第11話 契約

「最も小さい者のひとりに――ひとりひとりが、かけがえのない存在。カヤマコーポレーションは、そんな思いを大切にします」

 教会で聞いた聖書のフレーズをそのまま掲載し、それに続けてようやくひねり出した文章だった。とってもいいと思うわ、というみどりの言葉に励まされて、なんとかまとめ上げた事業計画を、出宮に見せた。出宮は、そのメモを丹念に見ていった。ところどころにマーカーで印をつけている。仁志は、課題を提出した学生のような気分になって、その手元を神妙な面持ちで見ていた。

「なるほど、持ち帰りや宅配の弁当も一緒に、というのはいいアイデアですね。市役所などにも配達すれば、仕事内容が見えやすいだけに、事業そのものへの理解や協力も得やすくなります。地域に根差した、良いモデルができそうですよ、香山さん」

 メモから目を上げた出宮は、にこやかにそう言った。仁志としては安心したとともに、良いモデルができそう、という評価を聞いて小さくガッツポーズをとる気分にもなる。こうして書いたものをちゃんと評価されるのは、どれくらいぶりだろうか。

「土地柄もあると思いますが、食堂としてよりは持ち帰りや宅配の方が需要はありそうです。宅配などは人手の確保が難しいのですが、その点は就労継続支援事業で取り組むなら、うってつけです。なにせ、人手をどれだけ雇用できるかということが本体なんですから」

 うまい具合に丸め込まれているだけなのか、本当にいい話なのか。本当の意味での経営の経験がない仁志には見分けがつかなかったが、ここは乗ってみるしかない。そう思うと、なんとなくうまくいきそうな気がしてくるから不思議なものである。

「ところで、私どもとの契約の件ですが、どうなさいますか。先日もご説明いたしましたように、個別の作業でご契約いただくか、パッケージでご利用いただくか、もしくはフォローアップまでを含めてお付き合いさせていただくか、という感じになりますが」

 と言いながら出宮は綴じられた書類を幾種類か取り出した。内容別に契約書を作って来たらしい。

「その、フォローまで含めて、のコースでお願いしようと思います」

その点については仁志の中ではすでに結論が出ていた。どう考えても手続きを自分一人でできるとは思えなかったからだ。

「かしこまりました。ありがとうございます」

 出宮の方もほぼ予想通りだったのか、並べた幾種類かの契約書類を一つを残してあっさりと付けた。中身を見もしないうちに話が進んだが、もしかしたら他の契約書は初めから白紙だったのかもしれない。そんなことをふと思ったりもしたが、疑い出すときりがないので止めた。

「法人登記の方はこの足で済ませてしまおうと思っているのですが、社名は先日お聞きした通りでよろしいでしょうか」

「ああ、カヤマコーポレーション。それで結構です。店の名前は後で考えようと思てるんですけど、それでいいですかね」

「それは社長の方針でお決めになられれば結構です」

 出宮が仁志の目を覗き込みながら、言った。社長、か。酒席の冗談ではなく、本物の社長になるという実感は、なかなか湧いてこず、ただこそばゆい気持ちになっただけだった。


 契約をすることが決まったのを待って、みどりが茶を淹れに一旦席を外した。みどりにとっても、仁志が書いた企画がどう扱われるのか、気になっていたところなのだろう。

「では申請の準備を始めていくにあたって、事業の規模を決めておかなければなりません。就労継続支援A型事業の場合は十名の規模から開始できるのですが、人件費などとの関係で試算するとやはり14~15名以上くらいの利用者が平均的に確保できているのが理想的です。先日のお話では奥様がサービス管理責任者を担当していただけるということでしたので、職業指導員もしくは生活支援員を2名雇用されればいいのですが」

「2名ですか。それはなにか資格とか、いるんですか」

「いえ、特に規定はありません。国家資格をお持ちの方がおられれば専門職配置加算がとれるのですが、必須ではありません」

「国家資格やったら、家内が福祉士持ってるということなんで、それでええんですかね」

「いえ、この加算は直接処遇職員が対象でして。つまり指導員や支援員のことです」

「そういう人もやっぱり、ハローワークで募集するんですか」

 やり取りをしている間に、みどりが盆を持って戻って来た。

「あのね、お父さん。今話している指導員のことなんだけど」

 小声で耳打ちをしてくる。仁志は出宮に目で合図をしてから席を立って、みどりと一緒に戸口のところまで戻った。

「実はね、拓也を雇ってみたらどうかと思うのよ」

「拓也を、か」

 思ってもいなかった名前が出てきたので、思わず声が大きくなる。

「ほら、この話している間、あの子結構色々興味持ってくれたじゃない。見学にも一緒に行ったし。さっき、こっそり聞いたら、やってみてもいいかなって、そう言ったのよ」

「拓也が、か」

 少々トーンは落としたが、小声というほどではない。出宮から離れて背を向けている意味があまりなくなっていた。またすぐに辞めるんじゃないのか、とふと思ったが、それよりも他人を雇用するよりも、リスクは低いというメリットの方が大きかった。もし拓也がやるというなら、それで一人確保しておいた方が、効率的でもある。

出宮の方を二人で振り返ると、出宮もにっこりとうなずいている。

「問題はございません。ただ、加算のこともございますので、もう一人はできれば専門職をお雇いになった方が」

「誰か心当たりのお知り合い、いてはりませんか」

 さすがにお門違いとは思ったが、念のために聞いてみると、

「残念ながら私には心当たりはないのですが、ご見学に行かれたビーンの森村さんでしたら、色々とお知り合いもおられるそうですし、確か専門学校でも教えていらっしゃるので、一度お尋ねになってみられたらいかがでしょうか」

 なるほど。確かに森村は若いながらなかなかしっかりと考えを持っていた。拓也がそれなりに乗り気になったのも、もしかすれば森村の影響もあるかもしれない。とりあえず、連絡をとってみよう、と仁志は思った。


 用意された書類の山を見て、仁志は改めてひるんだ。というよりも、あきれた。森村の事業所に見学に行って、なんとなく雰囲気は分かった気がしていたが、目の前にある書類からはどうしてもそんな事業の姿は見えてこなかった。

 それでも、府庁や保健所に足を運び、店舗の改装を進めていくと、少しずつだが、事業の輪郭がおぼろげながら見えてきた。

「目が回る、いうのはこのことですね。これまで50年以上生きてきて、こんなに忙しいのは初めてですわ」

「まあ、事業としては福祉サービスと食堂の2つを同時に始めるようなものですからね。でも、順調ですよ。これも香山さんの事業計画がしっかりしておられるからです。実際、今のところ、市役所などの反応はかなりいいですからね。地域に根差した、良いモデルになりますよ」

 相変わらず、人を乗せるのがうまい。真に受けないように気をつけなければ、などと思いながら、実際に長い間ただの廃墟になっていた店舗が、開店に向けて改装され、準備が進んでいくと、まるで息を吹き返していくように見える。良いモデルになるかどうかは別としても、仁志自身も大変ながら嬉しくなかろうはずもない。たとえそのアイデアのほとんどが自分のものでなかったとしても、だ。


 登記やら工事やら指定申請やらで、結局あっという間に数か月が過ぎて行った。貯蓄と失業保険でなんとか回しているものの、先が見えているので収入が上がってこないのは不安でしかない。しかしそんな中でも利用者を集めなければならなかった。それは同時に彼らを雇用するということでもある。

 求人を出しに行く時には、さすがに緊張した。本当に大丈夫なんだろうか。雇ってしまったら、給料を支払う義務が発生する。一旦、事業者向けの窓口まで行ってから声をかけられずに引き返し、いつも来ている求職者向けのフロアで、求人情報を開いて眺めた。もしかしたら今からでも、目を見張るような好条件の求人が見つからないだろうか、などと漠然と考えたりしてみたが、そんなことをしている場合ではない。

それでも意を決して事業者登録を行い、求人申込書を提出するまで、たっぷり半日くらいはかかってしまった。

「求人申込書って求人票と似てるんやなあ」

 求人票を作るための情報だから、考えてみれば当たり前である。出来上がった求人票を一枚受け取り、これを見る側から出す側になったことに、妙な感慨を覚えた。そもそも求職者として通っているところに、逆に雇用主として登場するわけだから、考えてみれば不思議なものだった。

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