最も小さき者
十森克彦
第1話 大和川
町の中では、空は家々の軒の形に小さく切り取られて、しかも行き交う電線のために、縛り上げられたように縮こまってしまっている。しかし、小高い丘ほどに盛り上げられ、町を見下ろす形になるこの堤防の上に立つと、よく晴れて透き通った秋の空が視界のほぼ全てにのびのびと広がって、青く光っていた。
足下には大和川とその河川敷が東西に伸びていて、西の方は海に注ぎ出しているはずだが、途中で大きく曲がっているため、町並みが広がる風景が空との境界になっている。反対に、上流になる東は、両側に広がる町並みと共に、緑に覆われた堤防が、生駒連山のふもとにまで続いている。地図の上では奈良県の桜井市の方にまでさかのぼっているようだが、もちろんそんなところまでは見えないので、大阪平野の全体が地平線に横たわる山々に区切られた、一種の箱庭のように感じられたりもする。
香山仁志は、子供の頃から、気持ちをのびやかにしてくれるこの堤防の上から眺める風景だけは好きだった。
「これで水がきれいやったら言う事ないねんけどなあ」
父親がいつもこぼしていた愚痴が、いつの間にか自分自身のものになっていた。確かに大和川の水質は、全国の河川のランキング中でも最下位に近い。水質改善、なんて言っているが、実際にここに立つと、お世辞にも清らかな流れとは言い難い。第一、川原からなにから、ゴミだらけだ。
大学進学のために高校卒業後は金沢に住んだ。金沢は食べ物もうまいし、観光資源も豊富でよく整備されている。それに町がとても清潔だった。夏はフェーン現象のおかげでとても暑いし、冬には雪が積もって寒い。気候的に決して住み易いわけではなかったが、やはり快適だと感じていた。そのせいもあって卒業しても帰らず、そのままに金沢に住みついて都合二十年近く、いた。
その金沢を引き払い、故郷の松原に帰って十年になる。物心ついた時からずっと目にしてきた風景なのでさして気に留めることもなかったが、他の町並みを経験した上で改めて見ると、ごみごみとした雰囲気がとても目につくようになってしまった。道路は狭いし、歴史が古い割に観光名所もない。食事もこれ、という名物がないし、交通マナーにいたっては、最悪だ。この大和川のゴミだらけの川原が何かを象徴しているようだ。
「まあ、どうしようもないけどなあ」
それらのどれ一つをとっても、自分一人が嘆いたところで、何が変わるものでもない。それでも、散歩に出かけようとすると他には思いつかないので、何度もため息をつきながら、仁志は堤防の上をぶらぶらと歩いていた。
川原には、昔はなかった遊歩道が新たに整備されたようだが、あんまり人はいない。季節にもよるのだろうけれど、雑草が伸び放題で、公園というより廃墟のような感じがした。増水するたびに、ヘドロを含んだ大和川の底になっている。そのためなのか、敷き詰められたレンガも黒ずんでいて、実際の年月以上に古びて見える。見上げた空の広さは別として、足下に広がるその荒れた川原の風景が気分を余計に滅入らせる。
「それにしても、なあ」
家を出てから何度目かの独り言を繰り返した。先週、勤めていた会社が突然、倒産した。光中コーポレーションという、大阪を中心にいくつかの飲食店を経営する会社で、過剰投資で資金が焦げ付くという、よくある話だ。ああいうのを招かれざる客、というのだろうか。まだ暑いのにひまわりのマークの金バッジを胸に光らせたスーツ姿の男が、管財人になったと言って店舗を訪れたのだ。雇われ店長の仁志は、わけの分からないまま私物だけを持って帰宅を余儀なくされた。倒産に伴い、退職ということになるが、給与や退職金の支給を含め、具体的な手続きについては追って連絡する、とのことだった。けれども、あまりに急な展開に自身の気持ちもついていけず、家族にも言えないままで幾日かが過ぎていた。
待機しておいてくれ、ということだったが他にすることもなく、かといって家にいるわけにもいかず、出勤するふりをして毎日家を出て、ハローワークに通っていた。オンラインでつながっている以上、どこに行っても検索できる求人情報は同じだと分かってはいたが、雰囲気が違えば見方も変わるかもしれないと、住所地の管轄である藤井寺だけでなく、阿部野や堺まで足を延ばしてもみた。要するに気休めに過ぎない。
五十を過ぎた仁志に都合よい転職先がすぐに見つかるわけもなかった。日曜日の今日などはそのハローワークすら閉まっているので、家を出てはみたものの、行くあてもなく、駅とは反対方向の、このあたりまでぶらぶらと歩いてきたのだった。
仁志は自分の独り言が、思いのほか響くことにも驚いていた。日曜の町がこんなに静かなものとは知らなかった。繁華街で飲食店に勤務してきただけに、土曜や日曜は平日よりもにぎやかな環境だった。長い間その生活を続けてきたので、日曜の昼間に自宅付近でゆっくり過ごしたことなど、ほとんど記憶にすらない。
「それにしても、なあ。どっかにうまい話、落ちてへんかな。リスクも少なくて、楽に儲かるような、おいしい話」
どのみち、誰も聞いていないだろうと思って、虫のいいことを言ってみるが、当然空しく響くだけである。
そのまま堤防の上をぶらぶらと歩いて、近鉄南大阪線の踏切が見えてきた辺りで一旦立ち止まり、周りの景色を見るともなく見渡してみた。すると川原の遊歩道で、地面に足を伸ばして座り込んでいる人影を見つけた。距離があるのでよくは見えないが、ほぼ真っ白な髪はきれいに整えられていて、着ているものも清潔感があり、きちんとした身なりの初老の男性だった。それがなんであんなところに座り込んでいるのだろう。もしかして体の具合でも悪いのかと思ってよく見ると、地面ではなく、板切れのようなものの上に座っているのが分かった。どうやら、スケートボードのようだ。この男のものなのか、それとも誰かが捨てて行ったものだろうか。関わるのは面倒くさそうだと仁志は思ったのだが、何故か目を離す気になれず、その姿に見入っていた。
男はしばらく、じっとそのままで座っていたが、やがておもむろに、小さく身じろぎをしたかと思うと、足を動かして、スケートボードを漕ぐようにした。ローラーが転がり、男は距離にして数歩分、移動した。それも後ろに向けて、である。
「……海老か」
仁志は思わず口元だけの小声で突っ込んだ。そして、次はどうするんだろうと思いながら様子を見ていたが、男はそれきり停止し、再び動く様子はなさそうだった。
「けったいなやっちゃな」
やはり自分だけに聞こえるような小声で独り言のようにつぶやいてみたが、その風変わりな風景は妙に印象に残った。男の周りと自身の日常では、時間の流れ方が全く異なるような気がした。意味もなく湧き上がってきたうらやましさに似た感情に少し戸惑いながら、仁志は踵を返して再び歩き始めた。
そうして元来た道をぶらぶらと歩くうち、漸く疲れてきた。ハローワークだと、検索用パソコンの前に座って求人情報を探し、制限時間が来れば、一旦席を立つ。近くの商店街なり百貨店なりを冷やかして、時々コーヒーを呑んでまた検索をしに戻るという調子で、それなりに変化がある。けれども、この付近ではそうもいかない。工場があってその前に自動販売機が置いてある程度で、あとはいつからあるか分からない古いラブホテルが数軒。スケボー海老老人の姿と比べ、家族に倒産のことを言えないでいるというだけの理由で、こんなところでおろおろしている自分が馬鹿馬鹿しくもなり、仁志は自宅に戻ることにした。思い切って妻に話してしまおう。そう決めると少し気が楽になった。
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