第7話 就労継続支援事業所ビーン

 仁志の考えていることを見透かしたように、出宮は締めくくり、それ以上押すことはせずに退散していった。見込みがないと思われたのか、それともそうやって考える時間を与えることも、一つの作戦なのか。いずれにせよ、実際の事業所を見学しに行ってみるということはいいかもしれない、とも思った。

 夕食は駅前のスーパーで買ってきた、コロッケだった。出宮が帰った後、結構な時間をかけて資料を読み込んでいたため、作っている時間がなかったためだ。食事をしながらも、話は止まらない。

「とにかく、一度見学に行ってみてもいいんじゃないかしら」

 とみどりは積極的だった。

「お前が金沢で勤めてたっていうのも、こういうところなんか」

「あの頃はまだ、こんな制度はなかったわ。作業所といって、お給料が出せるような仕事じゃなくて、内職なんかを皆でやってたっていう感じね。だから実は、どんなのかなって興味は持ってたのよ」

「ふうん。作業所か。それやったらなんか聞いたことはあるけどなあ。」

 つくづく、妻が考えていたことについて全く知らなかったのだということを思い知らされる。そういう意味では、何かの縁かもしれないな、とも仁志は思った。

「内職っていうたら、どんな仕事やねん」

「そうねえ、お菓子の箱を折るとか、袋詰めするとか、そんな感じかしら。それを延々とするのよ。もちろん、根詰めすぎると疲れちゃうから、休み休みだけどね」

「そらしんどそうやな。そやけど、障害者の仕事ってやっぱり、そういう感じなんか。内職だけでは食堂はできへんけどなあ」

 また地雷を踏むことにならないよう気をつけながら、それでも、雇い入れるというからにはどこまでやれるのかは気になるところだ。

「食堂、やるんか」

 黙って食べていた拓也が、ふいに口を開いた。

「いや、まだやるって決めたわけやないねんけど」

「就労継続支援A型って言ってね、障害者の人が働く場所にするっていうの、考えてるのよ。でもまだはっきりしたことが分からないから、一度実際にやっているところを見学に行ってみようかって話してたの」

「ふうん」

 そう言って、みそ汁を少しすすったが、いつもならそれでまた興味なさげに下を向いてしまう拓也が、そのまま顔を上げて、何かを考えるように口をとがらせている。

「何、あんた興味あるの」

「うんまあ、興味ってほどじゃないけど、面白そうやなあって」

「じゃあ、一緒に行こうよ、見学」

「そうやなあ。まあ、どうせひまやし、行ってみてもいいかな」

 妻と息子の間で、あっという間に話が出来上がっていくのを見て、仁志はあっけにとられた。そもそも拓也が面倒くさがらずに会話を続けるのを見るのも久し振りである。


「なんとなく、こっちの方は電車の中が広々してるような気がするな。そう言えば、線路の幅が南大阪線の方がちょっと狭いって聞いたことがあるけど」

 目的の事業所は近鉄の八戸ノ里にあると聞いていた。同じ近鉄でも、仁志の住まいのある南大阪線沿線とこの付近を走る大阪線沿線では雰囲気が全然違うような気がする。どちらでもいい話ではあるが、仁志は久しぶりに息子と電車に乗って出かけたので、なんとなく居心地の悪さを感じながら話の接ぎ穂を探っていた。考えてみれば、親子三人で出かけることなどずいぶん久しぶりだった。もしかすると、大阪に戻ってきてから初めてのことではないかと思った。

 拓也は拓也で、学校のことや就職のことで小言を言われるのが嫌で、自身にも大学を中退してしまったうしろめたさがあり、父親とのコミュニケーションを無意識に避けてきた。父親が色々と気を遣っているのは分かったが、だからと言って愛想よく応じられるものでもなく、必然的に応答はぶっきらぼうで、せっかく投げられた会話もほとんど続かないでいた。不愛想に自分のスマホを操作して、インターネットのページを突き出す。近頃めっきり細かい文字が見えなくなった仁志が眉をひそめて、

「なんや、細かい画面、よう見えへんがな」

 と答えたため、拓也は面倒になり、

「狭いのは線路の幅だけで、車両は変わらへん、ちゅうことや」

 ぼそりとつぶやくように言って、スマホをひっこめた。

 少しは助け舟を出してくれればいいのに、と仁志はみどりを軽くにらんでみたが、みどりの方は、そういう仁志と拓也の様子をただニコニコしながら見ているだけだったので、親子の会話はとりあえずそこで一旦途切れてしまった。


 八戸ノ里の駅から徒歩で十分弱だと、出宮のメモには書かれていた。初めて降りた駅だったので土地勘はなく、改札を出たところで右に行くのか左に行くのかも見当がつかなかった。たちまち迷ってしまうかと思ったが、拓也がスマートフォンを操作して、行き先を検索した。画面を確認しながら、正面にある細い道にさっさと入っていく。仁志とみどりだけだったら、とりあえず駅で地図を探して右往左往していただろうと思うが、無言で歩く拓也の後ろをあわてて追いかける。

「こんな道で本当に合ってるの」

「あっちの方の大きい道と違うのか」

 何の根拠もなく申し立ててみたが、相手にされず、後はキョロキョロしながらついて行くだけになる。二人ともそういう類のものは使いこなせていないので、仕組みそのものよりも使いこなしている拓也の方に感心した。

 一度右に折れて、さらに少し歩くと、やや広い通りに出た。自分達だけで来ていたら、迷っていることは間違いなかったという自覚はある。コンビニやら鍼灸院やらがぽつりぽつりとある界隈を抜けたあたりの、どこにでもありそうな雑居ビルの一つの前で拓也は立ち止まった。

「ここか」

「うんまあ、そうみたいやな」

 ここからはスマートフォンの画面を見ているというわけにはいかない。いざたどり着いてみると緊張し始めたのか、拓也の表情は少し硬くなっている。

「就労継続支援事業所ビーン、か」

 看板らしきものは出ていないものの、入り口にある郵便受けには出宮のメモに書いてある通りの事業所名が、貼り出されてある。このビルの二階が、目指す事業所らしかった。

 しゃべりながら歩いてきたわけでもないが、小さなエレベータに乗り込むと沈黙しているということが強調されて感じられる。エレベータの中というのは、どうしてこんなに緊張が高いのだろう、といつもながら思わされる。仁志は気まずさをごまかすように、息をひそめて階数表示を見上げた。


 エレベーターを出ると、ベージュの廊下に、同じデザインの濃紺の扉が並んでいた。仁志は関わったことがない世界なので予備知識はほとんどなかったが、それでも福祉の事業所というイメージとは違うような気がした。作業所に勤めていたというみどりの方は、さらに驚いている様子である。

 手前から二つ目の扉に、郵便受けにあったのと同じ字体で、就労支援事業所ビーン、と貼り出されてあった。インターホンを鳴らすと、中から三十代くらいだろうか、一人の男性が顔を出した。髪にはつやがなく、寝ぐせこそついていないが明らかに手入れしている様子の見られない容姿で、顔色もややどす黒い。しかし、こんにちは、とあいさつしたその表情にははっきりとした笑顔があり、前歯の欠けた口元のやや間の抜けたところも含めて、心地よい印象を受けた。

 案内を受けて中に入ると、廊下の雰囲気からは想像つかないほど広々としたスペースが広がっていた。それに、正面が窓になっていて、明るい。事務机がいくつか並んでいたり、応接セットがあったりと雑然としているとも言えるが、特に区切られているわけでもなく、隅まで見渡してしまえることが、開放感を与えているのだろうと思われた。

 事務机に座って何やら作業をしていたり、ソファに腰掛けてくつろいでいたりしてそこにいた何名かが、例外なく先ほどの男性のような満面の笑顔で、はきはきとあいさつをしてきた。まがりなりにも接客業の経営をしていた仁志は接遇教育には頭を痛めてきたので、そこにいた全員がきちんとあいさつしていることにまず驚いた。しかも、事前に聞いていた情報では、ここでの事業内容は清掃や駐輪場の整理などの請負で、特に小売り等の接客業ということではない。そもそも仁志は顧客ということでもない。それで一体どうすれば、こんな応対ができるようになるのだろうか、と興味を惹かれる。

 手前に観葉植物が置かれてそこだけ一応区切られた形になっているスペースに案内されると、テーブルと椅子が置いてあり、そこが面談室のような形になっているらしいということが分かった。

「どうも、森村と申します。出宮さんからお聞きしてます」

 待つほどもなく、顔を見せたのは、拓也とそう年齢が変わらないように見える若い女性だった。どうも、からはじまるあいさつにしても、物腰にしても、学生のような気軽さがある。身ぎれいにはしていて、清潔感はあったが、ユニフォームなのか、最初に応対に出た男性と同じモスグリーンのポロシャツにチノパンというラフな服装をしていた。一体何者だろうか。そもそも、入り口で自分達を迎えた男性にしても、室内にいた何名かにしても、ここの従業員なのか、それとも出宮の言う「利用者」なのか、見当がつかない。しかし、差し出された名刺には「サービス管理責任者」と書かれていた。この若さで、管理責任者。早くも失望しかけた仁志だったが、出宮にしても実際に話を聞いてみるとしっかりしていた。だから人を見た目で判断をしてはいけない、と一応は自分を戒めた。

「なんでも聞いてくれはったらいいですよ。まあ、分かる範囲でしか答えられませんけどね。でも私達も、出宮さんとかその他にもいろんな人から教えてもらってなんとかやれてるって感じなんで、私で役に立てることがあったらうれしいです」

 話し方は砕けた感じだが、いざ話が始まると、やはり出宮が紹介しただけのことはある。仁志が尋ねようとしてメモをしてきた実務的な質問に、スラスラと答えてくれた。事業指定を受けるために役所に提出した書類もそのまま見せられたし、従業員の個人情報などが載っていない分には幾枚かはコピーをとって渡してくれもした。言うなれば商売敵になるはずの自分に、経営上の情報を渡してしまって平気なのだろうか、とあっけにとられている仁志に、

「いい事業者が増えたらその分障害者の方の活躍のチャンスが増えますからね」

 とこれも、仁志の知っている大人達の間では、ただのきれいごとの建前としか聞こえないようなことを、あっけらかんとした調子で言う。

「森村さんの他に、従業員の方は何人おられるんですか。お話の中では指導員は四名とおっしゃってましたが、見たところ室内にはそれ以上の人数がおられますよね」

 誰が障害者なのか分からないとはさすがに聞けないので、そんな風に質問をしてみた。

「雇用をするA型事業ですから、従業員という意味では全員が従業員です。指導員か利用者かという意味だったら、今このオフィスにいるメンバーは私を除いて全員が利用者さんです。ほとんど現場に出てはりますけど、ほぼ定員いっぱいの十九名の方がいてはります」

「全員が利用者さんですか。いや、それはびっくりしました。来た時から思ってたんですけど、接遇がすごく行き届いてますよね。接客業ていうわけでもないやろうに、すごく感じのいいオフィスやと思いました。」

 仁志が若干のお世辞も込めて言うと、森村は自分がほめられているかのように少し頬を赤らめながら、

「皆さん、ここに来るまでにそれぞれ準備訓練を受けて来られた方がほとんどですので。ここでのあいさつのルールなんかはもちろん伝えますが、基本的な姿勢や声の出し方や表情までは元からできてはります。それに、自分達が働いてる会社やっていうプライドみたいなものもしっかり持ってはりますから」

 という返事が返って来た。笑顔で働ける職場です、とパンフレットには書いてある。そんなことはよくあるキャッチフレーズに過ぎないと思っていた仁志は、それが文字通り実践されていることに、また驚かされた。

 すると、それまでじっと黙って聞いていた拓也が口を開いた。

「あの、すみません。森村さん・・・・・・はなんでこの仕事をしようと思いはったんですか」

 仁志は拓也が質問したこと自体に驚いたが、森村はそれも当然というような表情で笑顔で答えた。

「私、昔から自分に自信がなかったんです。でも、高校生のときに障害者の作業所にボランティアに行ったんですよ。授業の一環やったんですけど。そこで、私が適当に言った冗談を何度も嬉しそうに繰り返す人がいて。保護者の方から、あまり同性に心を開かない子なんだけど、随分気に入ってるみたいです、て言われて。その人のことがなんとなく気になったんで、個人的に続けて何回か行ってみたら、やっぱり彼女は私の真似を繰り返してたんです。ああ、何か伝わったんや、この子の中に私がおるんやって感じて。それで、この世界にはまってしまったんですよ」

 拓也はふーん、と言ったが、自分で尋ねておきながら、特にコメントはしなかった。不躾な質問をしておいて、とはらはらしながら聞いていた仁志は、

「打ち込める仕事見つけはった、ていうことですか。いいですね」

 と、気遣いもあって拓也の代わりに無難なコメントを返した。青臭いと言えば青臭いが、やることが見つからないでいる拓也に多少あてつけたい気持ちも含ませた。それに、仕事にそんな思いを載せるという心のあり様は、そんなことを久しく忘れていた仁志にとってもある種の新鮮さとうらやましさのようなものを感じさせた。


「ただいま帰りましたあ」

 仁志たちが話していると、唐突に扉が開いて、三名ほどが入ってきた。

「あ、お帰りなさい、丸岡さん、どうでしたか、新しい現場」

 森村が戸口の方に顔を向けて、現場から戻って来たらしい人物に声をかけた。丸岡、と確かに言った。まさか、な。そんなに珍しい名前でもないだろうけれども、こんなところで名前を聞くと少し不思議な気持ちがした。

「大丈夫でしたよ。丸岡さん、覚えるの早いし」

「ありがとうございます。皆さんが丁寧に教えてくれたから、落ち着いてできたとおもいます」

 同行していたらしい他のメンバーの一人と、丸岡と呼ばれた人物が、答えていた。仁志は何げなくそちらの方を見た。やはり森村や他のメンバーと同じ、モスグリーンのポロシャツを着ている。

「ま……」

 思わず、声に出していた。頭の方はすっかり禿げ上がって様子が変わっていたが、やや肥満気味のフォルムと赤い頬は、仁志の思い出の中にある丸岡のそれと一致しているように思えた。

「どうか、しはりましたか?」

 森村が仁志に向き直って尋ねた。

「あ、いえ、なんでもありません。あの人らは、やっぱりその、利用者なんですか」

「そうです。あの方はまだ先月に来られたばかりで、今日は新しい現場を体験していただいたんです」

 森村は何の屈託もなく、そう紹介した。もちろん、仁志のざわつく心中のことなど、全く知らないので当然と言えば当然だった。

「なんて言うんですかねえ、普通の人と全く変わりませんね」

「そうですね。ただ、お一人お一人が、色んな生きづらさは抱えておいでですけどね。まあ、それを全く見せはらないところに、大変さがあったりするんでしょうけれども」

 森村の言葉は仁志には咄嗟には理解できなかった。ただ、事業の話だと抵抗なくなんでも話してくれたように見えた森村が、利用者の話となると、ふんわりと具体的なことを隠しているように思えた。出宮の表現を借りれば、利用者はすなわちお客様ということになる。客にまつわる個人情報ということなら、取り扱いに慎重になるのもうなずける気はする。それ以上は質問を重ねられずに、仁志は一旦丸岡と呼ばれた人物のことは脇に置くことにした。

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