第9話 千代ちゃん
説教の後、今度はオルガンが流れ、歌われた賛美歌は仁志にも聞き覚えがあるものだった。ほどなく礼拝は終わり、ある種の清々しい解放感が会場に流れていた。
「どうだった、お父さん」
みどりにすれば珍しく、少し遠慮がちに仁志の顔を見上げるようにして、尋ねてきた。仁志は、理念作りの参考になるような材料を仕入れるということに集中していて、つまらなかったらみどりにクギを刺すという、教会に来たもう一つの目的を忘れていたことに気づいたが、あわてて頭の中を探ってもそれらしい問題点を見つけることはできておらず、
「そうやなあ、うんまあ、ええんちゃう」
と小声でつぶやくしかなかった。
「でしょう、来てよかったじゃない」
とすかさず目を輝かせて畳みかけるみどりを見て、調子づかせてしまったと思ったが、後の祭である。
「まあそうは言うてもなあ、なんていうかその、来てよかったとまではなあ」
などと口の中でもごもご言ってみたが、そこは軽く無視された。周りはいつもの馴染みのようで、あちこちで親しげに会話が交わされている。みどりの他に知り合いもない中で、自分だけがよそ者であると感じた仁志が所在なくホールを見渡していると、
「香山のおばちゃん、おはよう。おっちゃんも来れてんなあ。よかったなあ」
という声が背後から聞こえた。
「ああ千代ちゃん、おはよう。」
みどりが声の主に、親しげに答え、続けて仁志に、
「お父さん、この間言ってた、瀬川千代ちゃんよ」
と告げた。瀬川家は、同じ町会にあるので仁志も昔から知っていた。今は、仁志よりも二学年ほど上の息子が継いでいると聞いた覚えがある。千代というのは確かその次女だったと思う。就労継続支援事業の話を始めたときに、みどりから「そういうところ」を探しているのだと言われていた。
「この子も教会に?」
「そうよ。というより、実は千代ちゃんに誘ってもらって通い始めたのよ、私」
なるほど、そうつながってくるのか。仁志は妙に納得したと同時に、もしかすると妻の計算通りだったのかもしれないと思って小さく首をすくめた。
ベージュのセーターにグレーのパンツ、髪は無造作に後でくくってあり、化粧もほとんどしていなさそうに見える千代は、年齢もはっきりとは分からない。けれども、くりくりとした大きな二重の目に、幼子のような屈託のない笑みを浮かべて仁志を見ていた。
「こんにちは。家内がいつもお世話になってます。ご近所やけど、会うのは初めましてかな」
とりあえず話す相手と理由が見つかったので、仁志は千代に話しかけてみた。
「こんにちは。わたし、香山のおじいちゃんはよう知ってるねん。子供のころ、食堂にようご飯食べに行ってたもの」
「ああ、そうなんやね。そしたら、お得意さんやってんやね。今はもう、閉めちゃったけどね」
おそらく、仁志が金沢にいる間に生まれたのだろうけれど、食堂の閉店の話をすればおよその年代が分かるのではないかと思ったのだが、千代はなぜかそれに答えようとはせず、
「私ね、コーラスやってるの。おばちゃんも聴きに来てくれたの」
と食堂の話題には乗らずに、やはりにこにこしながら言う。
「あ、ああ、コーラスね。歌が好きなのかな」
仁志は何となく要領を得ないまま、とりあえず千代に話を合わせようとした。
「お母さんがね、おばちゃんに、案内渡してくれたから」
今度は仁志には意味がつかみかね、きょとんとしていると、
「瀬川さんの奥さんが、チラシを下さったのよ。それでこの教会でやってた演奏会を聴きに来たのが、きっかけでね。礼拝にも寄せてもらうようになったの。ねえ、千代ちゃん」
みどりが付け加えた。そう深刻に話し込んでいるわけではないにせよ、どうも会話が噛み合わない。しかしみどりの方は機嫌よくやりとりしているので、仁志としては再び輪からはみ出してしまっているというか、取り残されたような感覚にとらわれた。
そうこうしているうちに、何人かに取り囲まれて話していたらしい牧師が、前の方から歩いて近寄ってきた。仁志は、その視線が自分に向かっており、感想を聞かれたりしたらどうしようかと一瞬身構えたが、
「香川さん、ようこそいらっしゃいました。牧師の田淵です。奥様からお名前はよくうかがっていたんですが、お会いできてよかったです」
といって握手を求められた。
「金沢の方から越してこられたとお聞きしたんですが、お生まれはあちらの方ですか」
礼拝や説教の話ではなく、自分のことを質問されたので仁志は少々戸惑いながら、
「あ、いや、私は松原生まれですよ」
「へえ、ああそうなんですか」
少しのけ反り気味に、大仰に驚きを表現する田淵牧師を見て、やはりキリスト教の牧師などをしているくらいだから、立ち居振る舞いも欧米人のようなのだな、と漠然と考えた。
「大学が金沢で、卒業してからもしばらくあちらに住んでいたもんですから。でも今の自宅は祖父の代から住んでいるところでしてね」
そういえば、こんなところに教会があるということを知らなかったのだが、自分が金沢にいる間に建ったということなのだろうかと仁志が思っていると、
「今のこの会堂は二十年ほど前に建てたんですが、その前はもう少し北にありましてね、その頃は香川さんのご自宅ともっと近くにあったということになりますね」
と田淵牧師が続けた。なるほど、建物はやっぱり新しいということか。でも、その前ということは、自分が中学生や高校生だった頃にも、なんらかの形で教会そのものはあったということになる。感心がなかったからとはいえ、全く知らなかったということも、仁志にとって驚きではあった。
「私はこの会堂が建つ五年ほど前にこちらに来たものですから、それ以前の松原のことはよく知らないんですよ。関東の出身でしてね。よければまた、昔の松原の様子なんかも聞かせてください」
そう言って立ち去っていく田淵牧師の後ろ姿を見ながら仁志は、
「家内が、お世話になっています」
と言いそびれていた台詞を、今更のように小声でつぶやいた。
「それで、どうだったのよ。なにかヒントが見つかったの?」
うどんをすすりながら、みどりが言った。礼拝が終わると昼食が出ると聞いたが、さすがにそこまでは遠慮した。かといって、そのまま帰っても食事の用意もしてこなかったので、駅前のさぬきうどんの店に立ち寄ったのだ。仁志は、日曜にみどりの帰りが遅かったのはこういうことか、と変なところで得心した。
この店が入っているショッピングセンターは、歩道橋で駅の改札から直接つながっていて、仁志が金沢の大学に行っていた頃に出来たと記憶している。きれいに使われていて清潔ではあるが、店のつくりからテーブルや椅子まで、なにやら古ぼけた感じがして、昭和の時代がぽつんと取り残されたように見える。昔ながらのうどん屋によくある、背もたれのついていない四角い椅子に腰掛けて、仁志は定食のかやくご飯を一口、ほおばった。木の枠組みに布で張られた正方形の座面は尻がちょうど乗るくらいの小ささで、日頃座る姿勢の決してよくない仁志も、この椅子だと背筋を伸ばして姿勢よく座らざるを得ず、必然的に食べる姿勢も行儀良くなる。これはこれで合理的だな、と脈絡もなく考えていた。
「ねえ、どうだったのよ。なにぼんやりしてるの、お父さん」
みどりに再度言われて、我に返った。はじめて足を踏み入れたキリスト教会の様子や、田淵牧師の説教、それに瀬川千代とのやりとりなど、実は仁志にとっても感じるところはあったのだが、考え出すとおかしな方向に行ってしまいそうなので、意識しないようにしていたのだ。
「まあ、さぬきうどん、というにはややこしが弱い気もするけど、味は悪くない。ここのかやくご飯はいい味出してるしな」
「かやくご飯の味じゃなくて、礼拝はどうだった、って言ってるのよ」
仁志の戸惑いに気づいているのかいないのか、みどりはずばずばと切り込んでくる。
「あ、ああ、その話か」
うどんを数本すすってから、仁志はテーブルに置いてある、七味を振りかけた。味を調整するふりをしながら、なんと答えようか考えている。
「なんとなくやけど、最も小さい者の一人にしたのはわたしにしたのだ、ていうくだりは印象に残ったかな。知らずにもてなしたら、実はお地蔵さんやった、ていう類の昔話にちょっと似てるし、分かりやすいかもしれへん」
「お地蔵さんってねえ」
みどりは割りばしで汁をゆっくりかき混ぜるようにしながら苦笑いを浮かべた。
「まあいいけど、それをどんなふうに理念にするの」
すぐに気を取り直して、ちょっと髪をおさえながらまた一口うどんを食べる。こういう仕草を昔はかわいいと思ったものなんだが、とみどりにはばれないようにどんぶりを持ち上げて汁をすすりながら、そっとのぞき見る。
「そやから、働きたいけどなかなか仕事が見つかれへん気の毒な人に、職場を提供するっちゅうことやろ。あの千代ちゃんみたいな子らに」
「その、気の毒な人っていう考え方、止めた方がいいわよ。でもまあ、関心も持っていなかったあなたにしたら、まずは精いっぱいってところよね」
なんでそんな上から言われるんだ、と仁志は思ったが、反論してもやり込められるだけなのは目に見えていたので、うどんの汁と一緒に呑み込んだ。まあとにかく、理念のヒントになりそうなものがとりあえず見つかったのだから、みどりの教会通いを止めることは一旦あきらめるしかなさそうだった。
仁志は、出宮が持ってきた書類を見ながら、うなってしまった。
「こんなに色々作らなあかんのですか」
見学に行った結果、やってみようという気持ちになった旨を連絡すると、出宮はすぐに飛んできた。事業を始めるにあたっての手順をまとめた資料をまず見せられたが、正直なところ、なにがなにか分からなかった。まがりなりにも店長をしていたので、経理や人事関係の書類などはそれなりに扱ってきた。しかし、出宮の資料に羅列されているのは、表題を見ただけでは一体どんなものなのか、想像もできないものも多い。役所に提出する資料だけでなく、日々の記録や事業の中身のことなど、専門用語らしきものが羅列されていることにも閉口した。
「申請書やとか印鑑証明なんかは分かるとして、運営規定やら事業計画やら、どんだけいるねんっちゅう感じですね。書類の種類だけで五十くらいありますやん」
「まあ、書類は多いですが、一度作ってしまえば後々更新の際にも使えますから」
出宮は涼しい顔をしている。コンサルタントをしているくらいだから見慣れているというものだろうけれど、本当にできるのだろうかという不安しか出てこない。もっとも、それだからコンサルタント業が成り立っているとも言えるのだろう。
「大体の流れとしては、まず大まかなプランを作って役所で打ち合わせをします。その上で、食堂を軸にするならその開店準備と、並行して障害福祉サービスの指定申請をします。法人を設立しなければなりませんので初めに登記することから始めることになりますが、私どもでお手伝いさせていただける部分もたくさんありますので、そこはご相談させていただければと思います」
「なにせ、全然経験のないことばっかりで、なにをどう進めたらええのか、想像もできません。おたくにお願いするとしたら、どれくらいかかるんですか」
「お手伝いさせていただく内容によって変わってきますが、法人設立から立ち上げ後、軌道に乗るまでのフォローアップまでのセットでこのような感じになります」
出宮が、一連の資料とは別の封筒を取り出してきた。それが本業だろうから、そのあたりのタイミングは素早い。
「やっぱり結構かかりますなあ」
思わずつぶやいていた。初期費用だけでなく、フォローアップまでかなり細かな項目が並べられている。
「もちろん、それは参考資料でして、ご相談に応じて見積もりはさせていただきますが、フォローアップまでパッケージでご用命いただければ、必要経費を除いて基本的には成功報酬になりますので、ご安心ください」
「成功報酬って」
「開業後の利益に応じて、一定の報酬をいただくという形です。立ち上げのお手伝いだけですと割安ではありますが、その後の経営についてはご自身で、ということになります。私どもといたしましては、できれば開業後も継続して応援させていただきたいと思っておりまして」
「顧問弁護士、みたいなもんですか」
開業の支援だけではないということか。なかなかしたたかな商売だな、と仁志は思った。
「そんなに大層なものではありませんが、ずっとご一緒させていただくとなれば、ご安心いただきやすいのではないかと思っております」
ものは言い様やな、と言いかけて、さすがにそこは引っ込めた。隣ではみどりが神妙な顔で座っている。事務的な話になると、さすがに一言もないようだった。
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