第5話 書斎
次の日は、ハローワークには出向かなかった。そう連日通い詰めたところで、求人が劇的に増えるわけではない。なかば言い訳に近い理屈をそう自分に言い聞かせながら、「香山食堂」の薄れかかった看板をぼんやりながめていた。足元は草履で、服装もスウェット姿のまま、出かける気にもなれないでいる。
「かえって使いにくい、か」
仁志は谷沢に言われたことばを無意識に口にしていた。考えてみれば、自分が雇う側だったとしても、元店長だったという履歴を見れば、確かに積極的に雇いたいとは思わないだろう。そんなことは多分、分かっていた。けれども、汚れた大和川の景色と同様、いまさら自分にはどうすることもできない。だとすればそんな経歴は考えないで、補助的な仕事を探す他ないか。しかしそれだと、収入がこれまでとは話にならない。だからと言って、店長を募集しているというのはあまり見ないし、あったとしても、これまでやってきたのと違う内容だったら、やはり一から覚えるしかない。何度考えても、同じところに戻ってしまう。煮詰まってしまっていた。
「ほんだら、どうせえっちゅうねん」
今度は意図的に吐き捨てて看板をそっと撫で、わずかな傾きを直してみた。
「経営資源、な」
一応まがりなりにも店長をしていたので、出宮と名乗ったコンサルタントの話も少しは理解できた。店長としてのキャリアが用いられないというならば、年齢的にも技術や資格の面でも、自分には有利な材料はあまりない。だとすれば、残されているのはもしかすれば、この自宅兼店舗くらいなのかも知れない。
看板をいつまでも見続けていても仕方がないので、仁志は家に戻り、自分の書斎に入った。書斎といっても合板製の棚板が反ってしまった古い本棚と小さな机、それにそれだけは値の張ったリクライニングチェアが置いてある、三畳ほどの小部屋である。元は納戸だったが、どうしても書斎が必要だといって、仁志が占領したものだ。そもそも、ほとんど家にいないので使うこともなかったし、本棚に並んでいるのも学生時代の教科書だったものを、見栄を張って置いてあるだけで、ここ十年は新しいものを加えた覚えがない。
この部屋の中で、唯一新しいもの、セミナーで受け取った資料の入ったA四サイズの封筒を手にして、腰掛けた。考えてみれば、一応食堂経営に関することを勉強するつもりで作った書斎に、はじめてそれらしい用途で入ったことになる。
「皮肉なもんやな」
仁志は独り言をつぶやきながら、改めて資料をめくってみた。経営資源という言葉が頭の中をぐるぐる飛び交っていた。
「何見てるの」
いつの間に入ってきたのか、みどりが手元資料をのぞきこんでいた。
「な、なんやお前、ノックぐらいせんかいな」
とっさに資料を裏返して苦情を申し立てたが、みどりの方はびくともしない。
「ノックってドアもないこの部屋のどこをたたくのよ。なに、就労継続支援? ハローワークでもらってきたの、それ」
両面刷りになっているので、裏返したところで大して意味がなかった。むしろ最後のページには大きく、「就労継続支援A型事業について、関心をお持ちでしたら是非ご連絡ください」という言葉が太字で大きく書かれていた。それに、確かに納戸を書斎にした際、たてつけの悪い引き戸は外してしまっていた。ノックというのも、ただ動揺したので言ってみただけである。
「応募するの? 福祉関係とはまた、ずいぶん思い切った方向転換じゃない」
「いや、そういうんやない。その、セミナーがあるっていうチラシを見てやなあ、まあ、近くでやってたから参考までに聴きに行っただけやがな。そんなん、考えてないがな」
吐き捨てるように言って、仁志は書類ごと床に放り投げた。別に責められたわけでもないが、きっと一笑に付されるだけだろうし、そんなことに気をとられてないで、他にやることがあるでしょう、くらい言われるだろうと思っての言い訳だった。ところが、みどりはそれを拾い上げて、そのままの姿勢で資料をぱらぱらと見始めた。入口に立たれているので、仁志も動くわけにいかず、そのままそこでおとなしく座っていた。なんだか、隠していたテストの解答用紙をチェックされているようで、気まずい時間が流れる。
「ふうん。面白そうじゃない」
何気なくみどりがつぶやいたのを受けて、
「そうやろ、そんなうまい話があるわけないしな……え、今なんて言うた、面白そうって」
「うん、面白そうじゃない。起業セミナーって要するに自分で会社を作ることでしょ。障害者の人が働くところを作るっていうことよね」
「面白いかどうか知らんけど、そんな夢みたいな話をやな」
意外にみどりが乗り出してきたので、仁志の方が逆にあわてた。中腰になって資料を取り返し、手元で丸めた。
「夢みたいな話かどうかは聞いてみないと分からないじゃない。第一、どこかで店長さんでも募集していない限り、お父さんが就職するの、難しいんでしょ。聞いてみるだけだったら、お金かからないだろうし」
いちいち言うことが的確である。そこまで見透かされていたか、と思いながら、
「いやに乗り気やないか。お前は絶対、大反対すると思ってたけど」
「実はね、瀬川さんのところの千代ちゃんって覚えてる? 病気で精神科に通ってるんだけど、なかなか就職が見つからないらしくってね。とってもいい子なのよ。いつもにこにこあいさつしてくれるし、駅前の交差点を渡るのに、お年寄りの荷物を持ってあげたりね。瀬川さんの奥さんと話していたときに、千代ちゃんのような人達が仕事に就くことができる場所ないかしら、って言ってらしたのよ。確かその時に、聞いた気がするのよ。ここに書いてある、就労継続支援って」
「なるほど、そういう伏線があったんか」
みどりが珍しく自分の言うことに乗り気だという理由に納得がいったと同時に、そういえば就労と書いてあるだけなのに、すんなり福祉だと言った、ということに今更ながら気がついた。
「そやけど、それでもやっぱりそんな簡単とちゃうで。人も雇わなあかんし、そうなるとリスクも高い。やったこともない分野にそう簡単に手え出されへんやろ」
何故か説明を聞いてきた自分の方が、妻を思い止まらせようとしている。話の流れが、なんだかよく分からなくなってしまった。みどりは仁志の手元で丸められた資料を開かせ、幾ページ目かを指差す。
「この、サービス管理責任者ってあるじゃない」
と、資料の中の一枚を指しながらみどりは続けた。
「金沢にいた頃、私勤めてたでしょう。お父さんはあまり覚えていないかもしれないけど、勤めてたのは障害者の作業所だったのよ。社会福祉士の資格も持ってるの。国家資格を持っていて実務経験が三年以上って書いてあるじゃない。私、この資格、取れると思うんだけど」
それは、人員配置についての資料だった。確か専門の資格とか実務経験とかがある人間に研修を受けさせて配置するという感じの内容だった。出宮の説明の中でも、一番難しいのは人員の確保だと言っていたことを思い出した。
「お前が、か・・・・・・」
言われてみれば、福祉関係がどうだとか、という話を聞いた覚えがある。自分には関係ないので、忘れていただけである。予想もしない展開に仁志は少々混乱したが、考えてみれば、もしみどりがその資格を持っているのだとすれば、一番難しいだろうと言われた人員確保の問題がまず解決する。しかも、夫婦でやるなら人件費のリスクも少ない。仁志は開業という言葉が、急に現実味を帯びてくるのを感じた。
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