第2話 廃屋
香山家は、この大和川周辺と近鉄河内松原駅とのちょうど中間くらいにあった。風光明媚というわけでなく、都会というわけでもなく、特徴といえば生活道路の狭さくらいの町だが、大阪市に隣接したベッドタウンという意味ではそれなりに人気がある。
仁志の家は祖父の代から営まれていた縫製工場の敷地の中にあり、建物は古くてもその土地のおかげで広々としていた。縫製工場そのものは仁志が生まれた頃にはすでに廃業しており、父がその一角を利用して食堂を経営していたのだが、それも廃業してしまっていた。廃屋のうらぶれた雰囲気が、晴れた昼下がりであるにも関わらず、敷地内にやりきれないような寂寥感を漂わせている。形ばかりの門柱には、「香山食堂」と書かれた看板が外されもせずに居座っている。門扉もついていないその正面に立つ食堂の跡は、元工場の鉄骨が頑丈に残されているため、古ぼけている割に傾いたりしている様子はない。
仁志は金沢の大学を卒業し、そのまま就職し、結婚した。本当はイラスト関係の仕事をしたくて大学もその方面に進んだのだが、残念ながら才能の方はあまり伸びず、かと言ってその業界から大きく離れる気にもなれず、出版関係の営業事務をしていた。両親が高齢になってきたのを見かねた妻の提案もあって、四十歳になったのを契機に実家の食堂を継ぐために、思い切ってこの町に戻ってきたのだった。
いきなり食堂を継ぐよりも、飲食業について修行をしておいた方がいいだろうということで件の会社に就職したのだが、そんな話を持ち出せないでいるうちに父が体調を悪くして、思ったよりも早くに食堂を閉鎖することになり、そのまま会社に居座ることになってしまった。戻ってくるのが、少し遅かったかな、と仁志は思うこともあるが、口に出したことはない。金沢での仕事にもやりがいも感じられないままでいたところを、妻の一言に背中を押されるようにして辞めたというのが本当のところだった。
当時はまだ小学生だった息子の拓也は、灯りの消えた食堂を怖がって、暗くなってから帰宅することを嫌がったものだ。だから、息子が帰宅する頃に合わせて、営業していないはずの食堂の灯りをわざわざ点けてやったりもしていた。この店舗跡を見る都度思い出すのはそういったとりとめもないことばかりで、仁志自身がどうしたいといった思いはなかった。だから、廃業して十年にもなるというのに、取り壊すでもなく活用するでもなく、そのままの状態でただ時間だけが愚図愚図と流れてしまったのである。
敷地の奥にある自宅は店舗そのものよりは築年数は短いが、それでも仁志が物心ついたときから育ってきた家である。老朽化してあちこちに不具合が出ていた。しかし、修繕をするとか建て直すとか、といった決断をすることも先延ばしにしているという状態で、いつ雨漏りがしてもおかしくはない。
「ただいま・・・・・・」
と小さく声をかけた。が、返事はない。新婚の頃は、いや、この家に引っ越してきた当初はまだ、仁志が帰ってくると妻はわざわざ戸口まで迎えに出ていたものだが、いつの間にかそんな習慣はなくなっていた。代わりに息子の声が、背後から聞こえた。
「おかえり・・・・・・ただいま」
息子も今帰ってきたばかりらしい。倉庫になっていた、廃工場の方にいたのだという。頑丈な鉄骨がむき出しになっているので、ぶら下がって懸垂をするのにちょうどいいらしい。小学生のころは怖がって近寄りもしなかったくせに、いつの間にか図体も大きくなり、そんな風に活用するようになっていた。身長だけだと、父親の仁志を追い抜いたのはずいぶん前のことになる。うっすらあごに無精ひげまではやしている。頼もしいような面映ゆいような気がするが、そんな気持ちを本人に告げたことはない。
「お母さんは、買い物でも行ったのか」
と尋ねると、
「買い物とは違うやろうな。日曜はいつも出かけてるみたいや」
何やら意味ありげに答えるので、気になった。
「出かけてるって、どこへ」
「知らんがな。直接聞いたらええやん」
とそっけない。そろそろ定職を探したらどうだ。この息子についても、顔を見る都度何か言おうとすれば口をついて出てくるのはそんな言葉ばかりだった。拓也は高校を卒業後、一応大学に進みはしたがほとんど行かないままで、辞めてしまっていた。言葉だけは元々父親の影響を受けていたこともあったので、すっかり大阪弁だが、金沢から転居してきて以降、大阪の町に馴染めないままで、時間が経ってしまったらしい。いじめられたとか、ついていけなかったとか、そんなことはなかったと思うのだが、何を考えているのかはっきりとは言わない。一応アルバイトはしていて、まがりなりも家に生活費らしきものも入れているので、母親はもう少し長い目で見てやって、とかばうのだが、仁志にすれば歯がゆくて仕方がない。
「今日は、バイトは休みなのか」
他に気の利いた話題も見つけられなかったので、とりあえずそう聞いてみたのだが、
「辞めた。またすぐ探すから」
とだけ言って、さっさと二階に上がっていった。
「な、な・・・・・・」
とっさに言うべき言葉が見つからず、呆然としている間に拓也の姿は階上に消えてしまい、それ以上内容を確認することができなかった。まあ、いい。いつまでもアルバイトを続けられても困るし、これを機に、ちゃんとした就職活動をしてくれたら。それにこちらも、息子の仕事のことを四の五の言える状況でもない。仁志は自分にそう言い聞かせるようにして、靴を脱いだ。
結局、妻のみどりが帰ってきたのは午後遅くだった。拓也はいつものことで慣れているからか、昼頃に台所でごそごそとして何か食べていた様子だった。
仁志はみどりが帰ってくるのを待とうと思ううちに昼食を食べ損ねたままでおり、空腹も手伝って、せっかく話しにくいことを話そうとして戻ってきたのに何をしてるんだ、と腹が立ってきた。
「あら、今日はずいぶん早いのね」
帰宅するなり仁志を見て、あっけらかんとそう言ったみどりに動揺は見られない。
「なんだ、出かけてたのか」
仁志は、いらいらしている自分の感情を悟られないように無関心を装って尋ねたが、みどりの方はそっけない。
「うん、ちょっとね」
あるかなきかの気まずさを感じ取った仁志は、
「一体どこへ行ってたんや。拓也に聞いたら毎週出かけてるって言うやないか。何か知られてマズイことでもあるのか」
と、我ながらまるで気の利いていない、むき出しの責め口調に、平静を装うことに完全に失敗したことを自覚したが、抑えられなかった。
みどりとは大学生のころに知り合った。兼六園の向かいにある喫茶店でアルバイトをしていたみどりに、仁志の方が一目ぼれをして、何度も通ううちにマスターに気持ちを見抜かれた。
「香山君、みどりちゃんの誕生日の日、シフト入れておいたからね。あとは自分で頑張ってね」
といらぬおせっかいをされた挙句、意を決してその日に花束を持って行って告白したという、今思い出しても顔が赤くなるようななれそめだった。
結婚して四半世紀が過ぎ、いつの間にかあの頃の情熱はどこへやら、という感じになってしまっていたが、自分の知らないところで妻が出かけているということを知ると、穏やかならぬ感情がざわざわと湧き上がってくる。まさか、浮気でも。
しかし、センスのかけらもない仁志のぶしつけな質問に、返って来たみどりの言葉には肩透かしをくらうことになった。
「マズイことなんかないわよ。駅前の教会に行ってただけ。浮気でもしてると思ったの?」
「はあ、教会? ……なんで今さらそんなところへ」
聞き返しながら、そう言えばみどりが若いころに教会に行っていたという話をなんとなく思い出した。
「今さらって、別にいいじゃない。とってもいい教会なのよ。明るくて家族的で。歯医者さんに勧められたのよ。そこの先生も、行ってらっしゃるからって」
「学生やあるまいし、だまされてるんとちゃうんか。お布施とかそのうち山ほど要求されるぞ」
「そんなんじゃないわよ、それこそ何時代の人なの。それはそうと、お父さんこそ、なんで日曜に家にいるの。仕事、どうしたの」
問い返されて、仁志ははっと我に返った。まずい。本題を忘れていた。言い出すタイミングを完全に間違えた。
「それは、その」
そもそもそんなに考えた挙句のことでないだけに、うまく言葉が出てこない。口ごもっていると、今度はみどりの方が何か察したらしく、詰め寄って来る。
「なに、どうかしたの。なにかあったの」
すっかり形勢が逆転してしまっている。仁志は追い詰められ、焦ったが今さら隠すわけにもいかなくなり、しどろもどろに答えた。
「それは、その、実は辞めた」
「はあ? 何よそれ。何にも聞いてないけど」
当たり前だ。こっちだって何にも聞いてない。仁志は投げ捨てるように、答えるしかなかった。
「つぶれたんや。倒産した。俺にもわけが分からん。大丈夫、次の仕事、探し始めてるから。すぐに見つけるから」
一気に言った。みどりは少しだけ目を見開いて大きく息を吸い込んだ後、すぐに穏やかな口調で言った。
「そうなんだ。大変ね。でも無理はしないで。なんだったら、わたしも勤めに出るから」
拍子抜け、とはこのことだった。鋭い質問攻めに遭って追い詰められるか、ののしられるか、それとも泣き出されるか、いずれにせよ、ろくな反応ではないだろうと身を硬くして構えていたが、そう物わかりよく返されてしまうと、かえってこちらの立場がなくなる。
「とにかく、昼めし、食べてないんや。何かないか」
とぶっきらぼうに答えるしかなかった。照れ隠しのようなところもある。教会のこと、ほどほどにしとけよ、と言いかけた言葉を、仁志はあやうく呑み込んだ。
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