいはできたのかもしれない。規模は違えども、同じ立場になってようやく少しだけ、分かったように思った。

「あのお、おとん……いや、し、社長」

 拓也がもぞもぞしながら、手を挙げた。いつもはぶっきらぼうな拓也が明らかに恥じらいながら、耳まで赤くしている。その様子もさることながら、息子から社長と言われると、仁志の方もやや気持ちが悪い。

「なんや、拓也、どうかしたんか」

「いや、あの、やっぱりこれから会社でやっていくんやから、呼び方とか、一応ちゃんとせなアカンかな、と思って。おとん、おかんはまずいやろ」

「確かにそうね。わたしもみんなの前でお父さんっていうのは止めにしないとね」

 みどりが賛成する。

「なるほど、そらそうやな。ほんだら母さんのことはなんて言うたらええんや。ええと、サービス責任者、やったっけ」

「サービス管理責任者、よ。でも、そんな長い名前でなくていいと思うわ。森村さんも役職名で呼ばれてなかったでしょ」

「私も、実習とか見学でいくつかの事業所や施設に行きましたけど、普通に名前で呼んでるところがほとんどでしたね」

 実務経験こそないものの、やはり紀子の見聞は、大きい。こんな些細な事も、いや、些細なことだからこそ、法律にも教科書にも載っていない。

「ただ、垣内さんはいいとしても、我々は三人とも香山さんになるんやけど」

「社長以外はみどりさん、拓也さんでいいんじゃないですか。ついでに私も垣内じゃなくて紀子でいいですけど」

「じゃあ、の、紀子……さんはいいとして、そしたら利用者の皆のことはどうするんですか。特に俺なんか、小さい頃から近所やったんで、千代ちゃんなんて呼んでたけど」

「利用者さんとなると、事業所によってずいぶん雰囲気は違ってましたね。ちゃん付けのところもあったし、苗字にさん付けにしているところもありました」

「違いはあるんか。そんなんどっちでもええように思うけど」

 仁志には分からなかったので素直にそう言ったが、みどりは

「利用者さんとの関係をどんなものにしていくのかっていう方針がそのまま出るんじゃないかしら。だったらここは職員間の呼び方以上に考えないといけないところかもね」

 と言った。理念の時もそうだったが、色々大層で面倒くさいものだ、と仁志は内心で思った。ただ、事業が始まるにあたって感じた責任の重さがあったので、もしかすれば、自分がいい加減にしてきたそういうことが、本当は結構大事なことなのかもしれない、という考えも、ふとよぎった。

「垣内さん、じゃなかった、紀子さんって呼ぶのよね。あなたはどう思うの」

 みどりが紀子に戻した。ここは専門家の意見を聞こうというところか。

「あまり難しいところは私にも分からないんですけど、普通でいいのかなって。苗字だけっていうのもなんとなく余所余所しい気もするし、もちろん、だからといって職場で友達のような扱いも違うとは思います。それに社長や奥さんと私達では、すみません、年齢も違うから、同じ言葉遣いても伝わり方は違ってくると思いますし」

「年齢相応、てことね。だったら私は引き続き千代ちゃんでいいのかしら。ええと安藤さんは年上だから安藤さんよね。まあ、もとからそんな感じだけど。富田恵さんと二上明美さんが微妙なところかな。年齢は私の方が少し上だけど、恵ちゃん、明美ちゃんって感じでもないわね」

「普通に行くんやったら、初対面からちゃんづけはないな、確かに」

 仁志も想像したまま口にしてみた。自分だったら、あの年頃の女性だったらまず苗字で呼ぶだろう。

「そしたら俺は年下やから、千代ちゃんやなくて千代さん、ていう感じかな。ちょっと今更、瀬川さんとも言いにくいしな。そういう意味では富田さんも二上さんも、恵さん、明美さんでいけるかな」

 なるほど、考えようだ。紀子の言う通り、確かに年が若い拓也なら、そんな風に呼んでも変な感じはしないだろう。そうすると、自分やみどりがどう呼ぶのかが難しいところか。そう言えば、店長をしていた頃、店員達の名前を呼ぶことはあまりなかったかもしれないな、と仁志は思った。


 香川家の庭は、工場跡地なので大して整備されていないが、一本だけ、ソメイヨシノが植わっていた。特に剪定をしたり世話をしたりということはなく、毛虫が発生した時に殺虫剤を散布するくらいだったが、やはり祖父がここで工場を営んでいた頃に植樹したものだから、それなりに年数が経っている。新聞を取ろうと玄関を出て、その木に桜の花がちらほらと芽吹き始めているのを発見した。それまでは枯れ木のようになっていた枝に、淡いながら確かな色彩が現れる様子は、何度見ても不思議だと思う。そう言えば、春である。秋に失業し、障害福祉サービスなどという考えたこともなかった事業を始めることになった。準備で忙しくしていたために、気付かなかった。まさかこんな展開になるとは、昨年の今頃には夢想もしていなかった、と考えてから仁志は、昨年の今頃に咲いていたはずの桜花の記憶がないということに気付いた。それは失業のためでもなく、新事業のためでもない。少しだけ、勿体ないことをしていたのかもしれないな、と思った。

「香山のおじちゃん、じゃなくて社長、おはようごさいます」

 ひょうたん食堂、と書き直した看板の横に、千代が立っている。

「おはよう、あれ、えらい早いねえ」

 集合時間の9時まで、まだ2時間はある。千代はにこにこしながら、

「いよいよ今日からやと思ったら、じっとしてられなくて」

 と言いながら、駆け足の真似をした。

「張り切ってるんやねえ。いつからここで待ってたの」

 何気なく尋ねただけだが、

「まだそんなには。30分くらいかな」

 と屈託のない笑顔で答えられたのには驚いた。6時半じゃないか。仁志も、勤めていた時にはそれくらいに家を出ていたが、千代の場合はすでに出勤してきてしまっている。春とはいえ、朝早い時間はまだまだ寒い。

「風邪を引いたらどうするんや。まあ、入って待っとき」

 と店の鍵を開けて、中に入れた。

「ごめんなさい。でも私、病院行く時も同じなの。私でも、遅いくらいなんよ。早い人は4時とか5時とかに来て並んでるから。私はそこまでじゃないけど」

「へえ、そんなに早く行って、どうするの」

「診察の順番とるの。でもそれだけやなくて、本当は寝られへんから。一人で家におったら不安やし、病院に来たら皆おるし。ていうか、病院以外、行くとこないし」

 病院以外、行くとこない、か。そこだけ見せた、千代の少し寂しそうな表情を見て、仁志は何故か、倒産したての頃のことを思い出した。職場には行けず、それこそ他にどうしようもなくてハローワークに通っていた。でも、どちらかというと、仕事を探しに行っていたというよりは、逃げ場所を求めていたようなところが大きかったのではないか、と今では思っている。もしかして、これから始めるひょうたん食堂は、千代にとってそういう行き場になれるのだろうか。自分がこれから始めようとしている事業の意義について、改めて考えさせられた。

 朝食をとり、コーヒーを飲みながらゆっくりと新聞を読んでもまだ一時間も経っていない。今更だが、通勤時間がゼロというのはずいぶんゆっくりできるのだなということを実感した。妻に失業したことを伝えて、出勤するふりをしなくてもよくなってからは、そんなに早朝に出かけたりしていたわけではないが、やっぱり気持ちはなんとなく落ち着かなかった。それに比べて、今朝は久し振りにゆったりした気分でコーヒーの香りを楽しめている。文字通りこれからが本番ではあるのだが、ここまで来てしまえば、焦っても仕方がないと思うからだろうか。

 みどりの方は反対に、掃除をしたり洗濯物を干したりとバタバタしているように見えた。いつも朝はこんな感じではなかったような気がする。昼食の準備をしていたと思うが、今日からは食堂の賄いが出る。利用者に食事を提供すれば、障害福祉サービスの報酬に加算がつく。食堂を経営するのだから、賄いを用意することは普通である。だったら、提供しないという選択肢はない。当然、職員についても同様に賄いを用意するつもりにしている。拓也も一緒だから、わざわざ昼食の用意をする必要もない。

「えらい、忙しそうやな。昼飯の用意はいらんようになったやろうに」

 と呑気な声で言って、みどりに睨みつけられる羽目になった。

「お父さんは、結構な身分よねえ。私が一日仕事をするということは、掃除や洗濯はいつ誰がしてくれるのかしら」

 半音上がった冷たい声を聞いた瞬間に、余計なことを言ってしまったということに気が付きはしたが、すでに遅しである。目を合わせてくれないみどりの前で、ただただ失言を詫びながら、小さくなっている他、なかった。

「ところでな、千代ちゃんが朝、えらい早くから来てたぞ」

 一通り縮こまった後、目先を変えようとして、千代が店舗で待っていることを話した。

「何時ごろのことなの」

「うん、俺が新聞を取りに出た時には門のところに立ってて、30分ぐらい前には来てたって言うてたから、多分6時半ごろからとちゃうかなあ」

 驚いた顔で手を止めて質問してくるみどりを見て、やれやれ、収まった、と思ったのだが、

「もう、なんですぐに教えてくれなかったのよ」

 と言い捨てて店舗の方に向かったみどりの背中を見ながら、目論見はかえって逆効果であったことを思い知らされることになった。


「そんなことを言うてもやな」

 こっそりと独り言を言ってみたが、そもそも何を考えているわけでもないので、続く言葉は出てこない。

「おはよ」

 背中から、拓也の寝起きの声が聴こえた。ようやく今、目を覚ましたようだ。

「やっと起きたか。千代ちゃんは6時半から来てるぞ」

 と、とりあえず威厳を持って、言ってみる。

「ふうん、そうなんや……。まあ、俺は、無理やな。この時間は俺にとったら早朝か、へたしたら深夜やからな」

 冷蔵庫を開けながら拓也が応じる。何の影響も受けていないようである。

「結構な身分やな。とりあえず、遅刻だけはせんように、ちゃんと用意しとけよ」

 みどりが言いそうなことをそのまま拓也に投げてみたが、特に反応はない。繰り返してやろうかと思ったが、みどりが食堂の方から戻ってきたのが見えたので、余計な言葉は口に出さず、コーヒーと一緒に飲み下した。

「千代ちゃんだけじゃなくて、もう半分くらい集まってきてるわ。順番をとるわけでもないのにねえ」

「一人で家におったら不安やから、て言うてたな」

「不安だからって、それで出勤してくるしかないって言うのもなんだかね。だけど、今日だけのことだったらいいけど、続くようなら何か考えてあげなくちゃいけないわね」

 考えると言っても、自宅のことである。あまり早朝から開けるのも、落ち着かない。初日だけのことなのか、今後もそうなのかもまだ分からないので、とりあえず様子を見る他ない。

 そうこうしている間に、垣内紀子が出勤してきた。仁志達の姿がないので、母屋の方に訪ねてきている。拓也も洗面だけは済ませて、まがりなりにも出勤の恰好はしてきた。とはいっても、ジーパンにTシャツというラフなスタイルで、パジャマだけは着替えたという程度である。

「そしたら、行こうか、ぼちぼち」

 皆が何故か自宅にそろったので、出勤というよりはどこかに出かけるとでもいう風情になったが、言っても始まらない。出勤場所くらい、打ち合わせておけばよかったと思ったが後の祭りである。

 店舗に出ると、ほぼ全員がそろっていた。

「社長、おはようございます」

「おはようございます」

「おはよっす」

 思い思いにあいさつをしながら、仁志の周りに集まる。事務室に入ったみどりが、すぐに紙袋を抱えて出てきた。

「はいみんな、これね。このピンクのエプロンを、制服っていうことにするね。それから、厨房に入る人はこの帽子もかぶってね」

 あらかじめ打ち合わせてあったようで、戸惑う姿はなく、皆がそれらを受け取って、厨房横から更衣室に向かう。千代などは、嬉しくて仕方ないようで、エプロンを受け取ると、胸に抱きしめるようにして言った。

「いよいよ今日からやねんなって思ったら4時に目が覚めちゃったの。眠いけど、がんばります」

「私も、いよいよやと思ったら目が冴えて。4時に寝たから眠たいけど、がんばります」

 二上明美が続ける。

「私もなかなか眠れなくて。今日から仕事やから、ちゃんと寝ないと、と思ったんやけど、寝苦しくて、結局ごそごそしてるうちに朝になっちゃって。朝になってからよく見ると、机の上に眠剤が置きっぱなしになっていて。用意したのはいいけど、そこで安心しちゃって、飲むのを忘れてたみたい」

 富田恵が呑気な声で言ったので、仁志もみどりも、笑ってしまった。おかげで、初日の緊張はどこかに忘れてしまったようだった。

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