第3話 起業セミナー
阿倍野の職業紹介コーナーは、阿倍野ルシアスという商業ビルの八階にある。ハローワーク阿部野の出張所で求人検索の端末と紹介窓口だけがある場所だったが、気分転換を兼ねてうろうろするにはちょうどいい。というより、どちらかというと気分転換の方に力点があった。
思わしいものがなければ映画でも観ようか、などと考えながらかばんの中を何気なくのぞくと、封筒やらチラシやらが無造作に押し込まれている。そう言えば、会社を出る際、自分のデスクのレターボックスにあったダイレクトメールの類を、後で整理しようと思ってとりあえず詰め込んで、そのままになっていたのを思い出した。処分するために取り出して、一応中身を確認すると、厨房の機器や保険の案内などに混じって、一枚のチラシが目に留まった。それは経営コンサルタントが主催する起業セミナーのチラシだった。
「起業、ねえ」
特に惹かれたわけでもないが、そのセミナーはちょうど三十分ほど後で、向かいのホテルが会場になっている。どうせ、時間は泣きたくなるほど余っている。時間つぶしくらいには、なるか。仁志はそう考え、冷やかしに行ってみることにした。
セミナーというから、それなりの規模があるのかと思っていたが、廊下に会議用テーブルを出して設けてある受付を済ませると、案内されたのは会議室というよりも披露宴などの親族控室に使われる程度の、小さな部屋だった。受付と同じテーブルが三列並べられていて、仁志を含めて六名ほどが座っていた。開始まで間もなく、という時間からすれば、恐らく最終的にこんなものだろう。受付で渡されたアンケートには氏名や住所の他、預金や不動産などについても回答する欄があったが、さすがにこの段階で記入するのはためらわれた。
時間になると、廊下に出ていた受付を引きあげ、そこにいた若い男が部屋に入ってきた。明るいグレーのスーツをスマートに着こなし、やや長めの髪も、きちんとセットされていて、清潔感がある。コンサルタント会社のスタッフと思っていたその人物は、そのまま前に出てきて、話し始めた。
「皆さん、本日はようこそお集まりくださいました。それでは時間がまいりましたので、ただいまより、セミナーを始めさせていただきます。まず、お手元の資料をご確認ください」
なるほど、受付と司会を兼ねているのか。さほど大きな会社ではないのかもしれないな。どこも大変だ。仁志は漫然と思いながら、説明を聞いていた。
「申し遅れましたが私が経営コンサルタントの出宮正と申します。よろしくお願いします」
続けられた自己紹介を、仁志は一瞬聞き逃しかけたが、改めて前で話し始めている男の顔をまじまじと見つめ直した。出宮正、と確かに名乗った。ポケットから、セミナーのチラシを取り出す。起業セミナーの講師のところにある名と同じだった。なんだ、この男が講師なのか。この若さで、しかも受付から司会まで一人で行っている。こりゃあ、だめだ。完全にだまされたな。後悔したが、始まってしまったものは仕方ない。
「まず、ホッチキス止めしてある資料をご覧いただけますでしょうか。これから、その資料を使って、説明をさせていただきます」
アンケートと一緒に受付で渡された封筒の中には、新聞記事の切り抜きや法律らしきもののコピーなどの資料が数種類入っていた。仁志は言われた通り、ホッチキスで止めてある資料を取り出してみた。A四版の紙にパワーポイントのデータが並べて印刷してある。
「皆様は受付でお渡ししたアンケートを見て、不審に思われたのではないでしょうか。何故いきなり預金や不動産について問われるのだろうか、と」
出宮正が切り出した。確かに、不審に思った。他の参加者も同様らしく、互いに顔を見合わせたり、アンケート用紙を見直したりしている。出宮はその反応を確認すると、満足気に小さくうなずいて続けた。
「そう思われて当然です。皆様にとって大切なものですから。あえて不躾なアンケートをいきなりお配りしたのは、その大切な財産のことを、思い出していただくためです。それらの情報は、皆さまがもし何らかの事業を起こしたいと思われるとすれば、その事業に活用することができるものです。経営資源、と申します。私が本日このセミナーを開催したのは、単にためになる話やいい加減な情報をお伝えするためではありません。皆様がお持ちの経営資源をいかに活用するのかということを、具体的に考えていただくためなのです」
経営資源、か。なるほどそういう捉え方もある。自分にあるものとすれば、廃業した父の食堂跡だけである。敷地はそれなりの広さがあるが、駅からは遠く、住宅地からも外れているので、坪単価は安い。だから、売却しても大した額にはならない。売らずに、たとえば駐車場にでもしたところで、借り手はあまりつかないのではないかと思われる。そういう意味では持ち腐れになっているだけだったが、不動産であることには違いない。
出宮正は仁志達の反応を確かめるように、束の間、沈黙を置いた上でやはり小さくうなずいてから、その「経営資源」を活用するための具体的な提案として、資料の説明を始めた。それは、障害者総合支援法という法律に基づく、就労継続支援A型という事業に関するものだった。障害者を雇用して、仕事を提供する事業なのだという。聞き覚えのない、馴染みもない世界の話であり、障害者という言葉からは慈善事業か何かに寄付を求めるものかとも予想したが、そういうことでもなく、きちんと報酬を得ることのできるビジネスらしい。これまで、関心を持ったこともない世界だったが、そんなことまでビジネスになる時代なのか、と感心させられたような、あきれるような、それでいて何故か妙に新鮮な気分にもなった。
「提供する仕事にもよりますが、特別な設備投資が必要ということではありません。それに、場合によっては府の整備補助事業を受けることもできます。その他民間でも活用できる助成事業もいくつもあります。私共にお任せいただければ、開業までの手続きなどもご心配いりません。一般の商売とは違って、雇用した障害者が来てくれさえすれば、報酬が入ってきます。しかもその障害者の方は、職業安定所が紹介してくれますから、いわゆる顧客確保が容易です。働きたいと望んでいる障害者の方に働く機会を提供することになるわけですから、社会的にも評価の高いものです。いかがですか。規制緩和が進んでいる今こそ、この業界には大きなビジネスチャンスが待っているのです」
うまい話というものは基本的に信用してはいけないとは思っている。しかし、投資額がたちまちいくらになるというような、怪しげなナントカ商法ではないようだ。まあ、飛びつくような内容でもないが、就職活動がどう転ぶか分からない中で、とりあえず参考までにこの資料くらいはもらって帰っても損はないだろう。それくらいのつもりで、セミナー会場を後にした。
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