第10話『一枚の写真』


「お墓の方には明日行ってみます」私はそう言った。

「客間で良ければ、お泊りになられますか」

「いえ、ビジネスホテルを取っていますので……」


 私は嘘をついた。別にこの家が嫌だったわけではない。ソラちゃんの死があまりに唐突だったので、今晩は一人になってゆっくりと考えたいと思っただけなのだ。


「そうですか」

「はい、では、失礼します」

「それでは、こちらをお持ちになられますか」


 そう言って清美は一冊のアルバムを差し出した。


「これは?」

「皆に形見分けした残りのものです。どうぞどれでもお好きなものをお持ちになってください」

「では、失礼して」


 そこには私の知らない成人したソラちゃんが居た。ショートヘアの良く似合う美人に成長したようだ。赤のフレームの眼鏡をかけて白衣を着た写真が多い。どの写真の彼女も幸せそうに私に微笑み掛けて来る。

 その中で一枚、物憂げな笑みを浮かべ海辺にたたずむ彼女の写真に目が留まった。優し気ではかなげに微笑むその表情に見覚えがあった。


 ――どこで、それを見たのだろう? 記憶には無いが、いつかどこかでその表情を見たはずなのだ。


 私はその写真をアルバムから取り出した。


「この写真をいただきます」

「一枚でよろしいですか」

「はい、この一枚で」


 私はその写真を手帳に挟みバッグへ仕舞った。


「それでは私はこの辺で失礼します」

「何かありましたら、何時でもいらしてください」

「はい、分かりました」


 そう挨拶して私は村田家を後にした。



 門を出て白壁の続く通りを歩きだす。この辺りは武家屋敷の多く残る地域として萩市の中でも有名な観光地である。

 歩きながら携帯電話を取り出し事前に調べておいたホテルに予約を入れた。無事、ホテルの予約が取れたことを確認しホテルへと向かった。


 彼は誰時かはたれどきの城下町は人気も無く寂しげだ。車の往来の音も遠く、ただ小さく風の音だけが聞こえて来る。静寂に包まれたこの町を歩いていると、まるで幕末の頃の日本へと迷い込んでしまったかに思える。


 私としてはこれくらいの静けさは心地よい。ソラちゃんはどうだったのだろう。

 いいや、きっと彼女なら心配はいらない。彼女には人を引き付ける魅力があった。恐らく楽しい日々を過ごしていたに違いない。私は足早にホテルの建つ市役所の方角に向けて進んだ。


 途中、酒屋を見つけたのでウイスキーとショットグラスを買ってきた。銘柄は金の無い学生時代に良く愛飲していたブラックニッカクリアである。癖のなく飲みやすいウイスキーなのだが、ストレートで飲むより水割りやハイボールの方がおいしく感じる酒である。


 小一時間ほど歩きホテルに到着した。左程大きくは無いビジネスホテル。旅館と言った方がしっくりくる佇まいだ。扉を開けて中へと入る。目の前にすぐにフロントがあった。そのままチェックインを済ませ部屋へと荷物を置かせてもらいに行った。


 このホテルでは食事は出ない。隣に併設されているレストランで勝手に注文するシステムだそうだ。私はレストランへと向かった。まるでドライブインを思わせるレストランでかつ丼定食を注文し夕食を済ませた。

 ホテルに戻り狭いロビーのソファーに座り新聞を手に取った。いつも読んでいる新聞と内容はたいして違わない。国会での審議は進んでいないし、マンションは高騰している。


 ふと目の前の自販機に目が行った。コンドームが売られている。アダルト番組をご視聴になられる方はこちらをご購入くださいと張り紙されてカードも売られていた。こんな所で需要があるのだろうか?


 私は早々に部屋へと戻り、スーツを脱ぎ捨てシャワーを浴びた。頬を伝わり落ちていくシャワーの雫。今日は少し歩きすぎた。熱いシャワーを浴びていると、普段アトリエに籠って絵を描いている生活をしているせいか、疲れが急にどっと出てきた。重くなった手足を動かしてバスタオルで体を拭いた。


 新品のトランクスに履き替え、寝間着用に持ってきた黒のジャージに着替える。窓際の椅子に座り買って来たウイスキーを開けた。ショットグラスに軽く注ぎ一気に呷る。飽きの来ないモルトの香りのまろやかな味わいが口腔を満たす。一応、先日の二日酔いで懲りたのでスポーツドリンクも買ってきている。私は少しだけ進歩している。


 窓の外には道路を挟み夜の公園が見えている。行き交う車も少なく静かな夜になりそうだ。

 私はバッグからソラちゃんの写真を取り出した。


 よく思い返せば彼女と過ごした時間は一年と数か月くらいだった。

 確か小学四年の秋から五年の二月くらいまで……。最後の方は家の事情でごたごたが続いていたせいか、まだあまり思い出せない。そう言えば怪我をして入院したのは彼女と別れる前だったろうか? 後だったろうか? あやふやな記憶だ。


 それでも今日ここに来たのは、手袋が送られてきたときに感じたあの感情の所為だろう。あの気持ち……。心が疼くような、そわそわと焦るような……。それでいて心地よい。

 だが、彼女の死を告げられた時から、もうそれを思い出すことは出来なくなった。

 確かにあったあの気持ちは、今は心の中でぽっかりと大きく口を開けた穴になっている。

 きっとソラちゃんは当時の私に沢山の初めてをくれた人だったのだ。


 初めてできた学校外の友人。初めての異性の友達。絵を始めたきっかけをくれたのもソラちゃんだった。そして、この気持ち……。


 きっと、これが私の 〝初恋〟 だったのだ。



 拭き残したシャワーの雫が頬を伝わる――。

 ウイスキーのアルコールが心臓を熱くする。

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